上手く乗れない
「時々、思うのよ」と荒井はゆっくりと言った。こういった空気で放たれる言葉は、大概が碌でもない発言だと相場で決まっている。晴れている空も心なしか曇ってきたし、彼女の表情は心ここにあらずといった感じだ。
なかなか続きを言い出さない荒井に、僕は「何を思う?」と続きを催促した。
「私がおかしいのじゃなくて、この世界がおかしいんじゃないかってね。世の中がおかしいから、普通な私はやっていけない。自分もおかしくなるしかない。それともおかしいのは私自身で、私だけが間違っているのかもしれない。どっちにしてもまともじゃない。まともじゃない世の中を渡るために、私もまともじゃいられない。生きる事も死ぬ事も諦めて、生きながら死んで、死にながら生きる日々を耐える為に、私はまともではいられない」
僕には荒井が言っている事が漠然とではあるが理解できた。どちらかと言えば僕だってまともな人間ではないし、逆に周りがまともかどうかと聞かれれば首を傾げてしまう。皆がまともではないのなら、まともの基準は何処にあるのだろうか。大衆的で一般的で平均的で民主的で、僕は抽象的な物が大嫌いだ。
「正解なんてないのかもしれない」と僕は言った。ソクラテス先生ならなんて言うだろうかと考えながら、僕は次に続く言葉を探す。「世の中は白と黒だけじゃない。正解か不正解かで考えると、きっと何もかもが間違っているように感じてしまうのじゃないかな?」
「じゃあ、それを知っている人はどの程度いるの?」と荒井は少しだけ怒りを含んだ声で言った。「正解なんて無いって事を、白と黒以外があるって事を、その当たり前の事実を皆が知っているとは思えない。みんな自分の中で正解を持っているし、だからこそ自ら白になろうと努める。そしてそれ以外の色には寛容になれない。自分が信じた色を他人に押し付けてくる。自分がまともだと思っている狂った人間と、自分は狂っていると自覚して、周りから押し付けられたものに迎合できない人間。そもそも私は人間に向いていない。私に巣食う希死念慮から、私を救うものはないのよ。自力ではどうにも出来ないし、他力に期待なんてしていない。神様は居ないの。いや、もしかすると神様を信じていないからこんな事になっているのかもしれない。神様は私の信用を勝ち取れなかった訳だし、私は神様を信用する価値も依存する意味もないと思っている」
荒井は途中から自分でも何を言っているのか解っていないようだった。
「僕も人間に向いていないし、神様なんて信じちゃいない」
「いっそのこと一緒に死んじゃう?」と言って荒井は微笑んだ。いつも彼女が浮かべる微笑みとは種類の違う笑顔だ。彼女の表情は微笑みがスタンダードになっているが、僕はその微笑みを細分化できるようになってきたのかもしれない。
「ドーナツを食べたくらいの仲じゃあ、一緒に地獄へ落ちてから気まずくなるかもしれないじゃないか」
荒井は更に深い笑みを浮かべ、気分を沈めるように「それもそうね」と言った。僕は神様がどうだとか、死ぬのがどうとか、生きるのがどうだとかに、少しだけうんざりし始めていた。荒井には生きる意味がなくとも生きる価値は充分にある。そういう面では僕とは大違いだ。
「それ、ちょっと乗ってみても良いかな?」僕は荒井のスケボーを指さして話を変えた。
「由紀夫は何だか危なっかしいから、気を付けて頂戴よ」
荒井は僕にスケートボードを渡して、心配そうな顔を浮かべる。彼女の移動手段が壊れるのに気を付けろという意味なのか、僕の身体を心配しているのかは判然としないが、彼女の方が僕より何倍も危なっかしくて、気を付けるべきで、他人を心配させている筈だ。
「これって、どうやって乗るんだ?」
「まずは鍵を刺してエンジンを掛けてみて」
「冗談はよして、ちゃんと教えてくれよ」
「冗談を先に言ったのは由紀夫の方じゃない。見れば解ると思うけど、板の上に乗って足を動かすだけ。それとも、足を上げる方法を本気で教えて欲しかったの?」
親切じゃない荒井に対して、僕は「じゃあ、ブレーキは何処に付いている?」と尋ねたが、彼女は両手の平を空に向けただけだった。とりあえず乗ってみるしかないだろう。今日の僕は行き当たりばったりで色々なものに乗ってきた。荒井に乗せられてしまうのだ。
ランニングコースにスケートボードを置いて、荒井のように颯爽と進もうとしたが、スケートボードだけが前に進んで、僕自身は地面にこけてしまった。横からこけたせいで自分の肘が横腹に食い込むように当たり、肋骨が折れたのではないかと心配するくらいの痛みを感じた。少なくともこの数秒で僕の心は見事にへし折れた。
僕が悶えながらランニングコースで横たわっていると、荒井は声をあげて笑い始めた。彼女が声をあげて笑う姿を見るのは初めてだ。いつも張り付けている偽りの微笑みではなく、そこらのティーンと同じような笑いだ。無邪気で本気の、混じり気と品がない純度の高い笑みだ。爆笑という類のやつだろう。そんな笑い方も出来る荒井を見ていると、僕は何故だか安心感を抱いたし、こけて肋骨が折れそうになった甲斐もあっただろう。
荒井はひとしきり笑った後、遠くに飛んでいったスケートボードを拾って、僕がしたかったように颯爽と乗りこなして戻ってきた。僕が地面に座りながら脇腹をさすっていると、荒井は「大丈夫?」と心配してなさそうに言った。彼女の顔には爆笑の余韻が隠しきれていない。
「大丈夫だ」と僕は言って立ち上がった。「折れた肋骨が肺に刺さって呼吸が出来ていないけど、全く心配しなくても大丈夫だ」
「ほら」荒井は憎きスケートボードを僕の足元へ転がした。「今度は私が手を持っていてあげるから、とりあえずボードの上に立ってみて」
荒井の手を持つという提案には乗りたかったけど、スケートボードには乗りたくなかった。僕が逡巡していると、彼女は僕に右手を差し伸べる。
「少し乗っただけで肺に穴が開いたんだ。このまま続けると、スケートボードじゃなくて救急車に乗る羽目になりかねない」
僕がこけた時の事を思い出したのか、気の利いたジョークが面白かったのかは解らないが、荒井はまたも声を出して笑った。恐らくは前者だろう。僕は彼女を笑わせているというよりは、彼女に笑われているのだろうが、何故か悪い気はしなかった。
「あんなに、おもいきりこけている人初めて見たわよ。ほんと、由紀夫は面白いわね」
「意外と荒井にも嗜虐的な一面があるな」
「意外と由紀夫にも自虐的な一面があるのね」
「どっちにしても、僕はスケートボードに向いていない。滑れる気がしないし上手く乗れない」
「いきなり前に進もうとするから体が付いていかなかったのよ。それに、由紀夫は笑いでは絶対に滑らないから安心して」
心と体が付いていかずに停滞するのは、スケートボードだけに限らない。僕はいつだってそうだ。そんな僕を、きっと荒井なら笑ってくれるだろう。
「ほら」と荒井は再び言って、今度は両手を僕に差し出した。
「冗談抜きで、これに乗ったら僕は傷だらけになってしまう」
「私ほどにはならないでしょ?」
僕に差し出した荒井の両腕の傷は、太陽の光を浴びても当然癒えていなかった。僕が思っているよりも致命的で、彼女が考えているよりも傷は深くに達している筈だ。荒井をどうにか出来ると勘違いするほど僕は馬鹿じゃないけど、彼女にもっと近付きたいと思ってしまうほど馬鹿なのだ。僕は少しだけ逡巡した後、傷だらけの腕を掴んで不安定な板の上に乗った。
野神まこっとでっす☺︎
由紀夫編の第一章は終わりです!!
(由紀夫編は第四章まであります)
次からは【初めての友達】という話が始まりますが
読んでも読まなくてもいいような話ですし
早めに終わらせて由紀夫編の第二章へ続けます★




