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団地の怪  作者: 佐良夏生
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その出会いは、私に自分というルーツを旅するチャンスをくれた。

主人公である秋山まりあの青春ホラー小説です。

 その少年に会ったのは、初夏、暑さがいや増す日のことだった。

 梅雨の終了宣言が一斉にニュースを騒がせた次の日。前日まで降っていた雨のせいか、湿度が高く、空気がべたついていた。あまりの暑さに、袖付きの服は早々に諦め、秋月まりあはノースリーブのトップスを選んでいる。

 今年入学を果たした女子短大までは、お気に入りの自転車で通学をしている。となると、ボトムはもちろんパンツスタイル一択だ。ウエストの辺りをリボンで結ぶ、サッカーブルーが目に爽やかなパンツは今年買った新作で、お気に入りの一着でもある。

 肩甲骨まで伸びた髪はアッシュに染め、それを横に流して同じくブルーのシュシュで結ぶ。メイクは流行りを踏まえ、大きさが自慢の目はアイラインを念入りに。マスカラを重ね付けし終わると、鏡に向かって微笑んだ。

「今日もまりあちゃん、可愛い!」

 そう自分に言い聞かせて、支度を終わらせる。

 保育士という子供の頃からの夢を叶えるために選んだ女子短大は、とある地方都市の郊外にあった。彼女にとっては地元だったから、進学先はすぐに決定したというわけだ。

 まりあの住むM市は、本州から離れた島の中にある。海と山に囲まれた田舎の地方都市は、物価も家賃も安い。近年では、アートと観光資源である温泉街がコラボし、女性が旅したい観光地の上位に選ばれた。しかし、そんな洒落た場所は一部に限定されている。一歩路地へ入ってしまえば古い街並みが続き、紗のかかったような印象が強い街だ。

 ひとり暮らしのアパートのエントランスを抜けた途端、視界がハレーションを起こす。カッと照りつける太陽は真夏のそれで、今からこの暑さではやっていられないとため息をついた。

 夏は嫌いではない、むしろ大好きだ。海も、ひらひらと生地が踊る熱帯魚のような洋服たちも、カフェに流れる夏向きの音楽も、爽やかなソーダも大好きだ。けれど、暑さと怖い話だけはどうにも好きになれない。親が転勤することになり、ひとりで地元に残ることになった。昔からひとり暮らしには憧れがあったが、それを手放しで喜べなかった最大の理由は、怖いことが大の苦手だったからだ。特になにかを見た訳ではないが、子供の頃から大の苦手だった。

「あー、暑いのに気が滅入ること考えるのなし! 今日は小松先生の授業なんだから!」

 これは最近身についた癖だ。やたら自分の心の声を言葉にしてしまう。いわゆるひとり言というやつである。自分からするとかなりの頻度だが、今のところ友人たちから苦情はきていない。

「まりあちゃん、おはよう」

 振り向くと、そこにはまりあの暮らすアパートの一階で喫茶店を営む岡田晋が、タブリエ姿で立っていた。腕にはキャンバス地の袋を抱え、そこから顔を出しているのはどうやらベーグルのようだ。

「おはようございます、岡田さん。そのベーグル、どうするんですか? すごくたくさん!」

 地元でひとり暮らしをするにあたって、このアパートに住むことを決めた最大の理由は、一階にこの喫茶店あったからだ。古い四階建てアパートは異国の香りのする石造のレトロな建築で、壁に這う蔦が印象的だ。その蔦に覆われている色褪せた椋のドアが喫茶店の入り口となっており、そこを潜ると途端にコーヒーのよい香りがしてくる。

  岡田はいつも一枚板のカウンターの奥におり、注文が入ってから豆をひいてくれる。一杯ずつ丁寧に淹れられたコーヒーがこの店のうりであり、味は折り紙付きだ。このアパートを内覧したとき、ここでコーヒーを飲んだことが入居の決め手だったと思う。

「この通りの先に開店したダイナーで使いたいって言われてね。届けに行くところ。まりあちゃんは学校かな?」

「はい! これから授業です」

「そうか、気をつけて行っておいで。バイトじゃなくても、いつでも遊びに来るといい」

 こちらに越したばかりの四月、この喫茶店をすっかり気に入って通っていたところ、岡田からバイトをしないかと誘われたのだ。落ち着いた顔立をしている彼のトレードマークはドレッドヘアで、口元に蓄えたヒゲのせいで年齢不詳に見える。

 そろそろアパートを出なければ遅刻してしまう。まりあは今日も颯爽と自転車にまたがり、岡田に手を振ると短大へと出掛けたのだった。


 時間はあっという間に過ぎて、夕暮れ時。

 日が暮れるのがどんどんと遅くなり、今はまだ真昼のように明るい。その時、まりあは構内を出て帰宅途中だった。

 自転車に乗れば、景色が流れるように移り変わっていく。それがなにより面白く、風が髪をなぶっていくのが涼しくて気持ちいい。いつもと変わらぬ通学路を、少しだけ速度を落としてペダルを漕いでいた、その時のことである。

 目の前をふうわり、と一匹の黒い蝶が横切った。咄嗟にブレーキをかけて自転車を止める。すぐ側で飛んでいる蝶の羽ばたきは妙にゆっくりで、そこだけ映像のスロー再生をしているかのようだ。夕日がジリジリと肌を焼き、自転車を降りてしまえば風も吹いてない。

 カラスアゲハは大きな羽をゆっくりとはばたかせ、中空にぼんやりと浮かんでいた。風もないのに、その動きは気流に乗って流れているかのように見える。

「待て……!」

 不意に、時が止まったような空間を震わせる高い声が耳に届いた。続いてまりあの鼻先で、何かが振り下ろされる。

「や、なに?」

 カラスアゲハに見とれていたから、咄嗟になにが起こったのか把握できない。ただ驚いてパチパチと瞬いていると、下から声を掛けられた。

「おねえちゃん、蝶を捕まえたから、カゴに入れるの手伝って」

 言葉ひとつずつが丁寧に発音されていて、とても聞き取りやすい。年の頃は十歳ぐらいだろうか。そこには虫取り網を地面に伏せた少年がこちらを見上げていた。

 少年のまろい額には汗ひとつなく、滑らかな白さを保ったままだ。その場に立っているだけでジワリと汗が染み出すような暑さの中、少年だけは涼しげな様子でそこに膝をついている。

「おねえちゃん」

 その澄んだ高い声に急かされるように、まりあは自転車を止めて側にしゃがみ込んだ。こちらへ伸ばされた小さな手が、何かに触れているように宙で止まる。細い指先が空中で器用に動いているのは、不思議な光景だった。彼は何をしているのだろうか。

「そうか、おねえちゃんは───なんだね」

「え、なあに?」

 少年の言葉が聞き取れず、訊ねたまりあに彼は答えない。先ほどと同じ、空を撫でるような不思議な動作を繰り返しているだけだ。風のない夕暮れどきはとても暑く、まりあは一刻も早く家に帰りたい。アスファルトから脇が上がってくるような熱に軽いめまいを感じる。

「どうすればいいの?」

 少年を急かすように質問すると、「ここ、押さえていて。僕が蝶をとってカゴに入れるから」と的確な指示が飛ぶ。

 どうやら虫取り網を押さえていればいいらしい。それにしても、まるで人形のように美しい少年だ。あまりじっと見るのはいけない気がして、なるべく網を押さえる作業に集中する。目が吸い寄せられるような美しさを危険だと、まりあの中の何かが訴えているのだ。それにもうひとつ、なぜか初対面の少年を知っているような妙なデジャヴを感じる。彼の顔や容姿に見覚えはない。ならばどうして、少年を知っているような気になっているのだろうか。

「ねえ、君、どこかで……」

「ありがとう。そのままだよ、おねえちゃん」

「やすのり!」

 鋭い女性の声がすると、少年は手を止め、表情が抜け落ちたような顔で道路脇を見た。つられて視線を向けた先には、頰がこけ、ひどく痩せた女性が立っている。年齢はまりあとそう変わらないように見えるが、年齢以上の疲れた空気を身にまとった女性だ。彼女のつり上がった眉は異様で、怒りだけではない感情をその身にたぎらせているように見える。

「やすのり、来なさい」

 女性がひとつひとつ噛みしめるように発音すると、少年は「はぁい」とつまらなそうに返事をした。その声は子供らしい不満をはらんだ声で、この異様な雰囲気にはそぐわない気がする。

 夏によくあるような親子の光景に、なぜ薄ら寒いものを感じてしまうのか、自分でもよく分からない。

「おねえちゃん、ありがとう! その蝶はもう逃していいよ」

 少年が伏せていた虫取り網を取ると、蝶はアスファルトの上で何度か羽ばたき、またゆっくりと浮上して何処かへと飛んでいってしまった。蝶の行く先を追っていたまりあは、少年と女性がいつの間にかその場からいなくなっていることにようやく気がつく。

 あちこち見回していると、二人は揃って女性が立っていた団地の建物の中へと入って行くところだった。何故か動くことができず、まりあは少年の背中を見つめる。すると、申し合わせたかのように小さな頭がこちらを振り返り、「またね」そう唇が動いたように見えた。白い端正な子供の顔の中で、妙に赤い小さな唇が動く様はどこか別の生き物のようで恐ろしい。

 そう、まりあにとってその少年は恐ろしいと感じる存在だった。

 物心ついた時から保育士を目指すまりあにとって、それは初めて感じた挫折だ。子供は庇護されるべきで、大人に守られる存在だと信じて疑わなかったのに、その子供から恐怖を感じるなんて。

 そして先ほどから感じるデジャヴ。この光景を見たことはないはずなのに、知っていると感じるのはなぜなのか。記憶を探ろうとしても、上手くいかない。頭が真っ白で、思考が全くまとまらないのだ。

「どうして……」

 赤々と燃える夕陽が、少年の入って行った団地の入り口にそびえ立つ給水塔を色濃く染め上げていく。その形がじわりと陽炎に溶けて、ゆらゆらと揺れている様子はどこか現実ばなれしていた。呆然としたまりあの呟きもまた、夏の暑さの中にジワリと溶け出していったのである。 

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