こっくりさんの代償 2
「誰かいるのか?」
不意に教室のドアが開き、そこから男性の声が聞こえた。ガチガチに固まっていた体が知らずに緩んで背が丸まる。コツコツと、革靴が床を叩く音はこちらへ近づいてきた。
───助かった!
心の中はその言葉だけでいっぱいになる。ジワリ、と目の前が揺らぎ始め、堪えきれない涙が頰を伝った。
「秋山くんと石田くんか。今日はもうこの教室は使う予定がないから閉めたいんだ。悪いけど、出てくれるかな」
声をかけてきたのは、臨床心理学の講師、小松斎一郎だった。まりあの憧れの君でもある先生だ。だが今は、会えて嬉しいなどと到底思える状態ではない。
「すみません……ノートの整理をしていて」
小松は、慌てて立ち上がるまりあと幸代を交互に見ている。
「勉強熱心なのはいいことだ。けど、続きは他所でやってもらえると助かるよ」
まりあは幼児心理学という講座を受講しており、それを小松が受け持っているのだ。大学に通う幸代も同じ講座を受けているため、小松がふたりの顔と名前を覚えていてもおかしくはない。すると、隣から微かな舌打ちの音が聞こえる。
「ね、先生。先生って怖い話とか、超常現象とか好きでしょ? 私、今ちょうどまりあにその話をしてたんです。先生も聞いてくださいよぉ」
この場から逃げられると信じて疑わなかったまりあは、隣の幸代の顔を凝視する。友人であるはずの彼女が、ただただ恐ろしい。小松はといえば、視界の端で時計を確認している様子がうかがえて、この場から立ち去れないという危機感が増した。
「かまわないよ。それで、どんな話?」
上げそうになった悲鳴を無理矢理飲み込み、気が抜けたように椅子へと腰を落とす。それから吸い寄せられるように横を向いて、幸代の顔を見つめた。その小さな唇は左右にぐいと引き伸ばされ、オレンジ色の弧を描いている。
「ねえ、先生、まりあ。今から話すこと、絶対他の人に言わないでくださいね。話すと悪いことが起こるって言われてるんです」
小さな顔は、ふたりの聴衆を得てさらに笑みが深まったようだ。そうして、幸代はまたコックリさんのことを話し始めた。話はやはり同じ内容で続き、先ほどから何度もつかえている箇所に差し掛かった時のことである。
「そうして、私と美帆はコックリさんが教えてくれたK団地へ行ったんです。そこで目の前を蝶が横切って……」
そこまで話すと、幸代はまたピタリと話を止めてしまった。しかししばらくすると、「あのね、先生、まりあ。呆れないで聞いて欲しいんですけど……」と、また最初から話を始めるではないか。それまで全く口を挟まなかった小松が、ずれたメガネを直しながら口を開いた。
「秋山くん、彼女、この話をずっと繰り返しているんじゃない?」
「はい、そうです。さっきからずっとこの調子で……」
「そうか、まるで『田中河内介の最後』のようだね」
「え、たなか? 誰ですか、その人」
まりあと小松が会話をしている間も、幸代はずっと話を続けている。
「……ねぇ、聞いてる?」
幸代にしては随分と低い声で問いが投げられた。こちらを見る両目は大きく見開かれ、白目が血走っているのが分かる。とうとう恐怖に耐え切れなくなり、まりあは席を立って小松の背中に隠れた。
「君、もう喋らないほうがいい」
「うるさい、最後まで聞いて!」
小松の忠告に怒鳴り返すと、幸代は口の端から唾液を滴らしたままで、早口で先ほどの話をまくし立て始める。
「それで十円玉が指した文字を読むと団地の名前だったのそれで私たちは興味本位でその団地に行ったのそしたらそこで一匹の蝶がこちらの目の前に飛んできた、ぐ、ぁ」
やはり同じところに差し掛かると、喉に何かがつかえたかのように言葉が出なくなってしまうようだ。幸代は自分の喉を指先で掻きむしり、しゃがれた声でさらに話を続けようとする。
「その子は、やすのりと名乗って、蝶を……捕まえてくれ、って私と美帆に頼んで、」
「秋山くんはそこを動かないで、いいね」
「……はい」
小松はそう言うが早いか、幸代の背後へと回り込む。背の高い小松は、幸代の肩を右手で背後から押さえ、手のひらで口元を覆った。
「石田くん、落ち着いて」
小松を横目で睨みつけている姿は、いつもの彼女からはかけ離れていて想像もつかない。まりあは知らずに両手をきつく握りしめていた。当の小松は動じた様子もなく、「落ち着いて」と繰り返しながら幸代の背を撫でている。
「しー……、ゆっくり鼻から息を吸って、口から吐くんだ。そう、ゆっくりでいい。大丈夫、そう、うん、上手だ。そのまま続けて」
幸代は小松に言われるまま、深呼吸を繰り返し始めた。そうして何度目かの深呼吸を行ってから、ゆっくりと崩折れたのだった。小松は彼女を抱き止め、腕の下に肩を入れて支えている。
「秋山くん、肩を貸してくれる?」
「は、はい。あの、先生、幸代は一体どうしたんですか?」
指示されるままに、まりあは小松とは反対で幸代の体を支えた。気を失っている人間の体はズシリと重く、幸代の腕を回した首や肩が痛いほどだ。
「さて、僕にも何が起こっているのかは分からない。ただ、恐怖か緊張で恐慌状態にあったことは確かだからね、それを落ち着かせただけだよ」
「そうなんですね……幸代、大丈夫でしょうか」
「目を覚まさないことには分からないな。ともかく、彼女を医務室へ運ぼうか。秋山くん、そっち気をつけて」
「はい」
小松の歩調の合わせ、小走りになりながらも幸代の体を支える。友人の身に一体なにがあったんだろうか。それを考えるだけで、身体中がひんやりと冷えていくのだった。




