黒ク蠢キ #1
この不景気の中、やっと手に入れたマイホーム、一軒家。中古とはいえなかなかの物件を手に入れた若い夫婦だったが、彼らの背中には思いも寄らない黒い影が忍び寄っていた……。
その家を初めてみたのは桜の季節。うららかな日差しに花びらが舞い
「ねぇ、パパ。ここにしない?」
ママは二階のバルコニーから眺めるその景色にうっとりとした。高台に立ち、見晴らしがよく、しかも見えるのはごみごみした街ではなく地域指定の広々とした公園。その地名を言えば何となく高級住宅地の響きが有る事も気に入った。
「ああ、良いねぇ」
彼は頷いて年収とローンを試算する。振り返り視線の合った不動産屋が勘を働かせにっこりと笑う。
「早い者勝ちです」
築10 年・中古の一軒家・3LDK・南向き。しかも市価の約二割近くも安く、リフォームも済んでいて。
「そうですか、菜摘ちゃんも気に入りましたか」
ママは産まれたばかりの赤ちゃんをあやす。
「それじゃあ、ママ。ここ、第一候補かな?」
その
“ほぼ決定”
な響きに、販売員はニッと笑い
「ありがとうございます」
目を三日月の様にほころばせた。
彼は嘘をついていない。嘘はついていない。でも
“事実”
を教えていない事も確か。
受け渡しまでには少し時間がかかった。元々の持ち主は大学の教授。その人が亡くなり家族が遺産相続の手続きを済ませる必要があったから。不動産屋はこっそりと耳打ちをする。
「少し待ちますが、絶対に正解」
ネズミの様な顔つきの男が口元に手を当て小声で話す。
「今回は特別なんです」
なにしろ誰もが知っている有名大学の教授の持ち家だ。
“確実に”
登記書き換えが済みさえすればどこにも不安は無い。しかも
「売り主さん、父親と仲が悪くてね。その親の持ちものは
『家だって見たくない。早く手放したい』
って事だったんですよ、ええ。この通り世の中不景気ですから、買手が見つからない可能性もあるでしょう? だったら多少安くても確実に売れた方が良いって事みたいです」
小さく肩を揺らしながら笑う姿は、
『仲介手数料もがっぽりもらっている』
そう言っていた。そして彼らは引っ越して来た。
ご近所さんはやや無愛想ではあるが、もともと金持ちが住むはずのエリア。若い二人には不釣り合いと言えば不釣り合い。仕方が無いと我慢する。市街にもほど近く、車さえ使えれば大型のショッピングセンターも近い。リビングから見える景色の向こうにとけ込んで見える建物を指差し
「あそこの大学の教授の持ち家だったんだよ。パパ、凄いだろう?」
彼はまだ言葉の分からない子供に向かって的外れな自慢をした。
この家には秘密が有った。
「思ったより屋根裏、でかいなぁ」
それは見学の時には電気が契約されておらず十分に見る事が無かった部屋。蛍光灯のスイッチを入れてみる限り、通常の
“ロフト”
という広さではない。
“部屋”
だ。畳にして18畳程あろうか。床はしっかりした板張り。でも天井は剥き出しの梁がそのままになっていて法律上は部屋として登録をしていない。
「これはある意味ラッキーだったかも」
部屋から漂う僅かな有機物質の匂いを嗅ぎながら夫婦はほくそ笑んだ。3LDKと4LDK。一部屋違うと価値がまるで変わる。しかもこの部屋は今流行のホビールームと言えばそれに当たる。
「良い買い物をしたね」
転売にも困らない。二人は顔を見合わせにやりとした。
その夜の事。二週間前に梅雨明けし夏らしくも蒸し暑い夜、一家は窓を開けて一階のリビング脇の和室で川の字になって寝ていた。郊外のこのエリアならさほど物騒な心配は無い。そんな安心に包まれながら、そろそろ赤ちゃんにおっぱいをあげる時間だと目を覚ましたママがその
“物音”
に気がついた。カサリ、カサリ。それはとても小さな音。耳を澄ましてやっと聞こえる、そんな音。
『泥棒?』
彼女の中に緊張が走る。
『まさか、ね』
音はリビングを挟んで向こう側、キッチンの方から聞こえて来て。普通こういう家だったら二階のベッドルームで寝るものだ。そう安心した
“誰か”
が忍び込んだのかもしれない。
『どうしよう』
パパを起こそうか、そんな事を考えたがこちらには赤ちゃんがいる。
『何かがあったら』
そう思った時、やって来た不審者が
“自分から”
いなくなってくれるのが一番良い、そう思い
「う〜ん」
彼女はわざとらしい音で、自分の存在をアピールした。もし不審者だったら、人がいる事に気がついて逃げ出してくれる、そう思ったのだ。案の定台所の気配は消え、それと呼応するかの様に赤ちゃんが泣き出した。
「菜摘ちゃん!」
彼女は反射的に娘を抱え上げる。そしてハッと気づくのだ。
『もしもキッチンに本当に誰かがいたらどうしよう』
赤ちゃんを抱きしめ、耳元でその叫びを聴きながら彼女は耳を澄ました。そして数秒の後、誰もいないと判断し胸を撫で下ろした。
「ご免ね、菜摘ちゃん。ママの取り越し苦労だったみたい」
おっぱいをあげている間もおむつを変えている間も誰かが出て行った気配も無く
『本当に気のせいだったんだわ』
彼女は胸を撫で下ろした。
そのあくる日の夜の事。その日は友引、
“供に引き合う”
夜。つまり、生きているものと死んでいるものが
“惹かれ合う”
その夜。彼女は眠れず、夢の境目に行っては逆戻りを繰り返し、朦朧とした中にいた。そして声を聞く事になる。
『……ろせ、……ろせ』
地の底を這う様な男の声。遠くから響き、彼女の方に向かって震えながら襲いかかる。ふと足下には紺色の靴下をはいた男の下半身が有り……
「嘘っ!」
彼女は飛び起きあたりを見渡した。と、そこには誰もおらず、むしろ彼女は
“変な夢”
を見ていたらしい事に気がついた。心臓がばくばくし、気持ちが悪かった。確かに
『殺せ』
の声を聞いたと思った。でもよくよく思い出すと男の声の後ろでは扇風機のブーンと鳴る音が聞こえた。でもこの部屋にそんなものは無い。だから
“夢”
だった。
「気味が悪い」
小さく吐き捨て再び布団に横になると、たった今
“体験した”
と思った感覚がゆっくりと薄らぎ、どんな夢を見たのか忘れてしまい、ただ
『怖い思いをした』
という気持ちだけが残った。見上げる白い天井。冴えてしまった目。眠れない。
「参ったなぁ」
子育ては意外に疲れるもので、特にこの季節は寝れる時にしっかり寝たい、そう思う。彼女はとりあえず目をつぶり、時間が経つ事に期待をした。
そして明け方、コツン、コツン。キッチン脇の勝手口に誰かが小石を投げる様な音が繰り返し聞こえて来て
「ねぇ、パパ」
結局眠れないまま過ごしたママが彼を揺すり起こす。どこからともなく、あの気味の悪いブーン、ブーン、という音も聞こえて来る気がした。
「何か変」
「んん……」
さすがに彼は男だからそれ程度の事を気にするはずが無く、もぞもぞと体を揺すった。
「子供のいたずらだよ」
と。でも彼女は知っている。どう考えても家の敷地内に入らない限り、そこに小石を当てる事なんて出来ないのだから。
その朝、
「パパ、行ってらっしゃい」
ママは笑顔で彼を送り出した後、一瞬で地顔に戻り大きなあくびをした。
「やってられない」
だから子供が好きそうなテレビにチャンネルを合わせ、敷きっぱなしの布団の上にごろりと横になった。今朝は小雨が降っていて洗濯物は外に干せない。洗い物も後で良い。今はとにかく寝たかった。はいはいをする様になった子供が部屋を出て怪我をしない様、安全冊もあるから怖くない。そして彼女は底なし沼の泥の中に埋もれるかの様に眠りの渦に沈んだ。
『キャッキャ、キャッキャ』
赤ちゃんが一人でご機嫌で遊んでいる。
『キャッキャ、キャッキャ』
黒い玩具で遊んでる。
白い天井、黒い天井。ブーン、ブーン。覆い尽くす黒い雲、異臭。そっとそっと、それは近づいて来る。小さな音を立て、いや、むしろその
“音”
を彼女に聞かせ、その恐怖心を煽るかの様に近づいて来る。そして音はぴたりと止んで、正に
“彼女のすぐ近くに”
やって来た。彼女は逃げようと必死になって体をねじるが動かない。
『空は何色?』
ママは頭を巡らせる。夢だとしたら怖かった。でも現実だったらもっと恐ろしい。せめて夜の闇の中からは抜け出したくて、目を見開く。きっとこれは自分の夢の中、自分でコントロールして
“ハッピーエンド”
に切り替えられる。手足に力を入れる。動かない。
『金縛りにあっている』
彼女は思った。現実か夢かなんてどうでも良い。疲れ過ぎていておかしくなった。それだけは分かる。そして動けずにいる彼女の肌の上に
“ひたり”
悪魔がやって来た。それはまるで百の触角を持つ毛虫。ゾワリと蠢き、彼女の上を這い上がる。最初は腕だ。その腕の内側の柔らかい部分にしがみつき、ひっそりと彼女の頭を狙いせり上がる。
「助けて!」
パチン! 音がして夢が始め、渾身の力で悪魔を払いのける。
「ひっ!」
彼女が飛び起きた瞬間、
「ぎゃぁつ!」
その胸の上から黒い固まりが転がり、小さな頭が大きく襖に叩き付けられーー弾んだ。
続く