当て馬の使命
「やあ、ルーカス」
ノア様はヘラッと笑顔で片手を挙げた。ルーカス様はじっと動かないまま私たちを……私を見ている。
(――どうしよう、聞こえたかしら)
胸の音が、信じられないくらい速く聞こえる。
挨拶、挨拶をしなくちゃ。ああでも、身体が動かない。どうしよう、嘘をついてしまったわ。
ルーカス様がエスコートしているご令嬢が、いつまでも動かないルーカス様を見上げた。その視線に気が付いたルーカス様が、小さな声ですまない、と声を掛ける。
「どこかに座ったほうがいいだろうか」
心配そうに声を掛けるその姿を見て、胸がチクリと痛む。ちくちく、ちくちく。
「いいえ、大丈夫よ。まずはご挨拶してもいいかしら」
ご令嬢はそう言うと私を見てにこりとほほ笑んだ。
柔らかくて優しい表情。可愛らしくて、けれど落ち着いた大人の女性。淡いブルーのドレスにルーカス様の瞳の色とそっくりな宝石が胸元で光っている。ちく、ちくちく。
「は、はじめまして。ダフネ・ボアネルです」
「はじめまして。ララ・シャルロットです」
女性は少し離れた場所でルーカス様と腕を組んだままふわりと微笑んだ。聞いたことのない家名だ。けれど、身に着けているものや立ち居振る舞いは洗練されている。
「お会いできて嬉しいわ。あなたのお話はよく聞いていたんです」
「そう、ですか」
「やめてくれ」
「まあ、いいじゃないルーカス」
クスクスと笑うご令嬢に、ルーカス様は困ったように眉尻を下げた。
私はこの方のことは聞いていないので、何と言っていいのか分からず曖昧に笑うしかできない。ちくちく、ちくちく。
「ボアネル嬢、とても素敵なドレスですね。今日はみんな貴女の姿に釘付けだわ!」
「あ、ありがとうございます」
「本当に素敵! マダムオリビアで仕立てるのがいいってルーカスに話していたんです。やっぱり正解ね」
「……ああ」
――どうしよう、ルーカス様がすっごく私を見ている気がするわ。でもだめ、とてもじゃないけど目を合わせられない。ルーカス様の前で嘘をついちゃったんだもの!
胸がちくちくするしすごい速さで暴れてる。どうしよう、落ち着いて。ダフネ、落ち着くの。
今日はノア様のために当て馬にならないといけないのに。
「……ララ、少し休んだほうがいい」
「心配性ねルーカス。大丈夫よ、ね」
ルーカス様はふと視線を隣のご令嬢に移した。肩を竦め平気だと笑うご令嬢を見下ろして、ルーカス様は――ほほ笑んだ。柔らかく。
ちくちく、ちくちく。
胸が痛い。
なんだか黒いモヤモヤが胸だけじゃなく視界も覆っていくような気がする。
思わずくるっと二人に背を向けて、ぎゅっと目を瞑る。
「ダフネ、大丈夫?」
心配そうに顔を覗き込んでくるノア様。今日はノア様のために頑張らなければいけないのに、なんだか全然集中できない。
どうしよう、どうするんだっけ。
「あの、お、踊りませんか!?」
「え?」
ノア様が驚いて目を見開く。ごめんなさいエイヴェリー様、変な意味じゃないんです。あなたにノア様と話してもらいたいんだけなんです。
でも、でも今はとにかくここから離れたい。どうしたらいいのか分からない。
「ダフネ」
背後からまたルーカス様の低い声がする。
あのご令嬢に掛ける声とは全然違う。
「……そろそろ次の楽曲に変わる頃だ」
それまで黙っていたエイヴェリー様が突然そう言うと、すっと手を胸に当て私の前で腰を折った。
「ダフネ嬢、よろしければ私と一曲いかがですか?」
美しい薄紫の瞳を細めて、その白く長い指先を私に向けられて、私は縋るようにその手に手を載せた。
*
「お上手だ」
何度目かのステップを間違えて、頭上からおかしそうに笑いを堪える声が降って来た。
「ご、ごめんなさい、間違えてばかりで……」
俯いたまま謝ると、ふっと吐息が頭上から降ってくる。
「ステップのことを揶揄したのではない。身体が音楽を捉えるのがとても上手だ。好きなんだな、ダンスが」
エイヴェリー様はそう言うと、柔らかく私の踊りに合わせてくれる。
「は、い……。今日もとても、楽しみにしてきました」
「だが楽しそうには見えない。先ほどの紳士のせい? それとも、ノア?」
その言葉にひやりと背筋が凍った。忘れてた、私は当て馬として来たのにどうしてノア様の想い人と踊っているのかしら!
「あの、ごめんなさい、ノア様と踊りたかった……ですよね?」
「え?」
「お邪魔する気はなかったんです。その、エイヴェリー様に、ノア様と話してもらいたかったんです」
「……私が、ノアと踊る? この姿で?」
エイヴェリー様はそう言うと、ははっと乾いた笑い声を漏らした。光沢のある黒のジャケットがシャンデリアの光を跳ね返し、その肩の向こうにこちらを心配そうに見ているノア様の姿が見える。ルーカス様の姿も。
「……とても美しいです」
「ふ、ふふっ」
私の言葉にエイヴェリー様はおかしそうに笑い声を漏らす。
「あなたは変わった方だ。ノアが何か言った?」
「いいえ、ただ……とても後悔していました」
「後悔……ね」
エイヴェリー様はそう言うと視線をホールを囲む人々に向けた。きっとその先にはノア様がいるのだろう。
「あなたは私をどう思う?」
銀色の髪を靡かせながら、その人は鋭く瞳を細めた。美しい瞳だと思う。人を惹きつけ、逸らすことを許さないまっすぐな瞳。ノア様はこの瞳に惹かれたのかしら。
「初めてお会いしたのでよく分かりません。でも、とても美しいと思います、きっと心も。だって、ノア様の想う方だもの」
「ふ、ははっ! そうか、あなたは本当に……ノアが気に入るのも分かる」
「あっ、あの違いますノア様とはただの友達で……!」
「そうだろうね。ノアが君に来て欲しいと言ったんだろう。私と一人で会う勇気がなくて」
「……」
「正直だね」
またクスクスと笑うエイヴェリー様は、ふうとひとつため息をついた。
「今日を緊張していたのはノアだけではないのにね」
「エイヴェリー様も緊張していました?」
「もちろん。だからこの姿なんだ。……虚勢を張るのにちょうどいい」
そう言ってエイヴェリー様は自分のジャケットをトン、と指で示した。
すらりとした手足にフィットした燕尾服は、借り物ではなくエイヴェリー様のために仕立てられたのだと誰しもが分かるほどとても似合っている。
そして控えめに光るラペルピンには翠色の石が嵌め込まれている。それは、ノア様の瞳の色。
「ノア様にはきっとどんな姿でもエイヴェリー様が美しく映っています」
「それはどうかな」
「本当です。だってさっきも、エイヴェリー様の姿をお見かけしてノア様は固まってましたから」
遠くから見ただけでも、頬を赤くして瞬きもせず一心にその姿を見つめていたノア様。
その横顔は、紛れもなく恋をしている顔だった。
「私はお二人に何があったのか知りません。でも、どうか……お話してくれませんか? ノア様の話を聞くだけでもいいんです」
「……ここまで来たんだ、私たちは話をすべきなんだろうな」
くるりとエイヴェリー様の腕の中で回転して、何となく心が軽くなった気がした。私の今日の務めは、想像していたものとは違うけれど果たせたかもしれない。
「ところで、君はどうして嘘をついたの?」
「え?」
「ドレス。ノアが贈ったものではないだろう?」
「あ……ぇと、……当て馬に……なりたくて……」
「あてうま……当て馬?」
言葉の意味を呑み込んで、エイヴェリー様は盛大に吹き出した。笑われて、顔がかあっと熱くなる。
「わ、笑わないでください! 私真剣に……」
「ごめん、なんて可愛い当て馬なのかと思って……。全部簡単に白状しちゃったじゃないか」
「ご、ごめんなさい……?」
「ふっ、ふふっ、うんでも、確かにあなたは当て馬だったよ」
「え」
「妬いたからね、あなたとノアの距離に」
涙の滲む眦をすっと拭って、エイヴェリー様は優しく微笑んだ。なんてきれいな人なんだろうと、胸のチクチクを忘れてぼんやりと顔を見上げる。
「ありがとうダフネ嬢。あなたのお陰で、私のつまらないプライドがどうでもよくなったよ」
「プライド?」
「そう、プライド。いつまでも持っていたって何もいいことはない、くだらないプライド」
エイヴェリー様はもう一度腕の中で私をくるりと回転させる。芯がぶれず同じ位置に戻って、また手を取りステップを踏む。
「今日のお礼に、今度は私が当て馬になろう」
「え?」
「あなたも自分の心に正直になってみるといい。私はあなたの幸せを願っているよ」
音楽が終わりを迎える。
向かい合い礼をすると、エイヴェリー様は再度美しく微笑み腰を屈めてそっと、唇に近い位置に口付けをした。
周囲からきゃあ、と声が上がると同時に、腰にたくましい腕が回り後方に引き寄せられた。
驚いて振り返るとそこには、これまで見たことがないほどに怖い顔をしたルーカス様が、エイヴェリー様を睨みつけていた。
「る、ルーカス様!」
「失礼。私の婚約者です」
「そうか、それは失礼した。あまりに愛らしくてつい口付けせずにはいられなくてね」
にっこりと笑うエイヴェリー様の言葉に、周囲からまた声が上がる。
違う違うわ、頬に口付けをされただけです! たしかにちょっと位置が際どかったかもしれないけれど!
「貴殿の国では衆人の前で、会ったばかりの女性に口付けをする習慣がおありで?」
「ないよ。ただ、愛する人に真っすぐ気持ちを伝えるのは悪いことではないだろう」
「愛、だと……?」
まるで大きな獣のような敵意が背後から滲み出る。ルーカス様の声がこれまでとは比べ物にならないほど低く、怒りに満ちている。
「貴殿は彼女を婚約者と言うが、今宵は別の女性をエスコートしている。ダフネ嬢を放っておくくせに、他人に手を出された途端に婚約者面するとは図々しいな」
「エイヴェリー!」
ノア様が慌てて割り込んできた。さすがにルーカス様の怒りを目にして、傍観していられなかったのだろう。
「踊りたいのならエスコートしてきた女性と踊ればいいだろう。あちらのご令嬢も放っておくなんて、一体貴殿はどんな神経をしているんだ」
「身重の女性と踊るようなことはしない」
「え?」
(……みおも……身重?)
驚いてさらに背後を振り返ると、ルーカス様の立つその少し離れた場所に先ほどのご令嬢がハラハラと心配そうにこちらを見ていた。遠目ではよく分からないけれど、その左手は確かにお腹を護るように添えられている。
(お腹に、赤ちゃんがいるの?)
だからルーカス様はいつだってあの方を優しく労わるように見守っていたのだ。
だからいつだって優しく微笑んでいたのだ。私には見せてくれない、あの優しい笑顔で。
かーっと顔が熱くなった。そして、胃の腑がぐっと鉛を呑み込んだように重くなる。グルグルと視界が回るように眩暈がして、どんどん、どんどん周囲が暗くなっていく。
(私、ショックを受けているんだわ)
ルーカス様に、子供のいる女性がいた。
他に、愛する人がいたんだ。
ぐらりと揺れた身体を、逞しい腕が支えてくれた。見上げるとルーカス様が私を見下ろしている。眉根を寄せたその顔が、今は暗くなった視界のせいでよく見えない。
「ダフネ、大丈夫か」
その声は決して優しくはない。いつもの固い、不器用な声。
グッと腕を突っ張ってルーカス様の胸を押し返す。その腕は難なく私から離れた。
「ダフネ?」
ルーカス様が訝しげな声をあげる。私は一歩後ろに下がり、ルーカス様から距離を取った。背後に立つあのご令嬢がルーカス様の大きな体に隠れて見えなくなった。
「ルーカス様、私と……婚約を解消してください」
「…………は?」
「昔馴染みであるというだけで決まったものですし、それぞれ幸せを見つけるのがよろしいかと思います」
「ダフネ、」
「この解消によって誰も損害を受けることはありませんし、誓約書の無効だけで済むはずです」
「ダフネ、待て」
「私からの申し出ですから、当家から明日、正式にご連絡いたします」
「ダフネ!」
「私はあなたを好きではないんです」
ひゅっと何かの音がした。でもそれが何の音であるのか確かめないまま、私はホールを抜け出した。
誰かに、名前を呼ばれた気がしたけれど。