心臓ヲ捕ラマウ #2
舞台はマクベス。スポットライトを浴びる
“ジュリエット”
は地獄の底でチロチロと燃える様な声で、
「さぁ、悪霊達」
それは囁きでは有るが
「私を女ではなくしておくれ」
火種。
「体の隅々まで、残忍な水で満たしておくれ」
真っ白い顔、ただでさえ大きな目に黒ぶちを作り。その視線が聴衆の中からひょろりと飛び出た一人の少年の食い入る眼差しと出会い
「神の御意志がこの企てを消し去る事が有りません様に」
魔性の吐息を吹きかけた。
会場はほんの少しざわめいた。
“主役の”
樹里が観客のたった一人に向かって芝居を始めたからだった。その唇から芽吹く棘の有る薔薇の枝は彼に向かって絡み付く。彼は痛みを感じながら逃げる事が出来ない。なぜなら彼の目の前には痛みの対価ともいえる
“薔薇”
が見えたのだから。
『何か気の効いた事をしなくては』
露澪は金縛りにあいながらそう思った。それは善意とか悪意ではなく。ライバルに対する賞賛にも似た感情だったと後から思う事になる。
かといって中学生の学祭。すぐに花束を用意する事など出来るはずもなく。友人達と漫然と校内を歩きながらふと通りかかった家庭科室の横で売っていたクッキーを、偶然通りかかった
“幼馴染”
の女の子とのおしゃべりに興じる彼の目をぬって買い求め、
『マクベス夫人をやった子に届けてくれないか』
きょとんとした顔の売り子の子に
「これで」
さりげなく、チップとばかりに札を渡し、名前は言わず託した。そのはずが
「ああ、あんたね」
正面玄関から出ようとした彼を呼び止める声、絡んだ指先、彼女だった。初めて会った日と変わらず髪の毛は首筋で綺麗に切りそろえられ優雅に揺れる。その爪には今日の舞台の為に毒々しい黒いマニキュアが施されていた。
「何の事?」
彼は柄にもなくとぼけようとした。彼女の馴れ馴れしい態度に驚きもしたし、周りの誰かが
「潮崎だ」
そう囁く声も聞こえたからだ。なにしろ相家の確執は周知の事実だったから。
「は〜ん」
彼女は肩にかけたその指を滑らせ、彼の腕をそっとつかんだ。上目づかいと片方の唇だけで笑いかけ、まさにこれが
“したり顔”
だと彼は思い、顔を赤らめた。
「ま、とりあえず、ありがとう。お礼だけは言っておく」
彼女はニヤニヤ笑い、そのくせ彼の腕の中に先ほど彼が贈ったクッキーの袋を押し付けた。
「別に、毒なんか入っていないし」
思わず彼は言い訳をしようとした。自分にはだって分からない。どうして彼女にクッキーなんかを贈ろうと思いついたのか、ましてやそんな気持ちなんか。無分別だったと露澪は思う。マクベスで、仇敵。かといって面識が有る訳ではなく、最悪。しかし樹里は彼の言葉を遮った。
「今度はもっと気の利いたのにしてよ」
それは明らかに
“嫌み”
ととれる一言。しかし
「ピーナッツにアレルギー有るのよね」
冗談とも本気とも着かない声が彼にだけ聞こえる声でそう言った。それから彼女は隣町にある有名な食材店の名前を口にして
「そこの“クイーン”のスコーンだったら食べてあげるわよ」
まるで女優でもあるかの様に尊大に振る舞い、唖然とする彼の前から姿を消した。
その夜彼は一人机に向かいながらジャムをたっぷりと乗せたスコーンを食べていた。
「確かに、美味いよな」
目の前には開いた包みと、まだ手つかずの包み。どこにでもある
“成分表示”
には、確かに
“ピーナッツ”
の文字はない。
「何やってんだろう、俺」
彼は何度もため息を繰り返し、頭を抱え、平たいエアキャップ(梱包用のぷちぷち)にスコーンを詰め直しB4の何の変哲のない茶封筒にそれを詰めた。普通郵便、送料580円也。表書きには
“潮崎樹里様”
それから郵便番号。彼女の事で知っているのは、名前と大体の住所だけ。それでも+20円の郵パックにしないのはそれ以上書く事が出来ない彼の腰抜けさ所以。これだったらそのまま郵便ポストに投函すれば良い事で、彼の名前も住所も電話番号も必要なかった。
「ままよ」
これで彼女の元まで届かず、永遠に郵便局の倉庫に眠ったままでもある可能性もあり。むしろ彼はそれにかけて投函したようなものだった。
そして5日後に届いた一通の手紙。彼の母親は
「気味の悪いものが届いた」
と言いながら彼にそれを見せた。
「心当たり、有る?」
青みがかった封筒にはマジックで書いたかと思える様な太い字で彼の名前と郵便番号だけが書いてあり。
「あっ!」
彼は素早く受け取ると、
「ああ、うん」
とだけ言って部屋に駆け込んだ。
「まさか、な」
言葉に出しながらも確信が有り、誰もいないというのに周りを見渡しながらハサミを入れる。この時の彼の心臓はこれ以上ない程強く拍動し、ヤバいと思う程胸が痛くなりかけた。ドキドキしながら開いた四つ折りの紙には
『クリームが無かった』
大人の様な文字で。
「クリーム?」
それがクロテッドクリーム(スコーンにつけて食べる生クリームの様なもの)だと気がついたのは少ししてからの事。
「なんだ、それだけ?」
裏を返しても、封筒の中をのぞいてもそれだけ。気が抜けた気がした。他には何も無い。ありがとうも、メールのアドレスも、当然の様に名前さえも。しかしお互いが
“名前と郵便番号だけで”
やり取りをする事が出来たと言う事実に、ほんの少しの
“運命”
を感じたのも確か。彼は散々考えた。齢15。人生の五分の一は病院と自宅のベッドで過ごしていた。彼の病弱さがもたらす何とも言えない儚さに惹き付けられ、
“告白”
という憂き目にあった事はあったが所詮は中学生。特に誰とつき合うともなく心の優しい男友達とつるんでいたから、こんな時どうして良いかが分からない。というか、今自分が感じている気持ちが何なのかが分からず悶々とし、そのくせ
『彼女に会って話せば分かるかもしれない』
正確な答えを引き出し、例の輸入食材店の二階にある喫茶店の名前を手紙にしたため、二週間後の日付で
“クリームはある場所に行かないと無い”
明らかにデートの誘いを書いていた。
そしてひっそりとした逢瀬が始まった。もちろん彼の外出には制約があった。決して一人にはならない事。人ごみの中に行く時にはタクシーを使う事。携帯のアンテナが3本必ず立つ場所でなければ行ってはいけない事。当然ポケットにはいつも病名とかかりつけ医の電話番号が忍ばせてあった。なにしろ学校の遠足さえ行った事が無い。それでも外出を認めてもらえるのは、思春期にある彼への病院側からの配慮があったからだった。
『責任の有る自由を与えないと、彼の心が死んでしまいます』
ささやかなデート。彼はいつもスコーンとクリームを持ち、彼女は
“自分が食べられる”
弁当を作って、街外れにある資料館の片隅で落ち合った。そこの館長は二人を知っていて、なおかつ潮崎の利害関係のない人物だった。
「いつでもどうぞ」
彼は誰も使っていない図書室を貸してくれ、露澪は樹里が苦手だという勉強を教え、彼女は露澪の知らない世界を見せてくれた。
「こんなんで」
露澪は彼女の空白ばかり目立つテストの結果を見てため息をつく。
「よくアレだけのセリフを覚えられるなぁ」
それは樹里が所属している演劇部の話し。彼女は一人芝居を得意にしていた。彼は一度しか彼女の舞台を見た事が無かったが、時々貸してもらうDVDでその演技を目に焼き付けていた。樹里は指先で鉛筆を弄びながら
「あたしって協調性無いから。それにアドリブってのも有りだしね。第一お芝居の中でしゃべるのはあたしじゃないもん。あたしの中に乗り移った
“その人”
が、その人の心で話すから、覚える必要なんか無いんだよ」
普通じゃ理解できない様な怖い事を話し出し、
「それでは」
といきなりスリッパを脱ぎ、素足のままで机の上に駆け上った。
カモシカの様に細い足。風に舞う木の葉の様に翻るしなやかな背中。汗でうなじに張り付く髪の毛。弾ける様な躍動感が緞帳の暗がりの中から飛び出して来た様だった。声はむしろ密やかに、それでいてはっきりと聞こえる言葉のひとつひとつが彼の脳細胞を揺すぶった。
“彼女になりたい”
そして樹里は枯渇の表情を浮かべた彼に酔っていた。
“欲される”
欲望。それは一見若い二人にありがちな欲望だった。しかし媒体が違う。彼の心臓は踊る事も叫ぶ事も走る事も許してくれない。二人の間にある大きな隔たりは、家でもなく、距離でもなく
“生”
彼は自分の心臓を取り出し、彼女の健康な心臓と挿げ替えたらどんな気分だろう、そんな事を頭の奥で思い描き、
「どうしたの、思い出し笑い?」
樹里に頬を叩かれ我に返った。
「あっ、ご免」
体の深い所で鼓動が走る。ドック、ドック。彼の薄ぼんやりとした表情に疑問を持った樹里は
「大丈夫?」
薄いTシャツの上から彼の心臓に触れた。そして鼓動が早まる。
「熱いよ」
「ああ、そうだね」
露澪は彼女の手に自分の手を重ねた。心臓に針を打ち込まれた様な痛みを感じ、脳の後ろから発せられる警告の怒張を全身に受けながら
「オーバーヒートさ」
今の自分の気持ちを知られるわけにはいかなかった。
それからというもの、彼は受験を口実に彼女とは会わない様にした。
『釣れないね』
彼女から届いたメールは誤字なのか、それとも彼の事をからかっているだけなのか。分からない。
『春になったら』
“また会える”
そんな希望を電子に託し彼は送信を押す。
彼には心臓移植の話しが持ち上がっていた。日本の法案では臓器移植の為の脳死認定がされたばかりで、まだまだ
“実験的な”
試みの段階だったが、彼の両親はそれに全てを賭けていた。渡米での手術には1億というお金がかかり、ましてや土壇場でのキャンセルもある。実際現地入りして手術後3週間を経過する事が出来る
“成功率”
はほぼ30%。そんなあやふやな事で命を削るくらいなら、彼らの血脈に頼り海外で移植手術をして日本に帰って来たスペシャリストに全てを託すべきだと彼らは判断し、計画を立てていた。そしてすでにその順番待ちの列は狭い門に向かって長蛇を作っていた。長く、細く、渦を巻き。それはすり鉢に落ち込む螺旋の様にぐるぐると。
手術の為の設備は万全。露澪の体は定期的にモニタリングされ、必要な血液のストックも大学病院のチェックで常に赤十字にキープされていた。いくつかの
“実験的な症例”
の後、やって来るのが彼の順番だった。
もしかしたら彼以上に移植を必要としている人がいるかも知れない。なにしろ露澪は薬を内服しているとはいえ、学校に通うだけの余力が心臓にはまだ有るのだから。
「だからこそ彼なのです」
医療スタッフは口をそろえて言うのだった。
「彼には手術に耐えられる体力が有るという事ですよ」
「ですから、予後(手術後の経過)の見通も明るく」
「心臓移植の未来がいかに素晴らしいものであるかを証明するに相応しい子供なのです」
“それから”
彼らはまるでテレパスでもあるかの様に視線で会話をした。
“この子は最適だ”
心臓病の子供は得てして筋肉が発達しない。それはまるで鶏ガラの様。もちろん彼もそうだった。無駄に高い身長、子供の様な顔立ち。日に当たらず育った肌理の細かい白い肌。優しい語り口に落ち着いた表情。その彼は心臓移植をする事で劇的に変わる。それが彼らの目には見えていた。太くなる体幹に飛び出して来るのど仏。柔らかな声は太くなり、おおらかな自信を持って世の中にその存在をアピールしてくれる。
『僕は先生達が心臓移植をしてくれたおかげで、このように健康な肉体を持ち、輝かしい日々を送れる様になりました』
今の彼の偏差値ならば国立大学の医学部に間違いなく入れるだろう。いや、政治家になってもらっても良いと彼らは考えていた。露澪には臓器移植の
“広告塔”
になってもらうのだ。
しかし思惑がいつでも当たるはずがない。彼に適合する検体はなかなか現れず、むしろ露澪は
“健康的に”
日々を過ごしていたのだ。病状は薬で安定し、死のハイリスクを負ってまで危険を冒す必要は薄れたかの様に見えた。
「これで良いのかもしれない」
彼の両親は今までの苦労を水に流すのも悪くない、そう思い始めた矢先の事だった。3月。県下一の進学校に入学が決定した直後、学校に報告に行ったその帰り道、彼は発作を起こした。
“苦しい”
彼はその言葉さえ口にする事も出来ず、前にのめり込む様に倒れた。運が良いのか悪いのか。彼が倒れたのは石段の途中で、その転がり落ちる様子を見ていた同級生が素早く学校に連絡をし、病院に担ぎ込まれた。
「ぐずぐずなんかしていられない」
母親は父親にすがりつき叫んだ。
「安心なんか、しなければ良かった!」
続く