息モ苦ルシク #8
マリコのプリンは手作りだった。黒砂糖を煮とかし牛乳と卵を加え。それをプリン型に入れ蒸し焼きにする。その香りはいつだって家中に立ちこめて、彼女の家をより彼女のものだと実感させてくれた。
この家のローンはこれから30年。名義は夫。何か有ったら保険がカバーしてくれる。彼女の大切な我が家。
「予定より早く帰らないといけなくなった」
夫は一日早く赴任先に戻る事にしたらしい。それを彼女は笑顔で送り出す。
「気をつけてね」
ただその前に、
「折角だから私の手作りのプリンを食べて行ってよ」
特製のプリン。甘いプリン。
「やっぱりママの手作りプリンは美味いな」
甘える声で彼は息子に肩を寄せ微笑んだ。
「この家からしばらく遠ざかるのって、寂しいなぁ」
その顔は本心を語っているかの様にユカリ達に向かって微笑んでいた。
高速は渋滞。帰省ラッシュ。家から高速に乗るまでは10分もかからない。でもプリンの効果は30分程で現れる。
「あら? ユカリ。シンの事知らない?」
父親が家を出るというのに彼の姿が見えなくて
「さっき外に遊びに行くって出かけちゃったよ」
姉が笑う。
「そっかぁ」
諦めた顔つきでマリコは素早くうつむいた。どうしても顔が笑ってしまうから、それを隠したいと思ったのだ。ハルシオンはいきなり利いて来る。まるで崖っぷちから落ちるみたいにすとんと眠りにつく事が出来る。頑張っても1時間が限界。今朝寝室に鳴り響いたORANGE RANGEの着メロ。その直後の
『仕事で急いで帰らないといけなくなった』
困った様にしかめる夫の顔。帰り道、彼はいそいそとアクセルを踏む込む事だろう。
高速は渋滞。数珠つなぎ。時々流れが速くなり、その瞬間エンジンの回転数を上げる。ブゥーン。素早く踏まないといけないブレーキ。
彼はいつもより車体が重い事に気がつかない。彼を待っている人がいるから。彼女の元へと心が飛び、合間を見てメールを繰り返す。
“早く会いたいなぁ”
ニヤニヤと笑い、バックシートの足下にうずくまり息をひそめる固まりに目がいくこともない。
高速は渋滞。パーキングエリアを抜けた時だけは流れが良くなるから、いくら眠くても彼は休みを取れない。
“あと3時間で会えるよ”
送信。じりじりと近づく目的地、落ちて来るまぶた、踏むアクセル。
その電話を受け取った時、マリコは心底驚いた。交通事故。しかも彼の車の後ろには息子らしき子供が乗っていたと言う。
「どうして!」
半狂乱になった彼女はどうして良いか分からず叫び続けた。
「嘘、嘘、嘘!」
シンがこんなに簡単に死ぬはずが無いのだ。あれ程気をつけていた。死にそうな目に遭わせておきながら、一度も危険に晒さなかった。その自負が有ったのに、何が起こったというのだ! 平静を失い何をすれば良いのか分からず彼女は部屋の中を歩き続けた。頭ががんがんし、胸苦しさに襲われる。過換気症候群だ。
「ママ、袋!」
何が起こったのかすぐに察したユカリは彼女にビニール袋を渡す。
「頑張って、苦しいけれど頑張って!」
受け取ったマリコは躊躇わずにそれを被る。
“ママ、苦しいけれど頑張るわ!”
彼女はあらん限りの力で袋を被り続けた。これは試練だ。ここを乗り越え、幸せな家庭を築くのだ。邪魔者は消えた。もう夫はいない。まさか息子までもいなくなるとは思っていなかったものの、彼女の勝利は目前だった。
大きな家と賢い娘。いっその事再婚するのも良い。ユカリの受験が終われば後は安泰。幸い娘は物わかりが良いから、マリコの
“恋愛”
を応援してくれるだろう。
目の前に広がるのは、大きな空。それからお花畑。マリコは死にものぐるいで夢にすがりつく。その胸の苦しみが早くなくなります様に。
やがて彼女の手をそっと捕らえた小さな手が有った。
『ママ、僕が手伝ってあげるよ』
それは半年前の優しくて聞き分けの良いあの息子だった。
「あ・り・が・と・う」
彼女は消えて行く意識の中で囁いた。
『ねぇ、ママ。早くこっちにおいで』
シンは彼女にしがみつく。
『パパが待ってるよ』
初七日が終わった後、ユカリはぼんやりとケースの上に座っていた。シンを行かせたのは自分だったから。弟を殺したのは自分だと、悲しい気持ちでいっぱいだった。
弟はパパと一緒に行きたいとママと彼女には内緒で話していたのだった。
『ママが許してくれないよ』
パパはシンに向かってそう言った。
『そんな事無いよ、ママはきっと許してくれる』
ユカリはそう言いながら間に入りたいと思った。でもきっとパパが許してくれない。そこでシンに向かって教えてあげたのだ。
『自動車に潜り込んでついていってしまえば良いよ』
それが解決策になると思った訳ではない。ただ少しの間だけ、シンにはこの家から離れて欲しかった、それだけのはずだった。
「まさか永遠に離れちゃうなんてね」
その上母があれ程までにパパとシンを愛しているとは思ってもいなかったユカリだった。
あの時彼女の目に映った母はパニックを起こし、速い呼吸を何度も繰り返しながらもがいていた。被ったポリ袋さえ効果がないと言うかの様に身悶え、袋の中の二酸化炭素を吸うだけでは足りないと言わんばかり、薄くて透明なシートをぴったり顔面に押し当てたのだった。
「えっ?」
まるでホラー映画を見ている様なワンシーンに彼女は驚きたじろいだ。そこまでする必要はないと思ったのだ。しかし彼女は死ぬ瞬間までその袋を放さなかった。両手はしっかりとその先端を握りしめ、最後の痙攣を繰り返しながらもその意志は固かった。
『もしも』
考える事が有る。もしも弟が反抗期を起こさなければ。もしもパパが単身赴任じゃなかったら。もしもママが過換気症候群じゃなかったら。もしもあの時自分がたじろぐ事無くあのポリ袋を破る事が出来さえしていたら。もしも、もしも。
ユカリの物思いを破ったのは
「そろそろ行かないと」
おじいちゃんの声。
「はい、今行きます」
結局彼女は受験を諦めた。父の実家に引っ越し、地元の中学に通う事にしたのだ。
「有名な学校には行かなくても良いから。残念かもしれないけど、じいちゃんを助けると思って、一緒に暮らしてくれないか?」
彼の素直な気持ちにユカリは頷いた。どうせもう身寄りは無い。いかにも財産目当てのママの母親と暮らすより、惚け始めたとはいえママに優しくしてくれていたお婆ちゃんと暮らす方が幸せだと思ったのだ。
彼女はゆっくりと階段を下りた。
「マリコさん、大事なもの持った?」
お婆ちゃんが目を細めながら彼女を見上げる。
「それが大事なもの?」
「うん、そう」
ユカリは力強く頷いた。
「この箱には思い出がいっぱいつまってるから。ママと私と、それからシンの」
その手にはあのストッカー。
「もし私がこれから困る事が有った時、この箱が助けてくれる、そんな気がするの」
プラスチックの空っぽの箱。片手で持てる蓋付きの箱。
「お待たせ」
下まで降りて来た彼女は年老いた小さな体にそっと腕を回す。おばあちゃんはそんなユカリを見つめながらニコニコと笑い
「こんな可愛いお嫁さんをもらえて、私は嬉しいねぇ」
まるで童女の様に微笑んだ。
息モ苦ルシク ハ終止符ヲ打チ 黒ク蠢キ 二続ク




