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ソノ夢ハ #5

 きっちりと歯磨きをした後再び浴室のドアを開けると、そこには溶けた脂の匂いが充満していた。

 結局何一つ彼女の思い通りにはならならない。肉を煮ても皮膚の下に隠された脂肪が浮き出しただけ。血はむしろ黒く固まり、お湯は中途半端に濁っていた。試しにそのお風呂に入ってみたけれど、ヌルヌルするばかりで気持ちなんか良くないし、湯船に浮かんだ彼の体はワンタン麺にそっくりで、色気もクソも無い。むしろお腹いっぱいな今は

『勘弁』

だった。漂う髪の毛も結局は汚物。過去に自分の皮膚が焼けこげる時に感じた張り付く様な緊張感もない。やはり痛みが無いと自分は感じないんだなって思う愛子だったが、目の前に浮かぶまるで横溝正史の映画に出て来そうなその頭に、

「こいつ、死んでも使えない」

蹴りをくらわせ八つ当たりをした。

 ビデオも回すことは回していたがあまり期待は出来そうになく、何だかどっと疲れを感じ浴槽を出た。彼の脂の所為で粘度を増した湯が彼女の体にねっとりと絡み付く。お気に入りのボディソープをしっかり泡立て湯船で付いてしまった脂を落とそうとしても、それは怨念の様にしつこく染み込んで落ちず。

「こんな面倒くさいんだったらするんじゃなかった」

愛子は悪態をつきながら二度洗いをし、バスルームを後にした。

 加納の意志はそんな彼女の後を追おうとしてもがいていた。でもバラバラになった体が動くはずも無く。ため息をつきたくてもつけぬまま、ぼんやりと意識を空気の内に漂わせた。そして気がついた。もう体には魂が無いのだと。魂の無い体は動かない。むしろ

“魂だけ”

が動くと考えたらどうだろう? そう受け止めた瞬間、彼の意志は愛子のすぐ傍に居た。

 それはとても奇妙な感覚だった。実体がなく、容器に入っていない水、霧になったとでも言えば良いのだろうか。ふわふわと漂い、大きく手を広げようとすれば無限大に広がり、小さな針の先の大きさになろうと思えばそれが出来る、といった感じだろうか。そして溶け出した彼の感情は、確かに愛子の肌に吸い付いてもいた。

「寒っ!」

彼女は突然襲われた冷感に大きく身震いをした。別に彼は愛子に危害を加える事を思いついていた訳ではなかった。確かに自分を殺した女を恨んでいないと言えば嘘になる。それでもその

“気持ち”

は彼女の細い首を締め付ける所までは高ぶってはおらず、いくら恨み有るからと言っても彼女を呪い殺すまでには至っていなかった。ましてや彼女の事。

“死ぬ程の恐怖”

を、

“死ぬ程の快楽”

に塗り替えて両手を広げて受け止めるだろう。そんな思いを抱きながら彼女の様子を眺めていた。

 愛子はつい先程撮った映像を編集していた。それは余りにも彼女の理想からかけ離れた画像だった。風呂場の明かりは中途半端。しかも彼女はメイクをすると言う肝心な事を忘れ、ごく平凡な中年女が肉屋で売っている丸鶏みたいな固まりと一緒に漫然と湯船につかっているだけ。エロくも無ければ官能的でもない。何よりも

“美しくない”

「失敗だ」

愛子は呻き修正を加える。トーンを落とし、不本意では有ったが彼女の顔にぼかしを入れて。やがて彼女は作業を終えると、最後の文字を打ち込んだ。

『それは、愛です』

加納でさえ初めて聞く愛子の本心だ。

『私がご主人様にお仕えするのは、愛が有るからです。そしてご主人様が私を支配できるのも、愛故なのです』

その言葉は彼に衝撃を与えた。

“自分は間違っていたのかもしれない”

と。

 覗き込んだパソコンの画面の裏側に、彼女の自己紹介ページが透けて見えた。彼を殺した後に何回も更新されている彼女の叫び

『絶対的な支配力を持ったご主人様に死ぬ程愛して欲しい!』

彼女は愛に飢え、求め続けた。確かに狂ってはいたけれど、愛子は加納と主従関係を結んでから、

“根本的な浮気”

をした事が無い事を彼は知っていた。愛子が加納を刺したのは、彼の心変わりの所為だった。そしてこれまで彼の未熟な責めに甘んじ、付き合い、育ててくれたのは誰でもない、彼女だった。彼女は彼女なりに彼を愛していたのだと今になって思う。

『ご免よ、愛子』

彼は自分が悪かったと頭を垂れた。

『俺、愛し足りなかったね』

小さな呟きが彼女の頭の中で響いた。

「えっ?」

彼女ははっきりと聞こえた空耳に手を止めた。この後

“エンター”

を押せば新しい画像を公開できる、そう思った瞬間の事だった。

『なぁ、愛子』

明確な意志を持った彼の魂が、彼女の肌をすり抜け愛子の前で人間の形となって現れる。

『世話になったな』

と。

「えっ?」

彼女は一瞬自分の目を疑った。あまりに画像を見過ぎて、視神経がおかしくなったのかと思ったのだ。

『そう驚くなよ』

白く濁った目が彼女の頭に向かって話しかける。

『俺だよ』

と。加納は愛子の顔に浮かんだ恐怖に

“最後のご奉仕をしてやる事が出来るかもしれない”

そんな優しい事を考えてみた。

『色々、世話になったな。ほんの少しだけど、お礼』

そしてチェンソーを当てられる事が無くまだ綺麗なその指を頭蓋の奥へと滑り込ませ、柔らかな脳の基質にそっと触れた。

『動くなよ』

彼は

“ご主人様”

の声で命令を下す。

 脳はまるで細く作られた豆腐の様だと彼は思った。ぷるぷると振るえ、力加減を間違えるとぐちゃぐちゃだ。丁寧に取り扱ってあげないといけない。

『お前みたいなメス豚にはお仕置きが必要だからな』

それはいつもの言葉遊び。Sの本質は紳士なのだと彼は思う。Mを思いやってこそのSだ。

『俺の事を忘れられられなくなるような悪夢を見させてやるよ』

彼はそっと、労る仕草で彼女の脳みそを撫でる。Mは普通に目玉を舐められるのが好きだ。大きく見開かせ、瞬きを禁じ、黒目を避けて舐めてあげる。そうすれば痛くはないが十分な恐怖を与える事ができるから。彼女の顔に浮かんだ

“本物の恐怖”

に彼は少しばかり気分を良くしていた。そしてその表情は

『もっと!』

と叫んでいるかの様に聞こえ

『浅ましいメス豚め!』

彼は産まれて初めて感じると言っていい程の暖かい気持ちに包まれながら、彼女の内側を握りつぶした。

 パソコンの画面が変わる。

“コンプリート”

アップロード完了。彼女の最後の抵抗は無駄にキーボードを叩いただけだった。そして晒される彼女の痴態。

 不思議な事に加納はパソコン越しに人々の視線を感じていた。これこそが霊感だと後になって思う様になる。

 画面の向こうで彼を求めている人がいた。男でも、女でも。愛に満たされず叫ぶ人達だ。愛子の様に

“本物のご主人様”

を求め彷徨う骸骨の群れ。強力なSの支配を望み、時として傲慢なまでに猛威を振るう絶対君主の様な被支配者達。そんな彼らを、愛を知った加納は命を賭してでも

“愛してあげる”

自信が有った。だからその人達を助ける事が出来るかもしれない、そう自覚した瞬間、彼は冷たい箱の中にいた。ネットワークに乗ったのだ。


“本物の愛”

を望む人に夢の様な快楽を与えてあげる。そんな新しい使命を帯びた彼は、愛子に最後の別れを告げた。

『なぁ、愛子』

それは希望に満ちた再出発。

『ありがとう』




     ソノ夢ハ 終ワリ 息モ苦ルシク 続ク



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