第6話
翌日。
トラウィストンの広場。人影はまばらである。しかし、昨日と比べると、心なしか人が集まっているように思えた。
トラウィストン特有の薄暗い曇天の中、天気とは正反対に、そこでは、訳の分からないことが行われていた。
サーカス、らしきもの。
正確には、サーカスではない。この場で行われていることをより的確に表現するなら、大道芸とでもいうべきだろうか。広場において、エルヴィン、リーナス、ミカル、そして、この舞台の立役者である姫愛りるが、何かをやらかそうとしていた。大道芸──りる曰く、サーカスの演目が繰り広げられて行くのである。
笑うがいい、滑稽である、と。彼女たちを笑ったところで誰も怒りはしない。せいぜい怒るのは、それはもうピチピチな衣装を着たピエロ女、もとい、エルフの女の子、リーナス・アンナ・ウルリカくらいのものだろう。
何故なら、彼らは人々に笑顔を取り戻すためにやっているのだから。といっても、現段階で実際に、人々に、笑って欲しい、元気になって欲しい、と考えているのは悲しいかな、りる一人くらいなのであるが……。
行われるのは、まず、エルヴィンとミカルの剣劇。これは、なかなかに見ごたえがある。流石は訓練を積んできた者同士だけあって、素人には真似できない白熱の演技が見られる。一歩間違えれば大けがをするであろうその剣撃は、見る者の心を捉えるには十分で、やることもない者たちが、徐々にりるたちのサーカスもどきの元へと集まってくる。けれど、集まってくる人々は、ただ単にやることがないだけ。もしくは、今日の仕事が終わった者だけ。やることがないから、何かやっているところに集まる。至極自然なことだ。
「さー、ツヅキマシテハー……」
テンションの低い言葉で言うのは、少々、体のラインが顕著に出る目立ち過ぎる色の服に身を包んだリーナスだ。何故こんなことをしなくてはならないのか、彼女の頭には始終そのような考えが浮かんでいたことは間違いないく、同時に、表情にも出ていたのは間違いないのないことだったが、観客(男)にしてみればそんなことは些細な問題である。彼らは興奮する。いいぞ、ねぇちゃん、もっとやれ、とばかりに野次を入れたりもする。リーナスは、そこに立っているだけで注目の的になっていたのだ、流石、エルフ、その美貌は世界を救うのか。
「りるだよー!」
その大きな元気な声と共に、りるが躍り出る。
そんな彼女の演技は、完全に、魔力に頼ったものであった。魔力で宙に浮いたり、魔力でぬいぐるみのような巨体をぼんぼんと出現させたり、はたまた消したリ──。そうかと思えば、今度は虹をぐるんぐると描いたり。
薄暗い雲の下の広場は、りるの魔法でうっすらと、華やかなピンク色に包まれる。それによって騒ぎを察知した街中の人が次々と集まってくる。りるはそんな人たちの頭上を縦横無尽に駆け回り、くるんと空中で宙返りをしたり、アクロバットな動きで人々を魅せる。
それは、確かに、サーカス、と呼ぶのにふさわしい華やかさであった。間違いなく、りる一人がこの広場の主役になっていた。
「はー……すごいもんだな」
エルヴィンは、思ったことを率直に口にした。同時に、自らの心の中に、なんだか、ウキウキとしたものが浮かび上がってきていることに気づく。それの正体が何なのか、そんなことを考えるよりも前に、エルヴィンは、自らも演じ手であることを忘れ、りるのショーに見入ってしまう。
エンターテイナー。そんな言葉がぴったりだった。
可愛らしい魔法少女の衣装を身にまとったりるは、華やかに宙を踊った、地を踊った。どこからか流れ出る痛快な音楽は、実は、この広場に直接音として流れているのではなく、りるの魔法によって、この広場にいる人間の脳に直接感覚として送りこまれていたりする。
人々の心は、徐々に、徐々に、楽しさを知ろうとしていた。なんだか無性に楽しい。そんな感覚が、じわりじわりと心の中に浮かび上がってくるのを人々は感じていた。
これらの騒ぎを聞きつけてかけつけた軍の警察が、
「おい! なんだ、貴様たち、ここで人を集めて何をしている!」
と、治安維持活動に躍起になろうとしているのに対して、あろうことか、
「あはは~! えーい!」
などと笑顔を振りまきながら、くるくるとステッキを回し、大きなくまさんのぬいぐるみを落下させる。全くもって外にあるのが不釣り合いなキュートなデザインの、うっすらと光を放っているように見える巨大なぬいぐるみは、駆け付けたうるさい大人たちを押しつぶし、身動きを取れなくしてしまう。
その途端、これまでぼんやりと見ていた野次馬たちは、正真正銘の観客になった。曇った表情が、徐々に溶けた。そこには、笑いが生まれた。
彼らは皆思った、こんなバカをやってのけるなんて、バカだ、こいつらは訳の分からない馬鹿だ、けれど、面白い、と。
老若男女は、りるによるエンターテイメントを楽しんだ。馬鹿みたいに笑い、一緒になって踊り、ジャンプし、飛び跳ね、声を上げる。
「よーし! 僕たちも参加しようよ!」
ミカルが笑顔で、エルヴィンとリーナスを誘う。
「……そうだな」
「し、仕方ないわねぇ」
こうして、広場全体は、一種のお祭り騒ぎ。サーカスというのは、芸を見せるものであるからして、りるの行っていることは、厳密に言えば、サーカスとは別なのだが、もはやそんなことを気にする人はこの場には一人もいなかった。
楽しい。
何か、訳がわからないけれど、うずうずする。心が踊り、思考が跳ねる。過去のこと、未来のこと、そんなことを考えているものは、この場には一人たりとていなかった。別に理由なんかないのに、楽しかった。
りるを見ているとすごいと感じた。りるは宙を跳ねるし、魔法を使って花火のような演出も行う。まるで、夢の中の世界にいるようで、それらの光景を見ているだけで、人々の胸は躍ったのである。
さて。
実は、これら、人々が痛快さを覚えているのは、勿論、りるの芸がすごいからだけではない。彼女は、魔力の隙間隙間に、人々の脳を刺激する快楽物質を放っていたりする。無論、無自覚に。無自覚、というと少し語弊があるだろう。彼女は、人々を楽しませたいと思って、こうして踊っている。その思考から、無意識に、人々の脳へと快楽物質を放っているのだ。であるからして、人々が楽しいと感じるのは、りるの演技がすごいからというだけの理由ではなかったりするのだが、その事実に気付いている者はこの場に一人たりともいない訳で、こんなことをわざわざ突き止めるのは無粋である。
とにかく、この場に、そのような事実を知る人がいないということはそれ即ち、皆が楽しかったという事実のみが残り、必然的に、この素晴らしい場において称賛されるのは、勿論りるだ。
広場の熱は収まらず、拍手の嵐は数秒間続いた。りるが彼らの前に立ち、言う。
「今日は、私のサーカスを見てくれてありがとー!」
にこ~、という笑みに、老若男女が拍手を送る。
「聞いて! これはね、みんなが暗い顔をしていたからやったことなんだよ!」
人々がざわざわとしている中、けれども、りるは続ける。
「皆、楽しい、を思い出して欲しいんだ! 楽しいのはいいことなの! 楽しいを知らないと、ニンゲンはね、楽しく生きられないんだよ!」
わりと、平凡なセリフである。何もない場所で、唐突に言われたのならば、別に、何ら素晴らしいセリフでもないとさえ思える。けれど、熱気だったこの場において、彼女の言葉は観客を見事に包み込む。拍手、歓声、それらの熱気が欠けることはしばらくの間なかった。
馬鹿みたいな騒ぎ。一見何の役にも立っていないような祭りごと。しかしながら、確固たる事実として、人々の顔には、笑みがあった。これだけは、間違いのない事実であり、同時に、笑顔があるということは、彼らが少なくとも不幸ではないということを意味しているということにもつながる。
エルヴィンは姫愛りるの姿を、そして、この場の熱狂を見て、何か分かりかけた気がした。何か、そう、大切な何か、が……。
それからしばらくして、熱狂の渦が止み、街はいつもの姿を取り戻そうとしつつあった。
唯一違うことといえば、少しだけ、ほんの少しだけ、この街に活気があふれようとしているということだろうか。
「なぁ、あんなんで、本当に何か変わるのか?」
エルヴィンは、りるが何か考えを持ってサーカスをやったのだと、少しだけ信じ始めていた。そう、ほんの少しだけ。だから、彼は聞いた。広場の片隅で、出発の支度をしているリーナスやミカルの横に立つりるに向かって問うた。
りるは、ぅう~ん~、と腕を組んで唸る。なんだ、なんだ、やっぱりただの思い付きだったのか、と失望しかけた時、りるが口を開いた。
「エルはどう思った?」
その顔は笑顔だ。エルヴィンを虐めようとしているのではないということが分かる屈託のない笑顔である。
「俺は……」
エルヴィンは考える。自分は、どう思ったか。そのことを言えばいい。そして、正直に、
「楽しいとは、思ったよ。理由は説明できないけど、な」
「だったら、それが正しいんじゃなぁい?」
「ど、どういう意味だよ」
真意を量り兼ね、更に問う。
「りるはエルのことそんなに知らないよ。でも、少しだけ知ってる。この世界の人たちはね、エルも、ミカルも、おっぱいも、そして、この街の人も含めて、みーんな、ちょっと賢すぎるんだー、って思ったな~、りるは」
首を傾げるエルにりるは、少しだけ面倒くさそうに、けれども、さして表情を変えることはなく、相変わらず曇った空を見上げながら続けた。
「賢いとさー、いっぱい考えないといけない~、って思っちゃうんだよねー? 分かるよぉ~、分かる分かる。でもさぁ~、楽しかったら、それでいいじゃん! っていうのも、一つの賢さじゃないかな~。楽しさを知らないのに、楽しさを求めようとする生活なんてできないのっ! 今日を楽しめない者に明日は楽しめない──昔の人は言ったのです」
「……あ、そ」
エルヴィンは、その最後の一言に、こいつは本当に何かを考えているのかということそのものについて考えるのが馬鹿馬鹿しくなった。というより、正直なところ、りるが何を言っているのか、多くは理解できなかった。一言でいえば、ほぼ意味不明、だ。けれど、それらしいことは言っているし、楽しかったのは、まぁ、事実である。理屈もなんとなく、本当になんとなくではあるが、僅かに理解出来た。
要するに、
「お前は、皆の幸福度を上げたい、と考えている。そうだろ?」
どんより曇った空の下、りるは相変わらず空を見上げながら答えた。
「そー、そー! そういうこと! すごいでしょ? りるはね~すごーい魔法少女になりたいんだ~」
エルヴィンは、しかし、それはあながち間違っていることでもないと思えた。僅かではある。ほんの僅かではあるが、人々の意識が、楽しさ、へと向かおうとしているということが、街の様子から分かったのだ。そこには、なかった会話があった。あの劇は、すごかったな、というような他愛もない会話ではあるが、刹那的なものではあるかもしれないが、けれど、彼らが少しでも変わることができれば、もしかしたら、この国だって変わるかもしれない、そう希望を抱くには十分な光景に見えなくもない。
希望的観測過ぎる、と言われればそれまでだ。しかし、僅かでも、人々の心に何かを植え付けることができていたならば、全員でなくてもいい、一握りの人にでもいいから、楽しいということに対する意識を植え付けられていたら、それは、どんなに素晴らしいことだろうか。
エルヴィンはりるが見ている空を見上げた。相変わらずの曇り空。しかし、どうやら、この街の景色が暗かったのは曇り空のせいだった訳ではないということは良く分かった。細かい理屈なんかじゃない。人々は、りるの言う通り、確かに憂いていたのだ。何をか、といえば、その答えは明確ではない。敢えていうのなら、何かに、である。それは例えば、未来、はたまた、国、自分自身、そんな漠然とした、大きすぎるもの。
「確かに、姫愛りるさん、君はすごい魔法少女なのかもしれないな」
エルヴィンがりるを見ることなくそう告げる。りるは、笑顔になって、にひひ~、と笑と、
「……あ、そうだ!」
いきなり何かを思い出したかのように目を見開く。
「もうサーカス終わったんだし、返してもらわなきゃ!」
その言葉の意味がどういう意味なのか。あまり深くは語るまい。けれど、この後、この広場にこだました声は、リーナス・アンナ・ウルリカの愉快な叫び声であったということ、更に、一部の人間たちを対象に、その幸福度メーターは一時的にマックスに近い値を叩きだしたということは付け加えておこう。