息モ苦ルシク #2
マリコは
“良妻賢母”
を絵にした様な女だった。自分でもそう思うし、周りのみんながそう信じていた。子供達もそうだ。もともと出来の良かったユカリは母親の言う通り素直に勉強し学力を伸ばした。かといっていつでも良い成績を取り続ける事が出来る訳もなく、偏差値50という最低値を記録した事もある。でもマリコは
“これ程度も出来ないのか”
の気持ちが外に表れない様に笑顔を取り繕い
「大丈夫」
娘を励ました。
「これは本番じゃないから。それよりもどうして今回実力を発揮できなかったか、そちらを大切に考えましょうね」
本心を隠し、爪を隠し
『子供の成績が伸び悩んだ時にはこうしましょう』
と書いてある教本を10冊以上も買いそろえ、日々勉強した上で
“一番良いと考えられている”
対応をする。決して彼女の本心じゃない。でも彼女はそれをおくびにも出さず微笑む。感情のままに振る舞えば、
“こどもは悪い方向へ向かう”
から。ここはぐっと堪え我慢しなければいけないと思う。そんな母親の気持ちを知って知らずか、娘は素直に
“ありがたい”
そう思っていた。
そして7月。厄介な事が持ち上がる。下の小学校2年生の弟が
「かけ算なんか大嫌いだ!」
と言って荒れ始めたのだ。学校からの宿題すらやらず、
「教えてあげるよ」
と諭す姉の言葉を
「うるさい!」
蹴散らした。あの手この手でなだめすかしても息子は落ち着かない。図書館で借りて来た育児書を片っ端から読みあさり、最新式の教育書に書いてある対応を出来るだけ努めた。それでも彼の
“悪行”
は止まず、ため息をつくマリコに
「反抗期が始まったって感じだね」
すっかりお姉ちゃんなユカリは良い相談相手を気取る。
「あいつも辛いんだよ」
と。
「うん、分かっているわ」
マリコは娘の優しさに甘え頷いた。でもだからといって現状のままではいられない。
日中は学校へ行っているからまだ良い。でも問題は夜だった。週の四日は塾に行くユカリだったが、家に帰ってからの宿題も有り、本当は寝ていて欲しい時間にシンは起きていて、彼女の勉強の邪魔をする。子供部屋はそれぞれに一つづつ有るのだが、彼は自分の部屋で好きなアニメソングを歌ったり、踊り出したり。酷い時には姉のいる部屋の壁に向かってモノを投げつけ出す始末。そして塾の無い自己学習の日は最悪。午後の四時半から机に向かうユカリに対し当てつけるかの様に友達を連れて来てふざけたり、壁を蹴って騒いだ。
「いい加減にしなさい」
マリコは必死だった。こういう瞬間、彼女の呼吸はいつも苦しくなる。それでも子供の為を思い、自分の苦しみを我慢する。シンをなだめる事を優先しその肩をつかみ、床に押し付け
「おねえちゃんの一生がかかっているんだからね」
説得を繰り返す。何かが彼女の体を支配し、胸を締め付ける。
「痛いよ、ママ!」
息子の悲鳴に我知らず腕に力がこもる。
「これ程度じゃ死なないから」
と。今彼女が感じている呼吸苦に比べれば、息子の痛みは
“死にはしない”
「でもね、もしもお姉ちゃんが受験に失敗したらシンちゃんの所為だからね。もしお姉ちゃんが名門校に受からなかったら、お姉ちゃんの一生が駄目になっちゃうんだよ。分かってるの? そんなの事になったら、ママ、生きていけないから。その時は……」
彼女の爪の先に力がこもり、それはまるで般若の腕の様に彼の体にのしかかった。
「覚悟、していてね」
ぜぃぜぃと息を切らし惨い言葉を吐きながら、泣き出し
「ぎゃぁぎゃぁ」
わめき暴れようとする息子を相手に、苦しいはずの彼女の口の端にはほんのりと笑みが浮かんでいた。
彼女の中の悪魔が囁いて
『どうしてくれよう』
息を潜めてその瞬間を狙う。
そして夏休み。
続く