第8話
ミカルの黒い短髪が、わずかに揺れる。二つのクリクリとした愛らしい目はりるをしっかりと捉えて返答を待つ。勿論、肯定してくれるだろうと考えていた。彼女が何を目的としているのか、その行動理由について深く知っていることはない。しかしながら、事実として、彼女が、トラウィストンの人々を変えたというのを見たのだ。彼女の行動理由を知らずとも、自分が提案すれば、必ずやってくれる、ミカルはそう信じていた。りるの余計な情報を知らないからこそ、その事実だけは信じることが出来た。
りるもまた、ミカルの目を見つめ返していた。そして、何かを考えるようにして、視線を泳がせる。りるの視線は、部屋をゆっくりと一周して、三名を交互に見て、最後にミカルへ戻り、言う。
「いやっ!!」
その意味は否定である。一瞬意味が理解出来なかったミカルだが、すぐに、
「えっ!? なんで!? だ、だって、困ってるじゃん! このトゥリパの人たちを幸せにしてあげたい、とか、あれ? 思わないの!?」
勿論、出てきたのは戸惑いだ。戸惑っているのはミカルだけではない。エルヴィンも、リーナスも、先日の行為を見ていたからこそ、彼女が否定したことに対して、何かあるのではないか、おかしいのではないか、という戸惑いを感じていた。
「うーん、えっとねー……」
りるは、少し眉をひそめて、
「だって、今、この街の人たちに必要なことは、そんなことじゃないんだもん」
「そんなこと?」
ミカルが聞き返す。若干の焦り、そして、理不尽ながら、怒りがこもっていた。無論、りるに、トゥリパの人々を救う義務なんてものはない。それがわかっているからこそ、表に明らかな怒りを表すことは控えているが、けれど、僅かにでも態度に表れてしまっていた。
りるは、そんなミカルに、けれども、全く萎縮することなく、淡々と言った。
「そうだよ! 皆が、今、必要としてるものは、そんなものじゃない……りるは、ここの人たちの幸福度も勿論上げたいよ! だけどね、ミカル、今、すべきなのはそんなことじゃない」
「そんなことって……どういうことだよっ!」
ミカルが立ち上がって、りるに詰め寄ろうとするのを、エルヴィンが制止する。
「まぁ、落ち着けよ、ミカル。お前らしくもない。……さ、今日はもう遅いんだ。何をするにしても、明日、朝にしよう」
エルヴィンの言う通り、時は既に深夜に近かった。煮え切らない雰囲気の中、満足のいく結果の出ないまま、話し合いは終了し、会話のないままに各々は眠りに着く……。
「さ! みんなー! いつまで休んでるの! もう、りる、一人で行っちゃうよ!?」
この言葉が他のメンバーの起床の合図となる。りるは、部屋の中をぴょんぴょん跳ねつつ、エルヴィンらを起こしていく。エルヴィン、ミカル、共に目をこすりながら起き、最後にリーナスが、
「……うるさいなぁ」
と、非常に低い、憎しみのこもった声を誰にも聞こえないよう寝具の中で呟きながら、脳を覚醒させる準備をしていく。一応伝えておくが、エルフという種族が特別寝起きが悪いという訳ではない。
昼間のにこやかな顔とは打って変わった、まるでこの世のすべてに憎しみを抱く悪魔の力を持った魔女のような顔で、髪の毛をぼさぼさにしてリーナスが起きる。勿論であるが、その表情や、その他、あまり人に見られてはいけない整っていない姿を誰にも見せることなくリーナスは身支度を整えていく。エルヴィンらとしても、寝起きの女性をじろじろ見るなどということはしないため、このリーナスの寝起き直後の姿を見ているのは、
「わ、怖い顔~」
などと、寝起きで視界の狭いリーナスのすぐ目の前でかがむようにして様子を伺っているりるのみとなる。リーナスは、その声に気づくと、引きつった笑いを何とか浮かべながら、
「あ、あっち、行っててくださいねぇ~」
と追い払う。リーナスにとってはイライラ募る一大事だったらしいが、問題行動を起こした当のりるは、もちろんそんな気はなく、
「おっけ~! わかった~」
と、リーナスの引きつった笑いとは正反対の朝っぱらから元気過ぎるにこにこ笑顔を返すと、そのままの勢いで部屋の外へ駆けて行ってしまう。
「ちょ、ちょっと、ヒメア、どこへ行くの!?」
ミカルが慌てて追いかけ、やれやれ、とエルヴィンがそれに続く。ここに、りるが周りを巻き込む慌ただしい一日がまた始まろうとしていた。
りるは、ミカルの王宮の前で、全員が出てくるのを腰に手を当てて待っていた。
「おっそーい! さー、いい? 今日のねー、けいかくを話すよ~!」
もう完全にやることを胸に決めているかのように、そして、三人はそれに従うのが当たり前であるかのように唐突に話しだすりる。
朝日は登り、街も起き始めているようだった。まだまだ復旧作業を行っている場所だらけ。
「りるは、全身全霊を以てね、します! 食事の配給を!」
唐突な発表。その声に、ミカルは、胸を貫かれる。ミカルの胸を貫いた感情というのは、正しい、という思いだ。彼女が言っていることは正しい、という思いである。簡単な話だ、精神的に充足するよりも前に、そもそも、今、現在進行で、この街の人は物質的に満たされていないのだ。昨日、りるが、ミカルの提案を断ったのはそういうことあってのことなのだろうと、ミカルの思考はすぐにそこまでたどり着いた。
しかし、すぐに、その発言の問題点に気づく。
「えぇと、うん、分かる。ヒメアが言いたいことは分かるよ。確かに、そうだ。僕は見失っていた。今、この街を救うために取るべき行動は、まさにりるの言う通り……けど」
この先が問題。
「その物資は? どこから? そりゃ、王宮には多少の蓄えはある、けど、それはもう、今、現在進行形で配給として放出し続けているんだ。それでも足りないんだ。それに、いつ、ウィシュトアリー聖国がまた襲ってくるとも限らない。そんな現状で、何を、どうやって、自分たちがやるっていうんだ?」
ミカルの意見い、エルヴィンは、数回首を縦に振る。リーナスが続けて、
「ミカルの言う通りよ。今、私たちに出来ることといえば、やっぱり、すぐにこの国の使者としてウィシュトアリーに乗り込み事、違うかな?」
問うリーナスに、りるは、
「ちっがーう! 解決するの! 解決するんだから、りるが!」
少し怒りながら言い、
「ほらー! 行くよ~!」
と、言うと、そのまま街の方へと軽やかに走り出していってしまった。三人は、その後を追う他なかった。天気は晴れ、街には、僅かにではあるが、にぎやかな声が響き渡っていたりする。
少し街を進んだところ、大通りの脇で、りるは立ち止まった。後から、どうすればいいのか分からないままとりあえずついてきた三名が追いつくのを確認すると、りるは、魔法のステッキをふん~ふん~と鼻歌混じりに振るい出す。
四名は否応なく、街の中を行き来する人たちの注目を浴びる。それは、彼らが取っていた行動からというよりは、彼らがミカル以外トゥリパにはあまり馴染みのない服を着ているからであったが、それでも、次の瞬間、りるの周囲に起こった変化に対して人々が騒ぐには十分な注目度合であった。
「さ~! はりきっていくよぉー! そーれっ、輝く魔法はみんなの奇跡! ぱらぱらるぃ~ん♪ まじかるッ、りるたんっ!」
久しぶりに聞く決め台詞。けれど、そんなことは些細な出来事だった。りるがクルクルクルとパフォーマンスに近い派手なステッキ裁きを見せる。一瞬、ショーでも始まるのかと思うほどにその動きは激しかったが、これはりるが大きな魔法を使う前兆でもあった。
最初にその兆候を感じ取ったのは、三名の中でも特に高い魔力を持つリーナスで、続いて、ミカル、エルヴィンが、何か起こるだろう、ということを予感する。
りるの周囲から魔力の搾りかすが波状になって溢れ出る。よほど強い魔力を集中させている証拠と言えよう。次の瞬間、りるが、ステッキを勢いよく宙へと掲げる。何かを受信するアンテナのように腕を張り上げ、そのまま、薙ぎ払うように体の下へと振るった。
魔力の爆発が起きる。といっても、物質的な破壊が行われている訳ではない。魔力、即ち、この世のエネルギーの秩序の一端を担う力が、りるの体内からステッキを通して決壊したダムのように凄まじい勢いで流れ出したのだ。
当然、辺りに居た人々は何事かと注目した。りるが視界に入っているであろう限界の遠さの範囲に位置していた人々は全てがりるに注目したといっても過言ではない。
「な、なにが……」
その呟きは、自然とリーナスから発せられたもの。それだけ不可解なのだ、これだけの魔力を使って行われ得ることの正体が。
けれど、その疑問はリーナスだけが抱いたものではない。おそらく、この場にいる人全てが抱いたものであると言えよう。エルフ、人間、ホビット、種族は違えど、全ての人々が、起こった事情が何かということを知り違った。
魔力のあ波が徐々に引き、魔力の波によって生じていた光等々による視界の断絶が終わり、そうして、ようやく、りるが行った魔法が何を生み出したのか、その全容が誰の目にも明らかになった。
大通りの端、通行の邪魔にならないようなところに、それらは君臨した。それら、とは、りるが魔力によって生み出したものである。そして、それらは、とても美味しそうな甘ったるい匂いを放っていた。
「……ケーキ?」
誰かが口にした。
そこには、誰もが予想しない景色が広がっていたが、それは、誰が見ても何かとうことが分かる代物であった。それは、ケーキ。
「いや、いやいやいや」
そう口にするのはエルヴィンだ。はは、と苦笑いが混ざっている。その理由は、簡単にして明快だ。でかすぎるのである。ケーキがあまりにも馬鹿でかい。こんな大きなケーキ見るのは、ここにいる誰もが初めてだっただろうし、もっと言えば、この街にいる人は愚か、この大陸にいる人全てを合わせても、このような馬鹿でかいケーキを見る人は初めてだろうと思われた。
高さは、建物の二階部分に到達せんとするばかりに高く、その高さに負けじと、その体積は馬鹿でかい。何重もの円柱状にケーキが積み重なっている。自重から、若干潰れ気味に見えるのは人々の見間違いではないだろう。故に、見栄えが素晴らしい、とまではいかないにしても、その姿は圧倒的過ぎて見る者の心を飲み込む。それくらいに大きいのだ。
砂糖が織り交ぜられたケーキ特有の甘い匂いが辺り一帯に、それどころか、街一帯に漂う。それにつられてか、騒ぎにつられてか、人々がどんどん集まってくる。人々は口々に、
「なんだ、これは……」
「なんでこった」
などと口にしているが、数名の子供たちが、
「わーい! すごーい!」
「お菓子の城だ~!」
「いいにおい~」
なんて呑気に言ってにこにこ笑顔で走り回っていたりする。さながら、お祭りの開催が宣言されたかのような盛況っぷりである。
さて、とエルヴィンはあまりに大きすぎるお菓子から、りるの方へと視線を向けた。勿論、目的はただ一つ。真意を問うことである。
「それで、どういう考えで出したんだ? これ」
りるは、息を整えるために深呼吸をしているようだった。いつもの笑顔が若干疲労に包まれているようにも見える。
「え? かつて人類が残した最も有名な食料に関する諺、ケーキを食べるといいんじゃない? を実践したんだよ!」
エルヴィンの沈黙。沈黙は、人々のざわめき立つ言葉の上では何も意味をなさなかった。
「あー、つまりは、こういうことか? 皆、お腹を空かせているだろうから、食べ物を出した、と」
りるは、うんっ、と言ってにっこり頷く。
「それにしても、これは、すごい魔法ね。この大陸に、いえ、これまでにでさえ、これほどの強力な魔法を使う術者はいなかったと思うわ」
リーナスが、ケーキを見上げながら言う。エルヴィンがどういうことかと尋ねると、リーナスは、分からないの、と言ったのち、説明をする。
「いくら魔力が高いからって、魔法は何でも出来る、という訳じゃない。魔力はエネルギーに過ぎないわ。ミカルは、分かる?」
リーナスよりはいくらか魔法に理解があるらしいミカルは、けれども、少しは、と言うだけで、さほど驚いてはいないようだった。
「……まぁ、詳しく言っても分からないでしょうけど、とにかく、これは、膨大に魔力を消費する行為。だから、その、りるちゃん、大丈夫?」
リーナスが少し心配そうに問うも、りるは、
「なにがー? りるは、ほら、この通りまだまだ元気だよっ!」
と、元気そうに跳ね回る。再び、少し考え事をするようにケーキを見つめるリーナス。そんなリーナスが見るケーキをエルヴィンもまた仰ぎ見て、
「これ、分けないとなぁ」
と、呑気に言った。