ソノ夢ハ #1
どんなに“痛い目”に遭わされてもご主人様に尽くす事。それが愛子の生きる道だった。それなのに……。捨てられてしまった悲しみを紛らわすべくとった彼女の行動はあまりにも平凡であまりにも奇抜だった。
『それは、愛です』
彼女は躊躇わずに画面に打ち込んだ。本気で。
“愛”
を疑わず。
彼女がご主人様から
“見限られた”
のはつい2時間前。朝の7時。
他の奴隷がいる事に薄々気がついていた愛子だった。それでもまさかこれほどまで従順で
“刺激的”
な自分が捨てられるとは思ってなどみた事がなく、
「私の何が悪かったのですか、ご主人様!」
慟哭し泣きすがり、捨てないでくれと叫んだ。
「勘弁してくれよ」
彼は露地に転がるすえた匂いのゴミ箱でも扱うかの様に彼女を蹴った。柔らかな肌、食い込むつま先。
「うっ!」
微かに湧き上がる胃液と、えも言われぬ喜びに、彼女は確かにご主人様の
“愛”
を感じ取っていた。だからこれ程度ではひるんでいてはいけないのだと。
「全て私が悪いのです。ご主人様の意に沿わない事は改めますから。愛子を捨てないでくださいまし」
裸のまま額を床に擦り付け、ご主人様の大好きな
“乱れる女”
を演じてみせる。高く尻を上げ左右に振って、赤く染めた爪を床に立て。時々
「ひぃひぃ」
という音を喉の奥から滴らせ。それでも彼は無表情のまま、いやむしろ彼女を冷ややかに見下ろすだけ。
「飽きたんだよ、お前に。お前も奴隷だったら奴隷らしく俺の言う事をさっさと聞いて、次の主を探せ。いいな。これは命令」
そして言ってはいけない一言を言う。ひっそりと、吐き出す様に、そう、本音で。
「全く、面倒癖ぇ」
二人が出会ったのはかなり有名な
“m”
というサイトでの事だった。パートナーの募集は禁じられている
“その”
コミュニティで
“住んでいる場所が近い”
ただそれだけでシンパシーを感じ合い、
『リアルに愛し合いたいです』
メールを出したのは彼女の方が先。待ち合わせのバーで初めて会った日の加納は少し虚勢を張った様にビールを飲み干し
「じゃあ、するか」
と立ち上がる。それを待っていた愛子は瞳を潤ませ
「はい、ご主人様」
カウンター越しにグラスを磨く青年が目を丸くする、その瞬間を心の奥でほくそ笑みながら俯き、彼の後に従った。
その当時、彼は
“こっちの世界”
に来たばかり。おどおどとリズムの狂った命令ばかりする彼を
“先輩”
の愛子が
“ご指導”
したのが現実。
「我がままな奴隷を御許しにならないで下さい、ご主人様。鞭で打ち据えてくださいまし」
彼女が差し出したのは
“歴代御使えしたご主人様の手垢のついた”
水牛の皮で編んだ一本鞭。十分に水に浸し、よく肌に吸い付く、しなる鞭。初心者には扱いにくいそのお道具を彼女は何も言わずに彼に渡し
「ああっ!」
彼が予期せぬ場所へ振り下ろしたダメージを快楽に受け止める。両手で目を押さえ転げ回る愛子に
「だっ、大丈夫か?」
思わず心配そうな声を出す加納に
「愛されていて嬉しゅうございます!」
悲鳴の様に
“もっと!”
懇願を叫ぶ。その対極で、戦慄き(おおのき)歪んだ顔が
「嘘だろう?」
呟く。でも彼女はそんな事を
“許し”
はせずに
「ご主人様! もっと虐めてくださいまし!」
尖った声で背中を押す。そして迷っていた体がもう一振り、躊躇いながらもぴしりと彼女の体に巻き付いて。
『これでいい』
愛子は満足の笑みを全身に浮かべ
「ああっ!」
真っ白い肌に浮かんだミミズ腫れを誇るかの様に呻いた。
そんな遠い日の事を思い出しながら彼女は一人パソコンに向かっていた。打ちなれたキーボード、指のタッチ。1時間ごとに表面を拭くいつもの習慣も忘れずに。
加納は普通に地方の国立大学を卒業し普通に就職した男だった。何もかも平凡。唯一つ、勤めていた会社を辞めるまでは。
丁度不景気が世の中を覆っていてみんな狂い始めていた。彼だって辞めたくて辞めた訳じゃない。でも残業代もつかない基本給だけで生活するには現代はあまりに苦しすぎ。携帯料金のほんの数百円を節約する為に日中の使わない時間に電源を切り、メールは全てパソコンのフリーメールで受ける様にした。そんな現実が嫌いだった。だから友人の
『いい儲け話がある』
その一言に乗った。
それはインターネットを使ったビジネス。有料の動画サイト。月の儲けはサラリーマンの3倍以上。つまりアダルトサイトの管理だ。もともとスケベな事が好きだった。風俗にも通ったし、出会い系で落とした事もある。
『好きこそモノの初めなれ』
彼は水を得た魚だった。
自宅に三台のパソコンを用意した。生活を完全にシフトし、男達が好みそうな画像を見つけて来ては新しい
“餌”
を仕込む。やればやるだけ儲かった。面白い程に。ただ彼には少しばかり臆病な所があった。自分の
“異常な性欲”
をリアルライフで知られる事は嫌だったのだ。それを恐れた彼は高校の時からつき合っていた
“ノーマル”
な彼女に別れを告げ、適当に
“喰える”
女で満たすようにコトを絞り、そして愛子と巡り会う。
彼女に会うまで、彼は自分をSだと信じていたのが本音。ソフトSMなら経験済み。
“男はぶち込むに限る”
世の中の
“男尊女卑”
は必然だと思っていた。そのくせ所詮は興味本位。M女は適当に命令して、痛い思いをさせておけば満足するだろうと思っていた彼の浅はかさ。それを打ち破ったのが彼女だった。
彼女は奴隷で女王様。無比なる絶対君主。下僕でありながら己の望みを全て
“主”
に命じさせ。時として彼の生温い責めを
『無能!』
視線に込めて侮蔑する。その瞬間彼の頭には血が上り、滾る血潮に任せるまま腕を振り下ろす。
彼は次第に愛子の望む様に
“簡単にキレる”
事を覚えた。
息を切らせその怒張に痺れながら、愛子が示す吐き気さえ催す程の強い
“媚”
に、まるで血の浴槽に使っているみたいだと感じながらもそのぬめりから逃れる事もできず、漫然と、いや全身で浸り続けた。
彼が疲れを感じ始めたのはこの半年の事。飼育期間が二年も過ぎたこの頃、愛子の要求はどんどんエスカレートし、ついにはその姿をビデオに撮って辱めて欲しいと言い出したのだ。その上
『ネットでお仕置きをされている姿を公開されたりでもしたら、愛子は恥ずかしさのあまり死んでしまいます』
とまで
“要求”
し始めた。
愛子は彼の仕事を知っていた。彼女自身は中堅会社でOLをしていたのに関わらず、である。
「お前は本物のマゾだな」
加納は
“反吐が出そうだ”
と頭の隅で囁く常識を聞かなかった事にし、プレイをエスカレートさせながら録画のスイッチを押した。なにしろ彼女の画像は高く売れたのだ。数年前の彼がみたら確実に気が狂いそうになる映像の山。その頂きで彼女は吠える。今自分の中で
“良心”
だとか
“モラル”
を持ち出したら確実に潰れてしまう、その予感が有ったから彼はあえて
“狂ったままで”
日々を過ごし、狂気をまき散らすその画像をアップロードし続けた。そして終わりが来た。
『俊、元気にしている?』
彼をその名前で呼ぶのは彼女だけだった。
「典子」
加納は元カノの名前を呼ぶ。
「お前こそ、元気にしていた?」
小さく頷く気配に全てが崩れ去る。
「今度、帰省するんでしょう? クラス会に出るって聞いたから」
暖かい声の響きに彼の凍っていた心がヒトになり
「うん、そうだよ」
ふと口元をほころばせ微笑む。
「帰省する。何もかもが懐かしいよ」
彼は自分の汚れてしまった手を醜いと思いながら、典子には相応しくないと知りつつも、でもその先を進めずにいられなかった。
「折角だから俺、お前に会いたいな」
高校からの帰り道。日暮れの土手。並んで歩くその指先が微かに触れ合い
『あっ』
小さな悲鳴と、そっと絡んできた細い指。彼女の頬が赤く染まって見えるのは夕焼けの所為。でも彼の顔も真っ赤になりながら
『うん』
ただそれだけを言い、ゴツゴツした手に力を込めたあの夏の日。
愛子との別れは簡単なはずだった。お互いに愛している仲ではなく、ある種肉体の契約関係だ。どうせ足が付かない様に気をつけた商売をしていて何もかも捨てて逃げてもどうって事は無い。手元にはしばらく暮らせる金もあり、故郷のなつかしい面子が
『彼を待っている』
そう言っていた。仕事が無ければ最悪実家を継げば良い。
「帰ろう」
それが彼の出した結論で、彼女に
“正式な”
別れを告げたのは、彼なりの思いやりのはずだった。
つづく