息モ苦ルシク #3
「お願い、静かにして」
それはやがてマリコの口癖となった。うだる様な夏の日差しの中、行き場を無くした息子は
「朝ご飯、要らないって言ったよね!」
から始まり
「友達の良君がお家にいないから遊べないんだって、つまらない!」
当然
「勉強なんか、お姉ちゃんがすれば良いんだ!」
算数のドリルを床に投げつけた。
ようやっと始めた勉強も、鉛筆すらまともに握らずまるでイタズラ描き。
午前中パートのある彼女は荒れる息子を言い含め家を後にする。ご機嫌を取る為に買って来るお土産代も馬鹿にならない。帰って来てすぐに手早くお昼ご飯の用意をし、散らかった部屋を片付け、家事に取りかかろうとする。そんな時
「ねぇ、ママ、あのね」
彼は急に甘えた声を出し、彼女の膝に乗りたがる。訳も無く
“ただこうしていたいんだ”
そんな彼の気持ちがわからなくもないのだが、それ故に彼女の中にある怒りが沸々と沸き立った。お姉ちゃんが塾から帰って来るのが午後の三時。それまでに色々な事を済ませたかった。行き届いていない場所の掃除に、洗濯物を取り込んでたたむ事。流しの食器洗いに、明日の献立を考え買い物に行かないといけない。
『気が狂いそうだ!』
彼女は息子の髪を撫でながらそう思う。いっその事、夫の元妻の様にずぼらでだらしなかったらどれほどまで良いか。子供にカップ麺を食べさせ、洗濯物は吊るしているものから取って着て行けば良い。ハウスダストで死ぬ事は無いから掃除も適当に。一日中パジャマで過ごし、夜になれば自分だけ外に遊びに行く生活だ。マリコはそれを少しだけ羨ましいと思い、それから現実に戻る。そんな女の子供だから、
“おういん学院”
程度の偏差値65で我慢できたのだと。それはうっとりとした妄想。彼女のユカリが入るのは、もっと上の女子校だ。マリコは自分のやり方が完璧だと信じていた。結局今のユカリの偏差値は68をキープしている。そう、あの女の子供より格上なのだから。今のまま、頑張ろうと思う。全力を尽くし、格の違いを見せつけてやるのだ。
毎日が
“消耗戦”
午後は彼の大好きなブロックを使って気長に勉強を教えた。体力を使う様に毎日ご近所の温水プールにつれて行き、休日にはサッカークラブへと通わせて。それでも足りない。
マリコの息苦しさは
「多分、過換気症候群だよ」
ユカリが教えてくれた。
「クラスにね、そういう子いるんだ」
その子は両親が離婚しお婆ちゃんと暮らしているのだと言う。
「ストレスがかかると、どうなるらしいよ」
彼女はぐっと下唇をかんだ。
「苦しいときは楽しい事考えてね。それから紙袋なんか被ると良いんだからね」
実のところ、シンも辛いかった。
「何だか分かんないけど、体の奥が暴れている感じ」
それは有りがちな体験談。少年期のこどもは自分で自分が分からない。彼はその辛い気持ちを姉に漏らし、姉はその事を母親にこっそりと告げた。
「私も何となくあの子の気持ち、分かるんだよね。ねぇ、ママ、シンの事、許してあげてね。ママが苦しんで病気になっちゃったって分かってるよ。でも、許してあげてね」
誰よりも母親の苦労を分かっているユカリだった。
「あの子だって頑張ってるんだから。ママが分かってあげないと、本当に苦しいと思うよ」
「そうなのね。あの子も苦しいのね」
マリコはため息をつき、娘を安心させるべく笑って見える顔を作る。
その時、彼女の中で
『でもね』
囁く人がいた。
『私も苦しいの』
その苦しみは全く違うものなのに、大人という生き物は自分の都合のいい様に解釈するのが得意。
「ママも早く楽になりたいわ」
その時、ある妙案が彼女の頭に浮かんだ。なにしろこれなら三人の望みを全て叶える事が出来るのだ。
その夜、
「シン、おいで」
彼女は夕食も食べずにのたうって機嫌を損ねている息子に手招きをした。
「これだったら食べれるかもよ」
それは彼の大好きなプリン。ママの手作りの甘い香り。
「本当に良いの?」
彼は
『こんなに悪い子なのに、どうしてママは優しくしてくれるの?』
そんな事を疑いながら、甘い一口を口にして、母の優しい香りに包まれ、まだ7時だというのに
「眠いから」
と布団に入り、おねしょをする程ぐっすりと眠った。
「恥ずかしいよぅ」
翌朝べそをかく彼を、布団を干すマリコは満面の笑顔で受け入れた。
「そう言う事も有るわよ」
と。にこやかに。
続く