ずぶ濡れのJCを拾った。<前編>
恐怖や不安を紛らわせたいときは、街を徘徊するに限る。
行き先も決めず、全てを置いて歩き続けていたら、いつかそんなネガティブな感情は消えてなくなる。
高校受験の前日なんか家にいたらプレッシャーで押し潰されて壊れてしまいそうだったので、家から飛び出して歩き続けた。
全身が悲鳴を上げて、限界を何層も突破して、それでも遂に終わりは来て、倒れてこんだそのときまで、ずっと。すべての体力を使い果たした俺は、散歩途中の優しそうなお爺さんに起こされるまで死んだように眠っていた。
正気に戻ると、自分が見知らぬ土地へ辿り着いていたことに気づく。歩いていたときは、自分がどこにいるかなんて気にしている余裕がなかったのだ。自力で帰れるわけもないので、タクシーで帰った。諭吉さんが消えた。
身体も金も犠牲にして、結局得られたものは何もなかった。それどころか、完全に損をしていた。
全身筋肉痛で起き上がるのにも苦労したし、部屋から出るのもきつかったし、リビングが果てしなく遠く感じた。家を出るのにどれだけの時間がかかったか。遅刻ギリギリであった。試験会場に着いてからもいろいろあったのだが、話せばキリがなくなるのでここは割愛。そんな地獄が三日間続いた。俺(帰宅部)が貧弱すぎたのかもしれない。
ただまぁ、いいこともあった。
あれだけ自分に襲いかかろうとしていたネガティブな感情はがなくなっていた……というより、肉体的な疲労が強すぎて精神的苦痛なんて吹き飛んでしまったのだ。
おかげ様で、確かな自信を持って試験に取り組むことができた。指は無事だったので、なんとか完走できた。死ぬかと思った。
それでも、メンタルが崩れていたらその時点で終わりだったと思うから、身体を犠牲にしてよかったんだ。たぶん。
そして今日も、恐怖や不安に耐えられなくなって、家を飛び出してきた。
自分のメンタルの弱さと、同じことを繰り返すバカなところは、大人になっても変わりはしなかったのだ。
だけど、今回は仕方がない。受験なんて比にならないくらい緊張しているのだから。
俺は、中学校の教師である。今年で三年目。そして、今年から今まで勤めていた中学校を離れ、新しい中学校で働くことになる。
環境が変わるのもそうだが、俺がこんなにもビビっているのは、教師三年目にして初めてクラスを持つことになるからだ。
俺は、なんで人の前に立つ仕事を選んだんだこのアホと言われそうなくらいのコミュ障陰キャ。
当然生徒からの評判も悪く、
「声が小さすぎて聞き取れません。もっとはっきり喋ってもらっていいですか?」
「先生字汚すぎー」
「あいつだけは担任になってほしくないわ」
「あの先生絶対彼女いないよね。暗いしキモいし」
「あー、わかる。国語の……………ゆ、ゆ……名前なんだっけ?」
など、酷い言われようである。
最初のやつは漫画から飛び出してきたかのような典型的眼鏡おさげ委員長に、最初の授業が終わってすぐ言われた。あまりにも辛辣な言葉に、俺は「あ……ごめん、気をつける……」と目をそらしてしどろもどろになりながら答えた。だってあの子目怖いもん視線だけで人殺れるよ。
二つ目のやつは知らん。
三つ目のやつは、廊下で数人の男子生徒が話しているのを通りがかったときに偶然聞いてしまった。男子生徒たちも俺に聞かれたことに気づいて、死ぬほど気まずい空気が流れた。そして耐えられなくなって俺は逃げた。
四つ目と五つ目のは、授業が始まる前、教室で漫画から飛び出してきたかのような典型的陽キャ女子二人が話していたのを偶然聞いてしまった。だってあいつら死ぬほど声デカいんだもん目の前に本人いるんだぞそうだよ彼女いねぇよいたこともねぇよあと俺は結城だよ結構珍しいし目立つ苗字だろ覚えておけよ俺が暗いしキモいのが悪いのかそうなのか。
……とまぁ、まだまだあるんだが一つ思い出すたびに心にダメージを食らうのでここまで。
だいたい嫌われていたので、クラスを持つのが本当に怖い。
学校が変わるとはいえ、どうせ向こうの学校でも同じように思われるに決まっている。
だから、大の大人が怖くて家を飛び出してもなんもおかしくないもんね!そうに決まってる。
だが、予期せぬアクシデントが発生した。
夕方になって、雨が降ってきたのだ。最初は、ポツポツとした小雨だったので気にしていなかったのだが、すぐに大雨に変化しやがった。近くのコンビニにダッシュしてビニール傘をゲットし、ゴーホームすることになってしまった。
いくらバカでも、さすがに大雨の中何十キロも歩いたりはしないんだ。別に悲しくなんてないんだからね。もう十分歩いたし、そもそも精神的苦痛を吹き飛ばすために肉体的疲労を負うなんてバカバカしいにもほどがありますわ。さっさと家帰って飯でも食いましょ。……俺、ドMかな。精神的苦痛も肉体的疲労も全然楽しめる。
そんなこんなで、今日もウーバーなイーツ様に頼るかな、それとも久しぶりに出前の館様にお世話になるかな、なんてことを考えながら家に向かって歩いていた。
たが、俺の住むアパートの隣にある小さな公園に差し掛かって、俺の足はぴたりと止まった。
その公園に用があったわけではないし、特別な魅力を感じたわけでもない。住処の隣にありながら、今まで一度も利用したことがないのだ。普段なら当然素通りする。
普段なら。
自分の意思と関係なく、一瞬だけ公園に目がいって……離れなくなった。目の前にある現実が信じられなかった。
大雨の中、ひとり傘も差さずベンチに俯いて座っている女性がいたからだ。
そんなことは露知らず、容赦なく激しい雨は彼女に降りかかる。彼女はそれを受け入れ、雨に打たれている。
異常な光景だ。俺は人生で初めて遭遇したし、これが最初で最後になるだろう。
見てみぬふりをして、その場を立ち去るのは簡単だ。厄介事を嫌う俺にとって、それが一番正しい答えなのは間違いない。迂闊に足を踏み入れれば、絶対に面倒なことになる。そんなことはわかっていた。
だけど……俺は彼女を放っておけなかった。
彼女は、強く凛々しく、人を寄せ付けないオーラを身に纏っていた(個人の感想です)。その美しさで人々の目を惹き付けるが、誰一人として触れられない。自分とは別の次元にいるように感じるから。それほどまでに、彼女の美しさは圧倒的だった。
しかし、そんな強さとは裏腹に、弱さも感じられた。
放っておけば跡形もなく消えてしまいそうなくらい、儚くて脆くて、危うかった。
このままずっと雨に打たれ続けていたら、本当に消えて……
気がつくと俺は、公園に足を踏み入れていた。
あまりにも現実離れした光景を目の当たりにして、判断力が限界まで鈍っていたのかもしれない。後で絶対に後悔するだろう。だけど、そんなことを考えている余裕なんてなかった。
不思議と、恐怖や不安は感じない。自分がコミュ障陰キャなことなんて忘れていた。それどころか、彼女を救いたいなどという傲慢な考えがあった。
一歩一歩、彼女に近づく。
彼女との距離があと五メートルほどまで近づいて……俺はあることに気がついた。
彼女は俯いて、肩を震わせながら鼻をすすっていた。
彼女は泣いていた。
彼女を濡らしていたのは、雨だけではなかった。大粒の涙もまた、彼女を冷たくしていた。
「……っ!!」
もう俺は、いても立ってもいられなくなって、彼女の元まで駆け寄った。
そして、屈んで位置を調整し、目の前に俺がいることなんて全く気づいてなさそうな彼女に傘を差してやる。
そうすると俺が雨に打たれることになるわけだが、彼女を雨から守れるなら、大歓迎だいや雨強すぎるだろ一瞬でずぶ濡れになったぞ寒い冷たい畜生。
「…………?」
いきなり自分を攻撃してくる雨が止んで驚いたのか、彼女はゆっくり顔を上げた。
目が合った。
遠くからの雰囲気だけで感じ取れたが、初めて顔を見る彼女は、なんていうかその…………綺麗すぎた。
驚くほど小さな顔に奇跡的なバランスで並べられた眉毛、目、鼻、口はどこを切り取っても美しく、まるで芸術作品のようだ。丁寧に手入れされ、普段ならさらさらとして触り心地の良いだろう(個人の感想です)長い黒髪は、雨に濡れた今は頬に張り付いている。
病的なまでに白い肌や、泣き腫らして赤くなった瞳、青くなった唇はとても弱々しく、庇護欲を感じるとともに、不謹慎かもしれないが煽情的だった。傷つかないように守りたいと思う反面、自分の手でめちゃくちゃに壊したいという危険な気持ちにもさせられそうで、怖かった。
そして何より……深海のように暗く、深く、淀み、飲み込まれてしまいそうな瞳に見つめられて、俺は動けない。
綺麗な人は、たくさんいる。道ですれ違ったときに、この人可愛いな……と二度見したことはあるし、テレビでよく見る人気女優は皆綺麗だと思うし、たぶん生で見たらその格の違いに圧倒されると思う。
だけど……あまりにも綺麗すぎて、怖いと思ったのは初めてだった。
彼女の持つ圧倒的な美しさを前にして、俺は恐怖すら抱いた。…………今まで、我を忘れて彼女に魅入っていた。彼女の魅力は、人の心を惹きつけ、離さず、ぐちゃぐちゃにかき乱してしまう。
もし彼女に完全に嵌まってしまったら……もう二度と戻れなくなる気がした。
深い闇に飲まれそうになったところで、俺はなんとか正気を取り戻した。危なかった。こんなに怖い、と思ったのは生まれて初めてだ。
それと同時に、ずっと俺を黙って見つめていた彼女が、恐る恐るといった感じで口を開く。
「……あの……なんですか?」
「……っ!」
彼女の声を聞いて、俺はまた衝撃を受けた。
何故なら、彼女の声が……容姿と同じように、あまりにも綺麗すぎたから。
氷のように凍てついていて、容赦なく心を抉ってくるような鋭い声だったが、その声は綺麗だった。
軽く性癖を歪ませてしまうくらいには……なんていうか、ドSチックでキツくて最高でしたありがとうございます。
いや、ふざけているわけではないのだ。本当に、大真面目な話、とてつもなく股間に来た。…………見知らぬ女性の声に興奮して反応したとか、完全にアウトですね、はい……。
このままではいけない。俺は大きく息を吐いて、生まれてしまったよこしまな感情を全て消し去る。そして、心を落ち着かせて、彼女の問いに答える。
「……雨に濡れてたから。傘、必要かなって思って」
「……余計なお世話です」
「……そう……」
……会話、終わった。
コミュ障陰キャの俺くん、よく頑張った。
しかし、俺の想いは一刀両断された。力強く、誤解する余地もなく、余計なお世話だと拒絶されてしまった。
まぁ、当然の話だ。いきなり現れた見知らぬ男に傘を差し出されたんだから。どう考えても不審者である。いや、大雨の中ベンチに座って雨に打たれることを望む彼女も十分不審者だけど。
気まずい空気が流れる中、彼女は表情を変えず自分の隣を指さした。
「座ったらどうですか?」
「え?」
「……立たせているみたいで、嫌ですから」
そう言って彼女は、俺の手から傘をひったくるようにして奪った。
なんだこれ……どうするのが正解なんだ?
彼女は俺に帰れと言うわけでもなく、大声で助けを求めるわけでもなく、逃げ出すわけでもなかった。
彼女はさっきまで泣いていたというのに、今はそんなことを一切感じさせない無表情なので、何を考えているのか全くわからない。
わからない、が……俺は何も考えず、彼女の隣……ベンチに腰掛けた。
もちろん、少し距離を開けて。
「冷たっ」
「……そりゃあ、雨で濡れていますから」
当たり前のように、淡々と彼女は言った。
全身を駆け巡る突き刺すような冷たさを感じ、俺は改めて今の状況の異常さを知る。
当たり前のようにそれを受け入れていた彼女がおかしいのだ。並外れた容姿と雰囲気だけではなく、彼女のぶっ飛んだ行動にも恐怖を感じる。
パンツまでびっしょり濡れて、非常に気持ち悪い。しかし、これ以上そんなことを気にするわけにはいかない。
彼女の行動は、異常だ。そんな彼女に寄り添うには、自分もおかしくなるしかない。
だからら大雨の中、ベンチにできた小さな水たまりの上に直接座ることは何もおかしくない。全然、これっぽっちもおかしくないね。当たり前だね。
俺がバカになる覚悟を決めていると、彼女は俺との距離を縮め、俺が傘に入るようにしてくれた。
してくれ……えっ?
「ちょ、何を……!」
「私だけ入るわけにもいきませんし……どうぞ」
「……だからって、あの、近いんだが……」
「……はぁ」
彼女は挙動不審になった俺に対して、呆れたようなため息を零す。俺の気持ちなんてまるでわかっていないようだ。
だが、今の状況を見てもらえば世の男子諸君からは深い共感が得られることだろう。
距離が近い。
ほぼゼロ距離に彼女がいて、彼女と……とんでもない美人と相合い傘をしている。
こんな状況で冷静でいられる男がいるか? いやいない。もしいたらそいつはよっぽどの男好きだろう。
大雨で音を拾うのも難しい状況なのに、彼女の息遣いはやけにはっきりと聞こえるような気がした。気持ち悪いだろう。でも今はバカだから許される。
……というか、人生初の相合い傘だな、これ……。
学生時代ほとんど女子と関わりがなく、今まで彼女が一人もできたことのない俺なので、当然だ。それが、こんな形でファースト相合い傘を奪われちまうとはな……。
「……あの」
彼女は正面を向きながら、俺に語りかけてきた。どこか遠くを見つめているようにも感じた。
「……なんで、私を助けてくれたんですか。……普通、こんな厄介なことに関わりたいと思いますか。……放っておいてくれてよかったのに…………」
後半はほとんど雨にかき消されてしまうくらい、彼女の声は弱々しく震えていた。表情には出さないが、彼女の精神状態を表しているように思えた。
……なんでって、それは。
壊れてしまいそうだったから。守ってあげたくなったから。放っておけるわけがなかったから。彼女の持つ圧倒的な雰囲気に吸い寄せられて、ここまで来てしまった。
一目惚れ……っていうんだろうか、これ……。
いやいや、それは認めたくない。なんていうか、負けた気がして。これまで生きてきて恋なんて一度もしたことがないのに、初めてを、こんな出会ったばかりの少女に……。
だいたい、こんな恥ずかしいこと本人に直接言えるわけがなかった。
「余計なお世話かもしれないけど……でも、雨の中、傘差さないでベンチに座ってたら……それで泣いてたら……心配するから……」
「優しいんですね。……誰にでも、ですか」
「……っ!」
その声は、さっきまでと同じように冷え切っていたのに、ほんの僅かに温かかった。……たぶん、俺に向けて放った言葉ではないだろう。
きっとそれが、涙の理由。
……気軽に聞いていい話ではないことは流石にわかる。彼女が負った深い傷を、掘り返すことなんてできない。だから、俺は気づいてないふりをして、彼女の問いに答える。
「誰にでも手を差し伸べることができるほど、出来た人間じゃないよ、俺は。柄にもないことをしたと思ってる。でも、君を放っておけなかったんだ」
俺らしくない、歯の浮くような台詞。自分で言っておいてなんだけど、背筋が寒くなる。格好いいこと言ったつもりかもしれないけど、全く決まってない。むしろダサい。もう後悔してる。
俺の答えに、彼女はどう反応するか……。
「……もしかして私、口説かれてます?」
「違う…………………………………………わない、かもしれない……」
その底の知れない大きくて深い瞳を俺に向けて、完全なる無表情で……でもちょっと楽しそうな声色で、そんな冗談めいたことを口にした。
まぁ、そう思われても仕方ないくらいにはアレな台詞でした……。
でも、よかった。完全に傷が癒えたわけではないだろうが、彼女を少しリラックスさせることはできたようだ。あの、壊れてしまいそうな危ない雰囲気も薄くなっている。
心が温まっていくのを感じる。明日のことなんて、すっかり忘れていた。
相合い傘をされたときのドキドキとは違う、しばらく味わうことのなかった優しくて幸せな気持ち。
そんな気持ちを、彼女も感じていてくれたら……。
淡い期待は、一瞬で打ち砕かれる。
「………でも………………………………………くせに…………………」
雨にかき消されてほとんど聞こえなかった、独り言。今までとは比べものにならないほど暗く冷たい声に、俺は隣にいる彼女があっという間に遠くに行ってしまったような気がした。
浮いた台詞の一つや二つで、彼女を助けることなんてできるはずがない。
彼女の傷は……深い。俺がわからないくらい……わかってはいけないくらい、深い。
彼女はその傷に苦しみ、囚われ、動けなくなって深海の底に独り息を止めて沈んでいる。
「行こう」
彼女は望んでいないかもしれない。俺の自分勝手なわがままに、彼女を巻き込むのだ。最低な野郎だ。
でも、仕方がない。
出会ってほんの少しで俺を最低な野郎にしてしまうくらい、彼女は怖いから。
俺は立ち上がり、彼女の細い……細すぎる手首を掴んで、彼女を強引に引っ張り上げた。
「ちょ、何を…………! …………どこへ行くんですかっ………!」
「家」
「………………え…………………?」
「……俺の家に」
事態を飲み込めず慌てている彼女に向かって、俺は答える。
これから俺は、自分より年下の……未成年であろう彼女を、自宅に連れ込むのだ。