誘い〜いざない〜
わたしは電話が怖いのです。
家の固定電話の音は突然なると驚くことはありますが、不思議と嫌悪感はありません。
わたしが怖いと感じるのは携帯電話なのです。
メールの着信音は誰からだろうと思うくらいで、怖いという思いはありません。
わたしが怖いと感じるのは携帯電話からの電話なのです。
電話のほとんどはアドレスに登録しているある番号からなので、嫌な思いを抱くことに違和感を覚えました。
電話をする事が嫌いなわけではありません。登録してある番号からの電話は親しい人の方がほとんどで、電話で話すこと自体は楽しいのです。
知らない番号からの電話があることもありますが、1回目はまず出ない事にしています。
間違い電話や、以前いたずら電話があり不愉快な思いをしたので。大切な用事であればもう一度電話をするはず、わたしはそう思います。
2回目の着信を取ると、やはりと言いますか。知らない相手からの間違い電話であることがほとんどです。
ごく稀に、番号を変更したことをわたしが知らないだけで、友人である場合もありますが。
電話で話をすることを好まない人もいるわけですが、わたしはそういうわけでもないのです。電話が不愉快なわけではないのです。
にもかかわらず、電話が怖いと思うのです。
わたしはその原因が着信音にあると思い、何度か変更しました。
携帯に最初から設定してあるメロディーは駄目でした。怖いという思いが拭えないのです。
そこで、自分好みのものをダウンロードしてみました。着メロ、着うた、着ボイス。
どれも携帯から音が聞こえるたびに、やはり怖いと思ってしまうのです。
そこで、音が鳴らないようにバイブレーション設定にしてはみたのですが、携帯が立てる音や点滅したランプを見る事を怖いと感じてしまうのです。
そして、無音にしてはみたのですが、当然のことながら一日中携帯を監視して生活は出来ないので、着信に気がつきません。それはそれで嫌なものです。結果的に携帯をこまめにチェックすることになり、落ち着かないのです。
いっそのこと携帯から解放された方が楽な気さえするのですが、わたしにはその勇気もありませんでした。
つまりは、漠然とした嫌な気持ちを感じるときもあるけれど、我慢ならないというレベルには至っていなかったのです。
「天宮さん、携帯鳴ってるよ」
そう言ったのは、小川夏子さん。小川さんはバイト先のコンビニの社員さんで、若い女性ですが店長です。わたしより5歳年上なんですが、落ち着いた印象の人です。長い黒髪を後ろで結び、バックヤードのデスクに座っています。わたしがバイトに行くたびに必ずと言っていいほど店長の姿を見かけます。
「ブーブー言ってるけど、出なくていいの? もしかして、彼氏から?」
わたしは開いたままのロッカーから、バックを取り出しました。たしかに、わたしのバックの中から音がしています。
「ち……違いますよ! でも、携帯は鳴ってるみたいです」
バックの中には小物やらノートやらいろいろ入っているけれど、間から音と共に携帯のランプが点滅しているのが見えます。
わたしはロッカーを閉じて、外に出る事にしました。
「店長、お疲れさまです」
わたしは店長に挨拶をすると、すぐに返事がありました。顔が笑っています。眼鏡の奥の黒い目が、隠さなくても分かってるよと言っている気がしました。
「照れなくてもいいのに。お疲れ〜」
わたしは頭を下げ、裏口から出ました。
店長はコンビニに長い時間いるせいか、バイトの人間関係を熟知しています。それが、噂であってもわたしが驚くほど把握しています。だから、噂を信用しているせいか誤解をしているのです。
わたしには彼氏はいないことをわたし自身がよく分かっているのですから。
わたしは裏口を出たすぐの駐車場のあたりで、バックを開けました。僅かな振動と共に青や緑、赤や桃。ランダムに光るのが見えます。
まだ、携帯が鳴っているのです。
店長との会話で気が紛れていたものの、こうしてひとりになってみると、忘れていた感情を思い出したようです。
「梓ちゃん、お疲れ」
わたしは一瞬びくっとしたけれど、顔を上げました。
なんというか、今どきの男の子が目の前にいました。コンビニの黒い上着の下にはジーンズ。背はわたしよりもずっと高く、髪も明るく染めているし、ピアスも何ヵ所も開けています。缶コーヒーを左手に持ち、右手には火のついたタバコを持っています。
性格も正反対のようで、わたしとの共通点はないようにさえ思えます。
「……各務さん、お疲れさまです」
各務さんはコンビニの裏口近くに置いてある灰皿に、タバコを持った手を伸ばして火を消しました。
「梓ちゃんはもう上がり? ん、携帯鳴ってるっぽくね?」
手元を見ると、まだ携帯は鳴っています。
「え、そうですね……」
なんというか。苦手な感じの人の前で携帯を取ることに抵抗を感じないわけではありませんでしたが、ずっと携帯を鳴らすくらいなのだから急ぎの用事があったのかもしれない。そのことをようやく思ったのです。
バックの中から取り出した黒い携帯は、まだ鳴り続けています。
サブ画面にはなにも表示されていません。
「え……なに?」
携帯を開いて見ると、着信したときのキャラクター画面になっています。それは、普通です。
でも、番号を表示する白い画面には、何も表示されていないのです。
「……どした?」
携帯を開いて動かないわたしに、各務さんは声をかけてきました。
「あの……変なんです。携帯が」
わたしがそう言うと、各務さんは
「見せてみ」と言って、わたしから携帯を取りました。
「あ、あの……変ですよね?」
各務さんはわたしの携帯をまじまじと眺めています。
「ん、ちょい待ち」
そう言うと、わたしに缶コーヒーを差し出したのでわたしは受け取りました。各務さんは左手で携帯を持ち耳に当てました。
「……音しないなあ、故障かなんかじゃ――!!」
突然、目の前が光りました。
明るいというよりは、世界が白一色に染まってしまったような。
「か、各務さん!? 今のは――」
わたしは手を伸ばしました。引き寄せられる感触と共に各務さんの声がしました。
「……良かった、無事だよな?」
たしかに、近くから聞こえました。
「はい。各務さん……ですよね?」
見えないのです。
何も。
わたしは、ただ分からない状況の中にいました。
「ん〜、役得」
「……こんな時に、なに言ってるんですかっ!」
わたしは、各務さんであろう感触を突き飛ばしたい衝動にかられました。
けれども、そのことよりも気がかりなことがありました。
「こんなときくらい、気にすんな」
「はぁぁ〜?」
心の底からの、声が出ました。
この人は何を言っているのか。そう思いました。
けれども。何か起きたとしたら、その原因はわたしの携帯にある気がしました。
「各務さん、わたしの携帯は……どうなってますか?」
ぎゅうっとするのは、止めにしてください。その言葉は胸にしまっておきます。今は。
「……梓ちゃん、俺のコーヒーは?」
突然耳元で声がしたので、鳥肌が立ちました。ぞわぞわしています。
「……近いです! えと。分からないうちに、なくしちゃったみたいです」
ふーんと、どうでも良いような返事がありました。声が、近いです。
「……か、各務さん? あの――」
わたしがそこまで言ったとき、何かぶつかるような感覚がありました。
わたしと目を開くと、目の前に顔がありました。
「……へっ!?」
がつん、音がしてもおかしくない衝撃もありました。
「いっ……痛っ!」
「……っつぅ、いきなり起き上がんな!」
目の前には、顎を押さえてしゃがむ各務さんがいました。
「あの……ここは?」
さっきまでいたはずのコンビニの駐車場ではないようです。
「え、ここはどこなの?」
視界に広がる限り、青々とした空。
バイト帰りはたしかに夜でした。
なんというか、爽やかな自然の香り。
「なんつーか、夢の世界?」
わたしは頭を右手で押さえました。少し、くらくらします。
「おい……大丈夫か?」
そんな各務さんの声がしました。姿勢を少し直して、左手で草っぽいものを掴み力を入れました。
その草は千切れたりもせずに、伸びました。わたしは大きく息を鼻から吸いました。かなり草っぽい香りです。
それに、違和感がありました。
手をついた感触や、座っている感触が、どうにもおかしいのです。
固くない。
土っぽくない。
コンクリートじゃない。
わたしはまじまじと下を眺めました。
色は、土っぽい黒ずんだ茶色。どこかで見たような色で、おかしくはないと思います。
ふと顔を上げると、にやにやしている各務さんと目が合いました。
「面白いだろ? 色々ゴムっぽいんだよね」
各務さんはそう言いました。
「……たしかに」
わたしが地面らしいところをつつくと、確実に弾力がありました。
がしっ。
「……なっ」
――これって。
わたしは、ぴしゃりと各務さんの頬を打ちました。
「うん……夢じゃないね。ちゃんと、感触あったし」
急に、背中を掴まれた感触と。甘いコーヒーに混ざったタバコの香り。
わたしは頭に血がのぼるのが、自分でも分かりました。
「……なに考えてるんですか、こんなときに!!」
わたしは、本気で怒鳴りました。
けれども、各務さんは腹が立つほどに満面の笑みで言ったのです。
「梓ちゃんと一緒で良かった〜」
と。
――わたしは夢であって欲しいと、真剣に思いました。切実に。
プロローグのような仕上がりになりました。一応、これで完結です。