第3話 暗殺者は地上の洗礼を受ける
視界いっぱいに広がる青空と白い雲。
静かな波の音は、なんとなく聞いているだけでリラックスできる。
救命ボートに寝そべった俺は、海の上を漂っていた。
(いやぁ、暇だな)
半日ほど前からこの調子だった。
ドラゴンを殺した俺は海に落下して、おそらく気絶した。
目を覚ますと、流木に引っかかって海に浮かんでいたのである。
その後、海上を漂う旅客機の残骸を発見し、火の消えたそこから奇跡的に無事だった救命ボートを入手した。
一人でボートに乗り、ひとまず落ち着いて現在に至る。
ちなみに他の乗客は残らず死んでいた。
墜落時の爆発で全滅したのだろう。
(我ながら凄まじい悪運だな)
改めて感心しつつ、俺は自分の身体をチェックする。
水色のアロハシャツにカーキ色のズボンという組み合わせで、靴はサンダルに変わっていた。
海を漂っていたスーツケースに入っていたのだ。
元の服は燃えてしまったので残っていない。
いや、服装なんてどうでもいい。
それよりも大切なことがある。
衣服から伸びる俺の手足には、傷一つ付いていなかった。
顔や頭に触れても同様だ。
まるで赤ん坊のように滑らかである。
これは明らかにおかしい。
俺はドラゴンの火炎を浴び、さらに高高度から海面に衝突した。
満身創痍になる覚悟をしていたが、実際はなぜか無傷である。
数時間前、俺はこのことについて原因を考察した。
幸いにも時間は有り余っていた。
波に揺られるばかりなので、暇潰しとしてはちょうどよかった。
そんなわけで俺は一連の出来事を振り返り、一つの答えを導き出した。
結論から述べると、スカイダイビングを敢行して無傷で済んだのは、スキルのおかげだと思われる。
脳内のアナウンスで何度も登場していた単語だ。
これが具体的に何なのか、俺はしっかりと調べた。
端的に説明するならば、スキルとは特殊能力みたいなものである。
所持することで効果を発揮する不思議な力だ。
まるでゲームのような仕様であるが、認識としてはそれで間違いないだろう。
今回に関しては、俺の持つ【不死身 B+】と【再生 C++】のスキルが活躍したに違いない。
前者が落下による即死を防ぎ、後者が全身の怪我を治癒したのだ。
だから厳密には無傷で済んだわけではない。
一度は即死クラスの損傷を負い、気を失っている間に再生したのである。
試しに腕を引っ掻いて切り傷を付けたところ、傷は数秒で消失した。
逆再生のように治ってしまうのだ。
再生能力は常に発動していることが判明した。
それにしても、俺は驚くほど幸運だ。
どちらか一方のスキルが欠けていれば、取り返しのつかないことになっていた。
誰に向けてかは不明だが、感謝せざるを得ない。
世界はモンスターが出現する魔境になってしまったのだ。
これくらいの備えはあって然るべきだろう。
死ぬ心配をしなくていいのは嬉しい。
ちなみに取得したスキルは、念じることで一覧となって表示され、効果も閲覧できる。
比較対象がないので何とも言えないが、俺の持つスキルは優秀なものばかりだ。
今後、役立つ場面は多いはずである。
上手く活用していこうと思う。
その時、背後から水音がした。
俺は手をついて振り返る。
海面から跳び上がってきたのは大型の魚だった。
野球ボールくらいなら丸呑みできそうなサイズはある。
開かれた口は、小さな牙がびっしりと生えていた。
「おっと、危ない」
俺は魚を蹴り上げる。
魚は爆散し、そのまま海へと落下した。
水中を覗き込むと、明らかに鮫らしき群れが集まってきている。
鮫は俺の殺した魚を食らっていた。
そのうち一匹が浮上して噛み付こうとしてきたので、その鼻面にフルスイングの拳を叩き込む。
千切れ飛ぶ鮫の頭部。
首無しとなった部分が沈み、間もなく仲間に食われ始めた。
俺は血に染まった拳を海で洗い流す。
この通り、海もモンスターだらけだった。
油断も隙もあったものではない。
腕を浸しておくと、たちまち何かが釣れる始末である。
下手をすれば、飛行機でドラゴンに襲われた時よりも危険な状況だった。
それに比べれば些細なことだが、俺の身体能力もおかしなことになっている。
まるで重機のようなパワーを持っているのだ。
今ならスーパーヒーローの面接に参加しても受かるだろう。
そう思えるほどの変化である。
これも考察済みで、正解であろう答えが出ていた。
急上昇した身体能力には、俺のレベルが関係している。
スキルと同じく、新たに導入された世界のルールだ。
機内にいたゴブリンや騎士にもレベルが設定されていた。
基本的にレベルが高いほど強い。
そして他者を殺すことで経験値を取得し、経験値が一定のラインを越えるとレベルが上がる。
これもRPGではよくある仕組みだった。
現実世界で採用されている点は謎だが、理解はしやすかった。
ドラゴンを殺した俺は、一気にレベルアップを果たしていた。
これにより、身体能力が常識外れとなったらしい。
まあ、文句はない。
おかげでボートの安全を確保できており、海のモンスター共の餌にならずに済んでいた。
(さて、これからどうするかね……)
俺はデジタルカメラを弄りながら考える。
これも衣服と同じく、無事だった旅客機の荷物だ。
他にもいくつかの荷物をボート内に置いてある。
ただし、機械類は水没して故障していた。
修理しようにも、替えの部品や工具がない。
ラジオやスマートフォンが無事なら、色々と情報が集められたので残念である。
今後の目的は未定だった。
このような状況になってしまった以上、呑気に帰宅する気も起きない。
そうなると、何をすべきだろう。
(……いや違う。何をしたいかで決めた方がいいか)
俺は首を振って考えを改める。
直近の仕事はすべて片付けていた。
本来のスケジュールでは、振り込まれた報酬でしばらく豪遊するつもりだった。
つまり予定なんてないようなものである。
仮に予定があったとしても、この騒ぎではキャンセルになっていただろう。
標的の始末どころではない。
どのみちフリーになっていた気がする。
とにかく、このようなイレギュラーは滅多に起きるものではなかった。
ある種の天変地異だ。
幸か不幸か、俺はそれに直面している。
(もしやこれは、千載一遇のチャンスなのか……?)
世界は俺好みに変貌しつつあった。
退屈な日々は、血生臭い暴力によって淘汰されようとしている。
これは素直に乗っておきたい案件だった。
秩序と倫理が崩壊している。
おそらく全世界に異変が生じているのだろう。
これほど素晴らしい出来事は珍しい。
俺の求めていたシチュエーションである。
陸地に辿り着いたら、まずは情報収集をしたいと思う。
ついでに武器も確保していくつもりだ。
いくら強くなったと言っても、素手のままはナンセンスである。
できれば銃火器がほしい。
それと移動手段になる車両も必要だ。
交通網が麻痺している可能性があるので、オフロードバイクなんかがベストだろう。
とにかく陸地に着いてから、具体的な方針を決める。
地上がどうなっているのかも気になる。
さぞ愉快なことになっているのだろう。
到着がとても楽しみだった。
◆
漂流生活が始まってから三日が経過した。
一向に陸地に辿り着けず、俺はボートと共に海を彷徨っていた。
たまに海のモンスターを殺し、その肉で空腹を凌いでいる。
スキルで不死身になっているので、遠慮なく生食を選んでいた。
食中毒が怖いものの、今のところは健康そのものだ。
むしろ力が漲っている始末である。
(栄養価という面で、モンスターの肉は優秀なのかもしれない)
どうでもいいことを考えつつ、俺は魚の骨を海に捨てる。
しかし、まだ陸地に着かないのだろうか。
そろそろ海に揺られるのも飽きてきた。
オールがあれば漕いで進めるのだが、生憎と手元にはない。
危険を承知で、泳ぐのも一つの手だろう。
どうせ不死身な上に再生するのだ。
モンスターとの戦いで怪我をしてでも、陸地を目指していける。
「はぁ……」
俺は何度となく読み込んだパンフレットを投げ捨てた。
暇潰しに目を通していたが、そろそろ内容を暗唱できそうだった。
うんざりした気分で寝転がると、水平線を眺める。
その直後、俺は上体を起こして目を見開いた。
「お……おおっ!」
思わず歓喜の声が洩れる。
遠くに陸地が見えていた。
幻なんかではなく、確かに存在している。
不安だったが、しっかりと陸に近付いていたようだ。
これ以上の漂流生活は遠慮したかったので、本当に良かった。
ボートは潮の流れに乗っており、順調に陸地へと進んでいる。
この感じだと、どれだけ時間がかかっても昼前には上陸できそうだ。
俺はさっそくボート内の整理を始めた。
僅かながらも荷物をまとめて、いつでも出発できるようにする。
必要な物は、スポーツタイプのリュックサックに詰め込んだ。
俺は口笛を吹きながら陸地を眺める。
そうして待つこと暫し。
陸地の様子が見える距離になってきた。
俺は目の上に手をかざして注目する。
海岸は華やかなビーチとなっていた。
色とりどりのパラソルが並び、水着姿の人々が砂浜を歩き回っている。
遠目にもかなりの数が確認できた。
海に浮かんでいる人もいる。
(妙に平和な光景だな。ここにはモンスターが出ていないのか?)
俺は首を傾げる。
そのようなことがあるのだろうか。
判断材料に乏しいため、どちらとも言えない状態だ。
ただ、ビーチには普通に人間がいる。
陸にモンスターがいたら、パニックであのように遊んではいられないはずだ。
少なくとも安全とは考えられる。
「ん?」
距離が縮まっていく過程で、俺は強烈な違和感を覚える。
ビーチの白い砂には、赤黒い斑点が散見された。
あの色味はよく知っている。
悪趣味なペイントでなければ、あれは血液だろう。
それも時間がそれなりに経った際の色である。
ビーチの人々も、よく見るとおかしかった。
全身が傷だらけで、歩きまわる様も妙に緩慢だ。
酔っ払いのようにふらついており、正気とは思えない。
いずれも遠目には分からなかった点である。
「ふむ……」
俺は目を凝らして観察する。
距離が近付いたことで、詳細な部分まで視認できるようになってきた。
そして、とんでもない勘違いをしていたことに気付く。
水着の人々は、人間ではない。
濁った灰色の瞳は、揃って虚空を眺めていた。
口の周りは血だらで、端から涎を垂らしている。
ビーチの端では、何人かが屈み込んで集まっていた。
そこには人間の死体が倒れている。
彼らはそれを千切っては口に運んでいた。
「――ゾンビだ」
遠方の光景を目にして、俺は自然と呟く。
ビーチを彷徨うのは、映画に出てくるゾンビそのものだった。
特殊メイク等では決してない。
所在なさげに徘徊する彼らには、本物の不気味さがある。
(ゾンビに噛まれた者はウイルスに感染して、最終的にはゾンビになってしまう)
映画ではよくある設定だ。
水着姿のゾンビを見るに、その仕様は忠実に再現されているようであった。
世間一般では悪夢と評されるであろう光景に、俺は思わず苦笑する。
(海のモンスターの次はゾンビってわけか)
なかなかにユニークなラインナップである。
これは笑うしかないだろう。
次は何が出現するのか、もはや楽しみになってくる。
ゾンビに占拠されたビーチに向けて、ボートは着実に接近していた。
このままだと、彼らの待つ海岸にゴールするだろう。
軌道修正しようにも潮の流れが強く、あまり現実的ではなかった。
たとえビーチを迂回したとしても、いずれ上陸しなければならない。
別の場所にもきっとモンスターがいる。
それならゾンビの相手をすればいい。
わざわざ逃げることもなかった。
(難しい話じゃない。噛まれなければいい話だ)
さらに俺の場合は【不死身 B+】と【再生 C++】でゾンビウイルスを無効化できる可能性がある。
もっとも、それを検証することはできない。
万が一の時は、スキルが効いてくれるように祈っておこう。
そうこうしている間に、ボートはいよいよビーチに到着した。
ゾンビ達は俺の来訪を察知すると、呻き声を上げてゆっくりと歩み寄ってくる。
「ハハハ、大歓迎だな。嬉しくて涙が出そうだよ」
軽く笑う俺は、リュックサックを背負った。
両手に布を巻いておく。
気休め程度だが一応の感染予防だ。
直接殴るよりはマシだろう。
俺はボートから降りる。
膝下までが海水に浸かった。
いい具合の冷たさだ。
両手の指を鳴らしながら、ゾンビのもとへと向かっていく。
最寄りのゾンビが掴みかかってくる。
俺は懐に潜り込んでアッパーカットを繰り出す。
拳はゾンビの頭部を顎下から打ち抜いて粉砕した。
殴った俺が驚くほどに抵抗感が無かった。
レベル差による攻撃力と防御力の違いだろう。
そのゾンビは、首から血を噴きながら倒れた。
海水が赤く染まっていく。
潰れた脳漿が流れ出していた。
今度は左右から十体ほどのゾンビがやってくる。
動きはノロマだが、数はそれだけで脅威となり得る。
殺すのに手間取っていると、別の個体に噛み付かれそうだった。
「まったく、モテる男は苦労するね」
俺はそのうち一体の腕を掴み、ハンマー投げの要領で振り回す。
巻き込まれたゾンビが、まるでボーリングのピンのように吹き飛んだ。
一部はぶつかった弾みで四肢がもげていた。
追撃として掴んだゾンビを順に叩き付けていく。
乱暴な扱いのせいで腐肉が四散した。
しまいには俺が掴んでいたゾンビの腕が千切れる。
腕ではない方の部位は、そのまま勢いに任せてすっ飛んでいった。
「脆いな。栄養が足りていないんじゃないか?」
俺は近くで起き上がろうとするゾンビの口に、残された腕を突っ込んでやった。
そこから遠慮なしに押し込み、後頭部まで貫通させる。
ゾンビは水に沈んで浮かんでこなくなった。
(やはり頭部が弱点か)
俺は周囲のゾンビを蹴散らしながら進む。
昨今の映画のように、走るタイプのゾンビはいない。
遅々とした動きの彼らは、捕食衝動に従って襲いかかってくる。
正直、命の危機を感じるような相手ではなかった。
レベル上昇によるパワーアップを抜きにしても問題なく勝てただろう。
その程度のモンスターであった。
俺は二十体ほどのゾンビを抹殺して海から上がる。
辺りには、まだ大量のゾンビが残っていた。
やはり水着姿ばかりで、ビーチという環境にはマッチしている。
もう少し健康的な外見なら完璧だった。
(彼らも元々は、ここで優雅なひと時を過ごしていたのだろう)
そこに感染するゾンビが紛れ込み、阿鼻叫喚の騒ぎとなったに違いない。
旅客機の墜落もなかなかのトラブルだったが、地上は地上で大変だったようだ。
ゾンビに包囲される中、俺は近くに転がる死体に目を向けた。
食い散らかされた死体は、胴体の肉がごっそりと消失している。
骨と臓器の破片が露出していた。
死体はロゴ入りのキャップとサングラスを着けている。
腰には小型のトランシーバーを吊り下げていた。
服装から考えるに、ライフセーバーだろうか。
死体はとある武器を持っていた。
俺はそれに注目する。
チェーンソー
総合評価:C+
状態:良好
能力:なし
基本情報から分かる通り、それはチェンソーだった。
起動させることで、モーターで刃を回転させる代物である。
本来なら樹木の伐採に使われる道具だが、刃には血がべっとりと付いていた。
どうやって使ったのか、一目瞭然であった。
俺はチェーンソーを拾い上げる。
動作を軽く確認してみたところ、問題なく使えそうだった。
燃料もしっかり残っている。
「ふむ、ゾンビ相手にはぴったりだ」
頷いた俺は、チェーンソーを稼働させる。
騒々しいモーター音が鳴り始めた。
チェーン状の刃が高速回転し、付着した血を振り飛ばす。
「……まったく、次から次へと楽しませてくれるじゃないか」
新しい世界はやはり面白い。
他では絶対に味わえないスリルと興奮に満ちている。
ともすれば癖になりそうだった。
――迫るゾンビの大群を前に、俺は笑みを深めた。