今日はこんなにも名前を呼ばれました
「ルーカス様! ごめんなさい、いらっしゃるのは午後だと聞いていたもので、お出迎えもせず失礼いたしました」
「……いや」
慌てて立ち上がり膝を折ると、ルーカス様は近くまで歩み寄り、さっと花束を私の前に差し出した。バランスよくまとめられた花からいい香りが匂い立つ。
「ありがとうございます。今朝もいただいたのに……」
「迷惑か」
「えっ、いいえ、そうではありません」
慌てて否定して顔を見上げると、ルーカス様はじっとノア様を見ていた。
「ノア。ここで何をしている」
ノア様はゆっくりと立ち上がると、肩を竦めて見せた。
「友人を舞踏会に招待したんだ。……君にも送ったけど、他の人と出席すると聞いたからね」
「え?」
初めて聞く内容に、思わずルーカス様を見上げた。ルーカス様は居心地悪そうに、いや、とかなんとか言っている。
「それを言いに今日はいらしたのですか?」
「……ああ、すまない、その日はその、貴女とは行けなくて……」
「まあ、わざわざ……お手紙でも宜しかったのに」
「そういう訳にはいかない」
昨日のご令嬢の姿を思い出す。
あんな風に心を許した笑顔を見せるお相手だもの、当然一緒に行くのはあの方だろうと思う。私ではなく。
その事実に少し胸が重くなったけれど、我儘を言ってルーカス様を困らせたくはない。私は笑顔でルーカス様を見上げた。
まあ、私の顔なんて見ていないのだけれど。
「分かりました。では私は一人で行きますね」
「いや、だが……」
「大丈夫、僕がパートナーを務めるから」
ノア様がそっと私の肩に手を乗せた。見上げると優しそうに、けれどなんとなく、少しだけ、いたずらを思いついた少年のようにも見える。
嫌な予感がするのは何故かしら。
「ルーカスは心配しなくて大丈夫だよ。あ、そうだ、それじゃあドレスも僕が用意しようか」
「え?」
「駄目だ!」
「えっ?」
「……ドレスは俺が用意する。それを着てもらうから不要だ」
「え、え、でも……」
(お相手の女性の分はどうするの?)
「そうだね、昨日のドレスはルーカスが用意したんでしょう? 似合ってたよね。凄くきれいだったよ、ダフネ」
「え、あの」
「当然だ」
「え!?」
「じゃあ仕方ない、ドレスはまたの機会に贈らせてよ」
「またの機会などない、ノア」
ルーカス様の声が心なしかいつもより低い。目も据わっている気がする。よく分からないけれど。
ノア様はそんなルーカス様の姿を見て可笑しそうに笑うと、私の横に来てすっと腰を曲げた。
「ではダフネ、また改めて」
手を取りちゅっと手の甲に口付けを落とすふりをして、ノア様は足取り軽くコンサバトリーを後にした。
「あの……」
ノア様が帰られて、急にコンサバトリーが静かになった。微動だにしないルーカス様をそっと見上げる。恐らく用件は済んだはず。私に舞踏会のパートナーが出来ないと言いに来たのだから。けれど、無表情で立ったままのルーカス様はじっと動かない。
そしてやはり、目が合わないのだ。
「お、お茶でもいかがですか……?」
そっと声を掛けると、ルーカス様は小さく頷いて一人掛けのソファに腰を下ろした。
(困ったわ……)
昨日のご令嬢とのこと、なんて切り出せばいいのかしら。
私のことはお構いなく? お二人でいても気にしません?
それだと嫌味っぽいかしら。
でも私では、ルーカス様をあんな風に笑わせられない。あんな風に、幸せに満ちたお顔を見ることが出来ない。ルーカス様があの方と一緒にいて幸せなら、やっぱり私が身を引くべきなのではないかしら。
お父様には私から話せばいいのだし。困らせてしまうかもしれないけれど、そこは何とかお願いしてみよう。
それに今の私にはしなければならないことがあるわ。
ノア様の、私の友人のために次の舞踏会は全力で頑張らねばならないわ。
この、なんだかちくちくする胸の痛みは、きっと気のせい……
「……ダフネ」
「は、はいぃっ!?」
突然名前を呼ばれて肩が跳ねた。
おまけに変な声が出てしまったわ!
別に目の前にいることを忘れていた訳ではないけれど、ちょっとあまりにも考えに没頭していた。
ルーカス様は視線を手元のカップに落としたまま、じっと動かない。
「……」
え、今呼ばれなかった? 空耳かしら。
「……ランブルック卿と、何の話を……」
「え?」
「……」
ルーカス様はそのままカップを口元に運び、黙ってしまった。……何の話をしていたか知りたいのかしら。
ああでも、それは流石に言えない。ノア様の名誉のためにも、余計なことは言えないわ。
「えっと、世間話、を……?」
「……そうか」
(そうだわ、ルーカス様に聞けば何か分かるかもしれない)
「あの」
「なんだ」
珍しく顔を上げたルーカス様と目が合う。けれどすぐに、その視線は逸らされた。黒髪から覗く耳の先がなんだか赤く染まっている。
時々、こうしてルーカス様の耳が赤くなっているのを見るけれど、もしかして暑かったかしら。これは手短に済ませないと、ルーカス様の貴重な時間を奪っているかもしれないわね。
「ノア様はどんな方でしたか?」
「……何?」
「学園時代の同級生だと伺いました。どんな方だったのかと」
「…………今と変わらない」
「学園時代はさぞ女性たちから人気だったのでしょうね」
「ああ」
「その、高位貴族の方ですもの、ご婚約者様はおられなかったのかしら」
「……いない」
「そう、ですか……。あの、ノア様は何かスポーツをされていました? 得意な科目とか」
「……馬術が」
「馬術! まあ、それは羨ましいわ」
「羨ましい」
「私も馬術が好きなんですけれど、私が通っていた学校では少ししか学べなかったんです」
「……そうか」
「ところでノア様は海外でどのようなお仕事をされていたのかご存じですか?」
「……商売としか」
「そう、ですか……」
(駄目だわ、何も分からない!)
ノア様が想いを寄せるお相手の人となりを知りたかったのに、なんだかうまくいかない。ああでも、直接聞くわけにもいかないし、ノア様に少しずつ聞いたほうがいいのかしら……。
「ダフネ」
「はい!」
また名前を呼ばれてぱっと顔を上げると、ルーカス様が見たことのないしかめっ面をしている。
何かしら、どうしたの? と言うかこんなに名前を呼ばれるのは初めてかもしれない。
「君は……」
「はい?」
首を傾げルーカス様を見つめるけれど、やっぱり視線は合わない。ルーカス様は難しい顔をしたまま黙ってしまった。
「……ドレスを、作りに行こう」
「え?」
どうしたものか困っていると、ルーカス様がやっとぽつりと話し出した。
「でも……私、昨日のドレスで充分ですよ?」
(お相手の女性の分だって必要なのに、二着もだなんて)
「同じドレスを着るというのか」
「ええ。あの、周囲の方に褒めてもらえましたし私も気に入っているので」
「……そう、か」
「大切に着ますから、あの、無理はなさらないでください」
「無理などしていない」
ルーカス様はじっと自分の膝の上の拳を見つめたまま、ドレスを作ると譲らない。
(困ったわ)
やっぱり私たちの関係をはっきりさせないと、お相手の女性に失礼ではないかしら。舞踏会で同じようなドレスを纏っていては、ルーカス様が何を言われるか分からない。でもこんなこと、私から言っていいのかしら。
「あの、ルーカス様は私と婚約を解消出来るなら、したいですか?」
「…………は?」
「あ、いいえその、もしもルーカス様が望まれるのでしたら、私……」
「君は!」
ガタン! と大きな音を立ててルーカス様が立ち上がった。
驚いて思わず肩を竦め、立ち上がったルーカス様を見上げる。ルーカス様は耳だけではなく顔を真っ赤にして眉根を寄せ私を見降ろしている。
(あ、目が合ったわ……)
久しぶりに見るルーカス様の美しい青灰色の瞳に思わず見惚れていると、またふっと視線を逸らされてしまった。
「君は、やはり……」
「え?」
「……明日」
「え」
「明日また来る」
ルーカス様はそれだけ言うと、くるりと踵を返してコンサバトリーを後にしてしまった。
*
(うーん)
夜、ベッドの上でごろりと横になり今日一日の出来事を思い返す。
昨日の晩餐会からずっと気持ちが忙しない。
これはひとつずつ整理しないと。
(まずはノア様の想い人のことだわ)
出会って間もないけれど、あんなに華やかで美しい人の切ない表情がなんだかとても胸を打った。いい人だもの、誤解されているというのならせめて誤解だけでも解けたらいいと思う。
何とかお相手と話す場を設けないと駄目ね。舞踏会の日は人が大勢いるだろうから、二人になれる場所が必要だわ。場所はノア様になんとか手を打ってもらうとして、問題はどうやって二人きりにするのか。お相手の方もすんなりと二人で話してくれるかしら。
(そもそも、一体どんな事をして怒らせたのかしら?)
でも、誤解を解くのはノア様自身。私はそのお手伝いをするだけ。舞踏会に参加できるのだし、せめてお手伝いが出来たらいいのだけれど。
ここはひとつ、私がノア様と一緒に行動することでお相手の方がどんな反応をするのか見極めてみるのがいいかもしれないわ。
お相手の方がノア様に気持ちがあるのなら、きっと私が一緒にいることをとても気にされるはず。舞踏会でまたノア様と一緒に踊るのもいいのかもしれない。
私知ってる。こういうのを当て馬って言うのよね。
(舞踏会、か……)
憧れのランブルック侯爵家の舞踏会。有名な楽団の演奏を聞けて踊れるなんてすごく楽しみだけれど、ルーカス様と行けないのは残念だわ。ちょっとだけ。
(お相手の女性といるルーカス様を……私はどんな顔で見たらいいのかしら)
昨日の晩餐会を思い出す。柔らかな表情のルーカス様。
初めての顔合わせからこれまで、一度だってあんなに優しげなお顔を見たことがない。
(……私が何か怒らせたのかもしれないわね)
細かいことはあまり覚えていないけれど、長い時間を共に過ごしてきたのだ。私が何かしたかもしれない。
全然身に覚えはないけれど。
でももしも私に原因があってこの関係が拗れてしまったのなら、もう終わりにした方がいいかもしれない。いつまでも家に決められた婚約など続ける必要はないと思う。
(ルーカス様には幸せになって欲しい。本当は優しいルーカス様には、あんな風にいつも優しい笑顔でいてほしい)
私には無理だというのなら、やっぱり、この婚約は解消するしかないのかもしれない。
ぼんやりと天蓋の天井の模様を見つめながら、私はいつまでもどうやって婚約を解消すべきか考えていた。