こっくりさんの代償 1
話は一週間ほど前に遡る。
そう、その日は階段教室で授業を受けていた。午後三時を回った授業は特に日差しがきつく、ホワイトボードが照り返しで光ってしまうと、全くと言っていいほど字が追えない。ノートを書き写すのは早々に諦めて、教授の話だけに集中する時間が続いた。
やがて授業の終わりを知らせるチャイムが構内に鳴り響くと、そこかしこから華やいだざわめきが上がる。それはまるで寄せては返す、陽にきらめくさざ波のようだ。授業中とはまるで態度の違う学生たちに苦笑いしながら教室を後にする老教授を見送ると、秋山まりあはホワイトボードに残された文字を熱心に書き写し始めた。
まりあが通うこの女子短大は、女子大も併設している。同じ敷地の中にあるから学生も多くて賑やかだ。授業を受けていた階段教室は女子大の授業でよく使われる場所だが、今日のように共通の学科の授業がある場合は、まりあたち短大生もこの教室を訪れるのだ。勝手の違う大きな部屋は、エアコンでよく管理されているのかとても涼しい。
今日の授業は、専攻している保育学科の中でも、テストで点数を伸ばすのが難しいとされている学科だ。板書された内容を書き漏らすことはできないのである。熱心にシャーペンを走らせていると、手元が急に陰った。顔を上げると、そこには女子校時代からの友人である、石田幸代と渡部陽子がすぐ側に立っている。
「お疲れ。あれ、まだノートとってるの?」
「ああ、この授業落とせないもんね。就職に響くって聞いたことある」
先に口を開いた幸代は、オレンジのグロスで光るおちょぼ口が印象的だ。目鼻立ちが幼く、顎までのボブカットは柔らかなウェーブを描いている。もうひとりの友人である陽子は、幸代とは対照的な、大人びた印象の女性だ。黒く長い髪はたっぷりとした量があり、それを緩く後ろで結んでいる。服装も、幸代が可愛らしいフレアスカートならば、陽子は長めのタイトスカート、しかしふたりとも流行りの小花柄だ。揃いの白いレーストップスが夏らしく涼しげである。
まりあはといえば、髪を緩くふたつに結び、黒地にやはり小花柄のワンピースを着てる。白いレースのガーディガンを肩からかけて、エアコン対策も抜かりがない。
「ねえねえ、ふたりともさ、ちょっと私の話を聞いてもらいたいんだけど」
隣に腰掛けた幸代が、こちらに顔を寄せて前のめりに話を持ちかけてきた。後ろの席に座った陽子は、机に肘をついて静観の構えだ。
「もうちょっとだけ待ってくれれば、夕食を食べながら聞くよ」
「ううん、ここでいい。ノート取りながらでいいから」
急いで話したいことなのか、幸代はここで話すと言って譲らない。陽子が代替案を出してみたが、やはり意見は変わらないようだ。
「わかった、じゃあここで聞くね。それで話って?」
まりあと陽子は顔を見合わせ、仕方なく階段教室で幸代の話を聞くことにした。話の先を促すように陽子が口を開く。
「うん、それがね、呆れないで欲しいんだけどさ。この間、サークルの友人とふたりでコックリさんやったんだよね」
「はぁ? まだそんなことやってんの。子供じゃないんだからさ」
話を始めた幸代に、陽子は呆れたようにため息を吐く。シャーペンを走らせる手を止めず、まあまあとふたりに声をかける、まりあの心中は大荒れだ。非常に苦手な怖い話が始まってしまったのだから仕方ない。穏やかでないこちらの心を置いてきぼりにして、話はさらに続く。
「ごめんって! それは本当に後悔してるし、反省もしてるんだ。ねえ、ふたりはコックリさんって知ってるよね?」
窓から差し込む光が徐々に赤みを帯び、幸代の白くまろい頰を朱に染めていた。長いまつ毛に彩られた瞳が、不思議な色合いで輝いている。
「紙に鳥居の模様書いて、五十音順にひらがな書くやつでしょ。十円玉使うんだっけ?」
「それそれ!」
食い気味に答える幸代は、本当に幸代なのだろうか。妙なはしゃぎ方をしているその姿に違和感を覚える。確かに幸代は賑やかな性質だが、こんな風に怖い話をはしゃいで話すようなところがあっただろうか。
「その方法でコックリさん呼んだら、応えてくれたんだよね。それでさ、質問も終わって一段落したから『おかえりください』って言ったらね、いいえの方に十円玉が動いて」
話の雲行きが怪しくなってきたと、ノートをとっている手を止める。視線を隣に向けると、はち切れんばかりの笑顔を浮かべた幸代がいた。ヒュ、と声を出さないように息を飲む。
「それから十円玉がぐるぐる回ったあと、文字を上を移動し始めたんだ。それがねぇ、すごく面白いの。文字を繋げて読むと、K団地の名前だったんだよね。で、その名前を指したらそれっきり。十円玉が全然動かなくなっちゃったんだ」
「ねえ、幸代。まさか、そこへ行ったの?」
嫌な予感がする。その質問はこの場で、もっとも聞いてはいけないような気がするのだ。陽子の質問を遮ろうとするよりも先に、幸代が話を素早く続け始める。
「うん、行ったよぉ。そこでさ、は、え、やだちょっと! やめ、ぐ、ぅ」
幸代がその先を話そうとした時だった。彼女はいきなり席を立ち上がり、喉を締められたような苦しげな声を出した。しかし、次の瞬間にはもう椅子に座り直しており、先ほどと同じ笑顔を浮かべているのだ。
「ごめん、なんでもなぁい。そうそう、話っていうのがね。あのさ、呆れないで聞いて欲しいんだけど……この間、サークルの友人とコックリさんについて盛り上がっちゃって。で、試してみようってことになってね、」
「ちょっと、幸代。それさっきも聞いたけど」
「え、そうだっけ? それでね、質問が終わって、コックリさんに帰ってもらおうってなって」
陽子の言葉を気にも止めず、幸代は話を続ける。小さな顔の中で、唇を左右に最大限に引き伸ばした満面の笑みは、終始浮かべるには不自然な表情だ。しかし、幸代はその表情を崩さない。
まりあの背筋に、ぞくりと這い上がってくる寒気がある。
「ちょっと、なんでさっきと全く同じ話してるの?」
「え、そんなことないよ。 それでね、そのK団地に友人とふたりで行ったんだよね。そうしたら、目の前に蝶が……」
そこまで話すと、また幸代の言葉が途切れる。もうノートをとる気にはなれず、固唾を飲んでその姿を見守ると、今度は一瞬だけ幸代が真顔になった。それは本当に一瞬のことで、すぐにまたあの笑顔に戻る。そうして、幸代はまた最初から同じ話を始めたのだった。
「ねぇ、幸代! どうしちゃったの? おかしいよ?」
「幸代、大丈夫?」
陽子とふたりで声を掛けるが、幸代は全く意に介さない。
「大丈夫だよ、何を心配してるの? ふたりの方がおかしいよ。それでね、団地に行ったらね……虫取り網を持った、」
また同じ話を繰り返す幸代に、陽子はため息を吐いた。
「ごめん、まりあ。私はもう付き合い切れない」
席を立ちながらそう言うと、陽子はまりあの制止を聞かずに階段を降りて行く。「置いて行かないで!」小さな悲鳴をあげ、机の上に出しっ放しの教科書やノート、ペンケースをしまうまりあの指は震えっぱなしだ。その所為でちっとも片付けが終わらない。
「───私ね、実はその団地でね、『この話を他人にすると良くないことが起こる』って言われたんだ。同じサークルの友人の美帆もね、そのとき一緒に居たんだけどさ。美帆ね……死んじゃったんだよね。別のサークルの友達に話をしたみたいで」
あはは、と幸代の白々しいまでの明るい笑い声が教室に響いた。
「そ、そんな……偶然かも、しれないけど……幸代、話して大丈夫なの?」
「大丈夫だよぉ、美帆はもう死んじゃっていなくて、私しか残ってないもん」
そのひと言を言い終わる前に、幸代の小さな鼻先にしわが寄る。そして、眉尻が跳ね上がった。それはまるで鬼のような形相だ。わずかに開いた唇から見える犬歯は鋭く見え、ゴクリと生唾を飲む。
「ねえ、まりあ……」




