誰も知らぬ死闘
最初は其でないといけないわけでは無かった。ただ
言葉もままならぬ童が近くにあった刀の玩具を握ったにすぎぬ出来事だった。
しかし握った瞬間電流が走った様な感覚に陥ったのを17に成ろうとも言う青年は鮮明に思い出せた。
最初は玩具の刃を振るい風を斬る感覚を楽しみ。次第に竹刀、木刀、模造刀へと至り、ここまで来ると案の定と言うべきか真剣を握るのも時間の問題だろう所まで来てしまっていた。
来日も来日も剣と向き合う日々、それは人生50年と言う時を忘れ去れる濃密な時間であった。
両親に毎日何か苦言を言われていた気がする。曰く勉学の事だった様な気がする…
その思いを斬って棄てた
幼馴染みに毎日心配をかけた気がする。曰く生き急ぐ様な無茶はしないでくれと…
その思い遣りを斬って棄てた
学友に何か忠告を受けた気がする。曰く普通の生活をした方が良い今さらそのような技術何処で使うのかと…
その忠告を斬って棄てた
もう顔も思い出せないが色々な人に迷惑をかけた人生だった様に想う。あまりの恩知らず…人でなしであった。
それでも極めたいのだ、この道を…
そうだ。剣の握った手では人と手を取り合う事など出来ようはずが無かったのだ。
そのような事を思いながら先程悲鳴があった場所へと山中の獣道を風のように駆ける青年の姿があった。
青年は知っていたの今から向かう場所は己の死地になるだろう事を。
だってこんなにも騒がしく獣臭い…
そうして駆けていると見えて来るものが在った。
ここらでは珍しい熊と今まさに襲われそうになっている女が居た。
女が先ず気づき此方に目を送る、恐怖うまく声が出ないのか過呼吸を起こしている様であった。
そうして熊が草を踏む音で気がついたのか此方に振り向く気配を見せたがしかし青年は既に熊のすぐ背後まで駆けていた。驚くべき俊敏性であった。
その振り向き様、鼻っ面に青年は居合いを合わせる。
ガコッと言う音共に熊が声を上げながらたたらを踏む、その隙に青年は熊が鼻を触ろうと挙げた両腕脇下に木刀を叩き込む。
熊は更に怯み両者の間には一足程の距離が生まれた。
「立ってこの場から離れるか?」
青年は熊から目線を離すことなく女に尋ねた。
「あ…あっの…いやった、たてな…くて」
女は動転し腰を抜かしているようであった。
この時青年は熊からの消極的後退を諦め、女が立てるまでの時間稼ぎ兼、敵の撲殺に瞬時に気持ちを切り替えた。
「あんたに気を配る余裕はない俺が時間を稼ぐから立てるように成ったら直ぐその場から離れろ」
「直ぐ奥に行けば登山道に出るはずだ出たら真っ直ぐに下山しろ」
それだけ矢継ぎ早に言うと青年は女の言葉も聞かず熊に向かっていった。
青年は数度の攻撃でこの熊が普通のでは無いことを感じ取っていた。
まず体格が今まで見てきた熊より一回りデカイ。
そして普通の熊であれば鼻っ面に一撃入れただけで逃げる体勢に移るはず…
なのにコイツは痛みの反射で防御姿勢は取ったものの逃げる気配を見せなかった。
故に脇下に攻撃を叩き込んだが、この熊が普通の筋力ではない事も手応えで分かってしまったのだ。
コイツ…人間を確実に喰っている。
その事実に気づいた瞬間、青年が距離を詰めるのと熊が立ち上がり威嚇姿勢に移るのは同時だった。
姿勢を極限まで低くし、地を這う様に接敵する。熊もすかさず迎撃の左腕を振るう。
初撃は必ず避けると意識を集中してなお頬を抉る速度に最早現代人では埋められぬ絶対的な野性を感じその美しさに敬意を感じずにはいられなかった。
そうしての懐に潜り込んで、体を畳み折り曲げながらのカチ挙げに熊の下顎が砕ける。
続けて浮き上がった胸の中心線に向け突きを放とうと両脇を締め、大地よ割れよとばかりの踏み込みの瞬間!
左からの殺気に体が自動で反応した。
右背筋に力をいれ右足を空へ、左肩を固め力を流そうとしてさえ体を吹き飛ばされ左肩を抉られる衝撃に、目の前に花火が散った様であった。
「くっ!」
倒れている場合ではない、直ぐに受身を取り体勢を立て直さなくては。
現に奴は下顎を砕かれていながらも既に此方へ突撃する姿勢に入っているその顔は憤怒に染まっていた!化け物が!
立て立て立て立て立て立て立て立て!!!
一秒を何倍にも引き延ばした時間の中、倒れる勢いそのままに肩と地面をぶつけその反動で体勢を立て直す。
その間目を切った極々僅かの間に、奴は既に俺の目の前に…故にその行動は自我の無い反射の世界。
無我の極致であった。体を足さばきにより半周回転させ熊の突進に体を合わせる、そうしてその場から動かずとも力をいなし側面に流れる様に青年は既に木刀を上段に構えていた。
それは青年が血反吐を吐きながら体に叩き込んだ唯一の当て身技であった。
そうして無意識のままに青年は上段に構えた木刀を熊の延髄に叩き込んだ。
青年には其処が光って見えた、あたかもそれが斬るべき場所の様に…
すかさずの熊の悲鳴。此れまでに無い手応えに青年の意識は浮上しこの状況に困惑していた。
受け身を取り体勢を立て直した後からの記憶がない…
気づけば熊の背後を取り自分は得物を振り下ろして居た。その事に釈然とはしない気持ち悪さを感じてもいながらもこの絶好の機会を逃す手は無かった。
かつて無いほどに熊は、背中の痛みにもがき苦しんでいる。
青年は先の女を見、今だ腰が抜けているのを確認してこれが最後の機会かと思い、女の手をとってこの場から逃がすこと優先した。
――――――――――――――――――――――――
何時まで女を背負い走っただろうか。
人一人を背負っているとは思えない景色の流れに女は困惑しながらも既に山は暗闇に包まれ山道も非常に見えずらい状態であった。
そんな山道を青年は苦もなく下山している、そろそろ道路に出る頃合いなのだろう。
だが青年は気づいていた。
今も見えないだけで奴は後ろから付かず離れず追いかけているのだろう事も、そしてそれが近づいて来ている事も。
今も獣臭さも消えることはない。
熊は決して獲物を諦めたりはしない。
ましてや人食い熊、そのしつこさも頷けた。
女はしきりに肩の傷に気をやり背負われながらも素人の、やったほうが幾分かマシと思われるような下手くそな包帯を巻き、処置をしていた。
「あの…本当にありがとうございます」
「貴方が来ていなければ私は…今頃殺されていました」
女は襲われている場面を思い出しているのか、体を恐怖に震わせながらも言葉を発した。
「いや安心するのは早い」
「あんたを襲った熊はまだ俺たちを諦めて無いみたいだ」
「え…」
そう言うと女は体を震われながらしきりに後ろを気にし出した。
(頃合いか)
これ以上の逃走はこれからの戦いに支障をきたすし、其れに女も立て走れる位には精神も落ち着いている。
そうして青年は女を降ろし、目を見て出来るだけ鋭い目を柔らかくし、安心させるように言った。
「此処からはあんたが立って先に行け10分も走れば道路に出る車を捕まえるなり何なりすればいい」
女は数歩先に歩くと不安そうに、心配そうになかなかその場を動こうとはしなかった。
「貴方はどうするのですか!一緒に逃げましょう!もう道は直ぐそこなんです二人で走れば」
「いや必ず奴は追い付いてくる其れにアイツは此処で殺さなければいけない、その為にあんたは邪魔だ」
そう強めに被せ反論を封じた。獣の臭いが近い…時間が無い。
「でも…」
「でもも糞もねぇ!邪魔だって言ってんだ!さっさと走れ!!」
そうして強引に女の背中を押し走らせた。
女はつんのめりながらも走りしきりに俺を見ながら走っていた。
優しいのだろう、甘いのだろう、果てしなく…
それでも最後に助けた人間があんな甘ちゃんで良かった。
青年の心は晴れやかだった。
最後に人間も棄てたもんでは無いと思わせてくれた。
いや、そうだ。人生振り返って見れば自分の周りは随分と人格者に溢れていた。
ヒトデナシなのは決まって己だった。
その事実に気づいた時の余りの己の愚かしさに少し笑ってしまった。
気づいた所で治すことは出来ないだろうとも思った。
そうして気づいた己の愚かしさを斬って棄てた。
だって、この殺し合いには必要無かったから…
そうして思いを斬り棄てた時、奴が己の背後に立ち左腕を振り下ろすのは同時だった。
―――――――抜刀――――――
そうして何十、何百斬り結んで来たのだろう…
既に左手の握力の感覚が無い、右手も怪しいか…敵は今だ健在。顎を砕かれて一生噛むことが出来ず涎を止められなく成りながらも鬼の形相で両腕を振るう。
延髄に下顎を…これ程のダメージを受けながらも奴の
攻撃は一点の曇りさえ無い。
此方は左肩の傷に、この連打での切り傷、既に握力もなく、度重なる出血による目の霞、目眩。
時間が経てば経つほど不利になる今、この時、残酷なほどのフィジカルの差がここに出ていた。
故に短期決戦に切り替える事は自明の理であった。青年にはか細い勝利の糸口が確かに見えていたのだ。
それは、延髄にまたあの上段を叩き込めれば骨は砕けコイツを殴殺出来るで有ろう確信が。
その為には崩しの一手がいる、背後に廻れるだけの隙を作る!
そうして青年は、その戦闘センスに従い、眼球の破壊をもって崩しと見定め、その目標に向かって驚く程スムーズに行動を起こした。
今までの消極的受けからいきなりの攻勢に熊の対応が遅れ左腕が頭の上で空を切る。
そう、あの地面スレスレの特殊な歩法にて懐に入ろうとしていた。
当然の様に奴も反応、今度はアッパーの様な軌道で豪腕を振るう。
その対応に己は奴の野性を信じていた。必ずこの歩法に対応してくると。
だから避けれた。体を回転させ奴のがら空きの右脇下に木刀差し込む!
メキャッ と奴のあばらに叩き込んだ手応え、骨にヒビが入ったのだろう堪らず後退しながら苦し紛れの振り払う様な左腕が飛んでくる。
ここ!その左腕に合わせるように体を交錯させ返す刀で奴の眼球に叩き込む完璧な軌道を描いた。
余りにも集中しているためか左腕が止まって見える程であった。その止まった時間の中、確かに見たのだ奴が嗤ったのを。
奴は驚くべきことに既に回避行動を起こしていたのだ!
さっきまで頭部が在った場所には何もなく、眼球にまで引かれた完璧な木刀の軌道は既に意味を成さない伽藍堂であった。
奴は分かっていたのだ自分の負け筋が延髄を破壊される他は無いのだと、そうしてその為に己が眼球を攻撃してくることを。
その小さな勝ち筋を手繰り寄せるだろうと、奴も己を心の底から信じていたのだ。
だから左腕も力を入れなかった、あくまでも攻撃を誘うための囮だったから。
そうして己の木刀が奴の前で空を切る、渾身の一撃だった、故に硬直の楔からは逃れられない。
奴の腕が己の腹を抉る瞬間までただ見ることしかできなかったのだ。
―――――――――――――――――――――
いつの間にかうつ伏せに気絶していたらしい。
長い間だったかもしれないし一瞬だったかも知れない。意識が浮上した途端、腹がアツい事に気がついた。
見ると無惨に腹は裂け、臓物が顔を覗かせる程であった。夥しい血の流失に熱さと寒気を当時に感じた。
余りの痛みに唸ることしか出来ず。
腹を押さえ臓物を中に押し込み、起き上がろとするも手足が震え足掻くことしか出来ないこの無様さ。
奴はそんな己を見ると溜飲が下がる思いなのか悠然と俺のもとに歩を進めていた。それは確かに勝者故の油断と優越感が同居していた。
このような畜生に見下される事実、その己の不甲斐なさに腸が煮えくり返った。
「うぅぅぅっぅぅぅ!!!」
獣の様な声をあげ体を起こし立ち上がろうとする意識とは裏腹に体は震えることしか出来ない。
その時、確かに聞いた…その声を。
此処にいるはずの無い女の声を
「此方よ!!此方に来い!!!」
女の声は大きくも震えていた。
恐怖に立っているのがやっとなのか足は震え体を両手で押さえながらも奴に立ち向かっていた。
奴はその声にゆっくりと振り向きながら女に体を向けようとしている。
「てめぇの相手は俺だろうが!!」
そんな声を無視して奴は女に向かっていく。奴はけして走らず、その歩みには捕食者の傲りと残虐性があった。
女は動けない癖にそんな脅威には目を向けずその後ろの青年を見やっていた。
その目は俺に逃げろと伝えていた。
ふざけるな!ふざけるな!ふざけるな!!
逃げなきゃいけないのはてめえだ!!立ち上がり、立ち向かうのは己だ!!その逆など到底あり得はしない。
「ぐぉおおおおおぉぉぉぉおおおおおお!!!」
渾身の力を込めた、既に手は力の込めすぎなのか紫を通り越して真っ白だった。
それでも遠い、それでもたりない。
一歩の距離に在る己の得物さえ遠く、立ち上がるに到っては遥か彼方。
視線の先で奴が腕を挙げてるのが見えた。
その速度はゆっくりで、獲物が避けることも出来ない木偶の坊である事を理解していた動きであった。
その状態に到ってさえ愚かな獲物は俺に逃げろと目線を送っていた。
だから嫌だった。
誰かに優しくされる度に剣が鈍った。剣に為ろうとする己を人に戻そうとした。両親はそんな己を最後まで引き留めようとしてくれた。幼馴染みはそんな己に寄り添おうとしてくれた。学友はそんな己を心配してくれた。
そんな人の優しさに触れる度に剣が鈍る己が誰よりも嫌いだった。だから斬って棄てた筈なのに…
今もこうして弱い己の為に見ず知らずの他人が命を投げる。
そうして奴の腕振り下ろされる。止めてくれどうかお願いだお願いします。頼むからその腕を止めてくれ…
そんな想いも届きはしない奴の豪腕は女の華奢な体を縦に切り裂き赤い花が咲いた。
その瞬間、世界から色が褪せて行くのを確かに感じたのだ。
その者は、産まれた時から強者だった。自分が他と違うことなど最初から分かっていた。
兄弟とは違う体の大きさ、果ては知性までもが。
森のあらゆるモノが自分を崇め奉った。森の全てが自分の物の筈なのに…
獲物など所詮、自分を見た瞬間逃げるか諦めるかの取りに足らぬ物の筈…
ましてや毛の無い猿、今回も叫ぶか暴れるかの筈なのにあろうことか自分に立ち向かい下顎砕かれると言う屈辱に、生きて要ることを後悔させて殺してやると決めていた。
既に奴は死に体、故に奴の番を目の前でいたぶるのもなかなか乙な物かもしれぬ、一発で殺さぬ様に女の肩を抉った。飛び散る血の臭いが己に偉大なる捕食者で在ることを思い出させる。
本来の在るべき獲物の姿、弱さ情けなさを目の当たりにし気分が良かった。そうして奴の目の前で引き摺り廻してやろうと手を伸ばした瞬間に背中からザッと土が擦れる音がした。
その音に悪寒が走り感覚に従い奴に顔を向け、そして信じられない物を見た。
奴は立っているのだ!腹を裂かれ内蔵が見えるほどの重傷、そんな事あり得る訳が無い!
今まで会ってきた奴に腹を裂かれてさえ起き上がった者など誰もいない。そんな獲物、何処にも居ないのに。
熊は本能に従い、森を轟かす程の雄叫びを挙げ体を起こし威嚇態勢へと瞬間、タガが外れているかのような速度で突進した。
そうして突破したかったのだ…初めて感じた己の恐怖を、身に降りかかる目の前の災禍を突破しようとしたのだ…
今までが攻撃が幼児とも思われる速度で振るわれる豪腕の連撃、その一つ一つをたったの半歩にて躱す男のその行動は回避ではなく最適な斬撃を撃ち込む為に必要な位置だっただけ。
攻撃の為の一歩が回避になると言う絶技、その度に振るわれる木刀、それはハンマーの衝撃にさえ耐えうる奴の異常な皮と筋肉を容易に両断せしめた。
熊は恐怖していた。今だかつて体験したことの無い種類の痛みに、このような切傷…余りにも縁遠く。
猿が持つ棒切れ振るわれる度に増えた自分の生命を脅かす為だけの傷に。
だからこの一撃は全霊の一撃であった。余りの踏み込みに地面に罅が入った。
余りの速さに猿は反応出来ては居なかった、明らかに棒立ち、静かに腕を挙げるだけ。
入った!確かにそう思ったのだ…
男の意識は既に曖昧だった。ただ奴から表れている無数の光に従い体を無意識に動かしているに過ぎなかった。
その都度奴の体から流れる液体、あれは何だったろうか…
そして振るわれる神速の攻撃、その豪腕に走る光に自然と腕が導かれる様に上段に構えそして…
刃を合わせ斬り飛ばされる腕。
奴は驚くべき事に斬り飛ばされた腕に目もくれず体全てを使っての突進を繰り出した。
熊の顔には死相と憤怒が在って…それは奴の森の王で在った最後のプライドだったのかもしれない。
その突進に対し体は自然と自身の得物を担ぎ、流れるようにして水平に撃ち出した。その速度は木刀がぶれるように見えた程であった。
そうして更に強く光が己の体全身を包み…
―――――――――あぁ、なんて心地いい
その場に山岳救助隊が来たときには傷ついて気絶している女と熊の死体、転がった木刀しかなかった。
後に生還者の女性から話を聞くと一人の男が熊と戦いっていたらしいと言うこと。
捜索隊が組まれるのも早かったが捜索が打ち切られるのも早かった。
人々は恐れたのだ、木刀にて巨大熊を上下に両断した者を、その様な人間、人ではない。
正しくヒトデナシであろう。
こうして呆気なく青年は行方不明者の仲間入りをした。
たが捜索を早めに切り上げたのは賢明であろう。
何故なら既に青年はその世界には居なかった。そうだ、人で有りながら人を越えたものを世界は赦しはしなかったのだ。
そうして青年は世界から弾かれたのだ、人で有りながら人の所業を越えた異端として。