憚らず謀る
僕は消火器を持ち上げて底の部分を確認した。先輩の血が付いているか確認をしようとしたが、もともと赤いので判然としない。触って確認しようかとも思ったが、血を触る事にも抵抗があるし、トイレの床に一度置いた事に対しても抵抗があった。
「この消火器はどこのやつだ?」
「食堂の出入り口にあったやつよ」
「なるほど」
「さっきから、何をしているの?」
「いや、証拠隠滅の為に血が付いているなら拭いたほうがいいかなって」
荒井も消火器の下を覗き込んだ。男子トイレという特殊な空間で、二人の距離が一気に近くなった。荒井が近付くだけで僕は呼吸の仕方を忘れそうになる。鼻から吸って口から出した息が臭い可能性もあるし、鼻から吸って鼻から出せば豚みたいに思われるかもしれない。口から吸って鼻から出せばいいのか、口から吸って口から出せばいいのか、混乱した僕は少しだけ息を止めた。荒井の美しさに息が詰まったのは仕方ないが、そこから呼吸方法が判然としないのは僕が格好つけているせいだろう。
直ぐに苦しくなって鼻で空気を吸った。男子トイレの不快な臭いと、荒井の日焼け止めみたいな匂いが混ざって、僕の鼻腔を刺激してから肺を膨らませる。
「血なんて付いていないんじゃない?」
少し酸欠気味になりながらも、僕は「どうだろう」と平然を装って答えた。
「よく解らないわね」
「まぁ、大丈夫だろ」
「そうね」
消火器を検分していると足音が聞こえた。僕と荒井がトイレの入り口に目をやると、知らない男子生徒が一人やってきて、こちらを見て「わっ」と驚いて声を上げた。男子生徒は荒井の顔を見て、それから僕の方を見て、最後に四つ並んだ小便器を見た。
「あっ、いや」
僕がそう言うと男子生徒は「間違えた」と言い残して、踵を返して逃げるように去っていった。あの男子生徒は何かしらを察してくれたのだろう。
「さっきの人、逃げるように出て行ったけど、もしかして女子トイレと勘違いしたのかしら?」
「それはないな」
「どうして?」
僕は鼻を鳴らしながら「臭いよ」と荒井の物真似をした。匂いで食堂の位置を当てられるように、臭いで男子トイレかどうかくらい解るだろう。
「由紀夫は女子トイレがラベンダーの香りがするとでも思っているの?」
「ラベンダーじゃないなら薔薇のほうか?」
「今度入ってみるといいわ」
「案内は頼む」
「私が案内なんてしなくても、化粧品とスカートなら貸してあげるわ」
僕は荒井に「それなら、僕は君に胸パッドを貸してあげるよ」と言おうと思ったが、流石に失礼な気がしたので堪えた。気の利いたジョークが思いついても、言ってはいけないこともあるのだ。
荒井と下らない話をしていると予鈴が鳴ってしまった。五分後には授業が始まってしまうので、それまでに急いで消火器を元の場所に戻さないといけない。
僕は消火器を再び置いて、荒井に「安全ピンは?」と尋ねた。荒井は小動物みたいに愛くるしく首を傾げてから、何かを思い出したかのように握り拳を差し出したので、僕は両手を受け皿のように構えた。小さくて白い手が開かれると、僕の手に黄色い安全ピンが落ちてきた。
「それって戻せるの?」
「解らない」
僕は何とかしてピンを突き刺そうとしたが、どうやっても上手くいかない。授業が始まるまで時間がないので、早く消火器を元の位置に戻したいが、ピンが刺さる気配すらない。消火器を床に置いているので、屈みがら作業をしていると脚が痺れてきた。
僕が必死にまごついている間も、荒井は他人事のようにスマホを触っている。流石に文句を言おうとした所で、荒井は急に「貸して」と言って屈んだ。消火器を挟んで僕達は向き合う形になった。
荒井は足を完璧に閉じていたが、少しだけ白い布が見えてしまったので、僕は驚いて立ち上がった。勿論、屈むのをやめたという意味だ。突然の出来事に焦りすぎたせいか、膝下に血が巡っていなかったせいかは判然としないが、立ってから少しよろめいてしまった。もっと紳士的に立ち上がるか、もっと変態的に見物すればよかったのだが、あまりに急な出来事だったので焦ってしまったのだ。
「貸して」
白だ。白色だった。白の下着。白のパンツ。ただそれだけだ。
パンツが少し見えたくらいで何かしらの特別な感情を抱くような年齢ではない。たかだかパンツだ。インターネットを介して、もっと過激なものを毎日見ている僕が、白いパンツを見たくらいで動揺するわけがない。
「ねぇ?」
いくら思春期で多感な時期といえども、パンツ程度で何かしらを感じるような人間は変態であって、僕はそういった類の人間では決してないのであるが、少しだけ心が揺らいでしまうような純情さは持っているらしく、それは、僕が感受性が豊かに発展している素晴らしい模範的な青少年だという証明にもなるのではないだろうか?
「由紀夫?」
憚らず謀った結果の事象ならば反省すべき点はあるだろうが、突発的で回避が不可能な事態でこうなったのだから、罪の意識を抱くようなことがあってはならないし、かといって偶然の産物を幸福として受け止めるのも間違っているので、仏教でいう所の「無」ではなく「空」の思想で鑑みるべきだ。
「ねぇ、ってば」
少しだけ考え事をしている僕の脛が、何かに触れられたような気がした。下を見ると荒井が「おい」と言って脛を殴っている。荒井の上目遣いが美しすぎたせいで、何を考えていたのか忘れてしまった。恐らくは殊勝で高尚で素晴らしい何かを考えていたのだろう。
僕は白々しく「何だ?」と言ったものの、白で思い出した事が頭を埋め尽くす。再び深い思考へ潜り込んでしまいそうになったが、それは自室のベッドの上で考えればいいだろう。
「こっちの台詞よ。大丈夫?」
「ただの立ちくらみだ」
「それならいいのだけど」
荒井はそう言って僕に手を差し出した。斜め上に突き出された真っ白な腕は助けを求めているようで、開かれた五本の指は僕の手を求めているようだ。荒井の手を思わず握りたくなったが、それを堪えて「何だ?」とだけ僕は言った。
「貸して」
「何を?」
「安全ピン」
「えっ?」
「黄色いやつ」
僕はそこでようやく思い至った。パンチラに味を占めていている場合ではなく、この握り締めすぎていた安全ピンを何とかしないといけないのだった。僕は「ぁあ」と言ってから、手汗で汚れた安全ピンをシャツで拭いてから渡した。荒井は怪訝な顔を浮かべながらも受け取った。
「何をしてもはまらないぞ」
「そんな事ないわ」
荒井はそう言って簡単に安全ピンをはめた。あれだけ苦労していた僕が馬鹿に思えてくる。あまりにも簡単に安全ピンを戻したので、どうやったのかは判然としないが、そんなに複雑な事はしていないはずだ。荒井からすれば僕は簡単な知恵の輪に苦戦する賢い猿に見えていただろう。
「荒井は天才だな」
「スマホで調べたのよ」
安全ピンを引き抜く際に破れたシールは元に戻らないが、目立たないように修復しておいた。幸いな事にテープは粘着性を保っていたので、切れ目に合わせて綺麗に貼り付けておいた。
「消火器に関して荒井はプロフェッショナルだな」
「それは褒めているの?」
「当たり前だ。消火器を鈍器にしたり、相手を脅す道具に使ったり、制圧に利用したり、火を消すこと以外でも消火器を使えるなんて、馬鹿な僕は知らなかったよ」
「このホースを使えば」荒井はそう言って消火器のホースを触った。「無駄口を叩く奴の喉を締めて黙らせる事もできるわよ」
僕は荒井から消火器を取り上げて、紳士的に「これは僕が戻しておくよ」と言った。荒井は微笑みながら感謝の意を伝えたが、その蠱惑的な笑顔が僕には怖く感じた。心なしか首が締まって呼吸がしにくいような気がする。さっきから僕は息を呑んでばかりだ。
ノガミマコトでさぁ☺︎
馬鹿げた話ですね……
無駄な話に思えますが、将来の彼と対比させる為に書きました!!
彼も成長しますよ( ͡° ͜ʖ ͡°)




