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第9話 苦味は甘さの裏に

 激しく破壊された教室の爪痕が魔術的に隠蔽され、生徒会などの手によって修復される頃には、季節は梅雨を迎えていた。睡眠と食事を繰り返しながら、栞は己の魔力を内にゆっくりと蓄え、漸く偲と戦う前までにその量が戻ったと感じていた。最終期限まであと少しという時期ではあったが、残る承認判はあと三つ。きっとなんとかできる、という心持ちのまま数式の書かれた黒板を睨みつけていた。

「白鳥くん」

 数学科の教師が声をかけてくる。気まずそうな面持ちのままはいと返事をすると、分厚いテキストが机の上に載せられる。

「これ、来週までにやってきてね。終わらなかったら、楽しい補習が待ってるぞ」

 朗らかな笑顔が突きつけるのは、高校生の宿敵への招待状。噂で聞いたことがある。数学の補習の授業は日が暮れるまで、決して帰ることのできない牢獄だと。自由を手にするべく、少女は悲壮な顔つきのまま宣言した。

「やらせていただきますッ……!」




「それで、どうして私の家に貴女達が来ることになるのかしら」

 私服姿の斑鳩偲が、あまり感情の乗らない声でそう言った。栞の背には雨燕なおと、鳩村静が行儀よく佇んでいる。

「えーっと、端的にかいつまむとですね?」


 ”「鳩村先輩!」

「静くん!」

「……どう、したの」

「数学教えて欲しいんです」

「このままじゃ二人とも補習ざんまいだよぉ!」

「……範囲、どこ」

「わたしは三角関数がちんぷんかんぷんで」

「なおも数列わかんないから全部書いてる……」

「……わかった。場所、変えよう」”


「ということで」

 簡単に事情を説明すると、偲は眉間を揉む。玄関の前に佇む三人の顔見知りは、まさかここで帰されるわけはないだろうという顔をしていた。もっとも、栞は先日の件もあり、気まずそうな色が表情に混ざっていたが。

「だからって、私の家である必要があるかしら」

「偲の家が広いってあの陰険メガネが言ってました」

 栞は思い出しながら苦いものを噛み潰すような顔になる。重たいテキストを抱えながら廊下を歩いていたとき、たまたま遭遇した斑鳩篩に告げられたのだ。“鳩村静と斑鳩偲を頼れ”と。決して、篩に言われたから来たわけではない。が、篩に言われたことをなおに説明すると、彼女は飛び跳ねながら「篩ちゃんの言うことなら聞いておいたほうがいいよ!」と言う。先の戦闘もあって、あまり偲とは顔を合わせづらいと躊躇していたのだが、仕方なく実行してみればとんとん拍子でことが進む。

「おじゃましまーす!」

 気まずげに見つめあっていた偲と栞の静寂を引き裂いたのはなおだった。にこにこと屈託のない仕草で家に上がろうとするなおを止められるものなど、この場にはいない。

「……どうぞ」

 ひくひく、とこめかみを引きつらせながらも招かれざる客を追い返さないところが偲の優しさだろう。なおにつられて家へあがりこむ少女達を引き止めることなく、彼女は自分のリビングへと案内してくれた。

 簡素な家具の置かれた、どこか物寂しいリビングだった。けれど部屋の片隅には観葉植物が置かれており、ソファにはテディベアがちょこんと腰掛けている。四人がけのテーブルへ座るように促されたので、栞達はおとなしく椅子を引いてそこに座った。

「それにしても、判子集めが終盤なのに補習の危機なんて災難ね」

 キッチンに立ち、電気ケトルの電源を入れた偲がポツリと漏らす。そうなんですよ、と栞の唇から紡がれる言葉はどこか重い響きだ。

「わたしたちの担当の数学の先生が本当に性格が悪くてですね!」

「あら、そこまで酷い教師なんていたかしら」

「今年から勤め始めた人らしいよ」

「名前は?」

「ええっと……なんだっけ?」

「数学が嫌すぎて忘却の彼方ですね」

 げんなりした調子の栞となおに、偲は微かに笑みをこぼした。こんな笑い方もできるのか、と栞はその表情をぼんやり眺める。そのうちに湯が沸いて、偲はインスタントの珈琲をいれてくれる。バラバラのデザインのマグカップが机に四つ並び、それぞれ暖かそうな湯気が立ち上っている。栞はそれを一口啜って、そのほろ苦さを誤魔化すようにお茶受けの菓子を摘んだ。オレンジピールにチョコレートの掛かったものだ。口数の少ない静ですら、にこにこと口角をあげたままテーブルの上の菓子を摘んでいる。なおも菓子をつまんでは目を輝かせ、珈琲を飲んでは眉間に皺を寄せと、百面相に余念がない。そうして和やかな雑談を続けていると、ふと、なおが呟く。

「でもこんな風に女の子だけで集まってると、なんだか女子会みたいー!」

「……貴女の能天気さには呆れているけど、まあ、いいわ。女子会なんてやったことないもの」

「女子会って言ったって、静は男子じゃねーですか」

 不意に、沈黙が訪れる。栞は二、三度首を傾げ眉間に皺を寄せる。何か妙なことを言っただろうか。男子用の制服を身にまとった静の方を困ったように見ていると、偲がはぁと大きな大きなため息をつく。

「気がついていなかったみたいだから教えてあげる。静は女の子よ」

「なんですー!?」

 栞が椅子から転げ落ちた。

「貴女、気がついていなかったの?」

「ち、ちっとも、さっぱり」

「……ばれちゃった」

 いたずらっぽく笑う静はけれど、パッと見ただけでは少年だと言われてもなんの違和感はない。けれど、確かに。栞は己の記憶をたぐる。いつしか抱きついたとき、相手が別の性別の存在だと強烈に意識される感覚はなかった。

「信じられないなら、脱ぐ?」

「いや、脱がなくていいですっ!」

 これで自分より胸が大きかったら、今度こそ泣いてしまうかもしれない。栞は折れそうな心を持ち直すため、少し冷めた珈琲に口をつけた。苦味が口いっぱいに広まっただけで、逆効果になったかもしれない。

「それにしても貴女、よくここまで集めたものね」

 涙目のまま偲を見やる。判子集めのことだ、と合点がいって小さく微笑んでみせる。

「割と周りの人の助けがあったので……なんとか」

 ふん、と鼻を鳴らしたのは質問をした当人の偲だった。

「魔術的な手助けは、なるべくしてはいけないのよ。これは家と家の争いだから、なるだけその家の人間しか手伝ってはいけない。今回の儀はそうあるべきだと、管理役である烏丸理事がお決めになられたの」

「烏丸が、圧倒的に……有利」

 わかっていた。なんとなく、そうなのだろうと栞も薄々感づいていた。祖母が己を厳しく育てて来たのは、烏丸家の圧倒的な力を前にすぐに負けてしまわないようにだということに。だが、ここまでとは。生徒会長のスピーチを思い出して、ぶるりと体を震わせる。そうまでして、叶えたい望みを持っている人物が烏丸家にもいるという事だった。

「烏丸家は優秀な魔術師を多く輩出してきた。最高位に着いた回数だって、多分どの家よりも多いはず。おまけに協力者も多いわ。私も静も、烏丸の味方にはつかないけれど、敵対はしたくはないの」

「でしょうね。敵対したとき、何されるかわかったもんじゃなさそーですし」

 烏丸伶だけでも手強いだろうに、彼女の隣には斑鳩篩などという曲者がいる。差羽創や鳰海舞は比較的栞に協力的だったが、それでも栞の窮地に駆けつけてくれるなどと考えてはいけないだろう。鳩村静も斑鳩偲も傍観を決め込んでいる。夜鷹は辛うじて味方であってくれるかもしれないが、譲や湊の態度はどこかよそよそしい。白鳥家を全面的にバックアップする気はない可能性を念頭に置かなければ、ひょっとしたら足元を掬われるかもしれない。おまけに他の家について何の情報も得られていない現状、それらの家が烏丸側であることは想像に難くない。前途多難だ、とため息をついたところで、

「そんなのずるいよ!」

 ぷっくりと頬を膨らませて、雨燕なおが立ち上がった。

「栞ちゃんは一人でいっぱい頑張ってるのに、烏丸さんちばっかりいっぱい味方がいるなんて、ずるいよ」

「なお、いいんですよ。大丈夫ですから」

 元より微かな可能性に賭けているのだ。今に始まった事ではない。どんなに不利であろうと、栞は最高位にならなければならない。己が望みを叶えるためにはたった一人だったとしても、成し遂げなければならない。仕方のない事なのだと、友人たる少女に向けて笑ってみせる。しかし、なおは尚も言いつのる。

「私はただ、栞ちゃんの応援をしたいだけだもん。雨燕がどうとか、白鳥側につくとか、抜きにして」

 雨燕はそこまで大きな家ではないと、かつてなおは言っていた。そんな彼女が烏丸に対し反旗を翻すことを堂々と表明するというのは、危険だ。止めさせなければ、と思うものの、何故だかうまく言葉が出てこない。喉がからりと乾いて、かさかさとした空気がひゅうと通り抜けていく。微かな不安に押しとどめられたままの栞が、なおの言葉を拒絶する前に、偲が口を開いた。

「……そこまでの覚悟なら、理事長に直談判したらいかが」

 ちらり、と赤い色が一瞬、偲の瞳を過ぎったのは気のせいだろうか。けれども栞が瞬いた時にはもう、普段通りの虹彩に戻っていた。

「じかだんぱん。……直接お願いするってこと?」

「ええ。烏丸理事が許可を出したなら、あなたが白鳥さんの隣にいるのは雨燕の意思ではなくて、あなたの意思だと伝わるでしょう」

「じゃあ私明日にでも、行ってくる!」

 きらきら、希望に満ち溢れた瞳でなおは宣言する。

「なお、だったら私も一緒に」

 行きます、と言おうとして、唇にオランジュショコラを押し当てられる。

「へーきへーき、栞ちゃんは図書館とかでまってて、ね!」

 そう説得されては、栞も無理に止めることはできなかった。話題がひと段落したところで、栞は偲の家に来た本来の目的を思い出した。鞄から数学のテキストを取り出して、静に見せる。一瞬、彼女の視線がある場所で止まったが、静はすぐにシャープペンシルをすらすらと動かして傍の紙に数式を書き始めた。

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