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梅の咲くころ

作者: 秋月キアラ
掲載日:2008/07/17

 山の春は、街より遅い。


 二月の終わりになっても、朝の土はまだ硬く、屋根の北側には薄汚れた雪がしぶとく残っている。郵便受けの赤い塗装は剥げ、石段の隙間には霜が白く入り込み、誰も通らなくなった参道には、去年の枯葉が風に押されて溜まっていた。


 それでも、梅だけは咲く。


 この家の裏山にある小さな梅園は、毎年、誰に頼まれたわけでもないのに花をつける。


 薄紅。


 白。


 ほんの少しだけ濃い紅。


 枝はねじれ、幹は古く、添え木なしでは立っていられない老木もある。けれど花の時期になると、梅園は一瞬だけ、山の斜面から切り離された別の場所になる。


 そこには、春が来る。


 町へ降りるバスは一日に三本しかない。


 コンビニまでは車で四十分。


 スマホの電波は、母屋の縁側に立てばぎりぎり一本。


 そんな山奥に、私は一人で住んでいる。


 姓は百瀬。


 昔は、このあたり一帯の名主だったらしい。


 らしい、というのは、私自身がその栄華を何ひとつ知らないからだ。曽祖父の代にはすでに土地を手放し、祖父の代には屋敷の半分が朽ち、父の代には村から人が消えた。母は私が大学へ入る前に亡くなり、父も数年前、冬の明け方に眠るように逝った。


 残ったのは、古い母屋と、手入れの追いつかない山林と、裏手の梅園だけだった。


 売ることも考えた。


 町の不動産屋には「正直、買い手はつきませんね」と言われた。民泊にしたらどうかと勧められたこともある。だが、こんな場所まで泊まりに来る物好きがどれだけいるのか。そもそも私に、人をもてなす気力がなかった。


 だから私は、会社を辞め、東京の部屋を引き払い、百瀬の家へ戻ってきた。


 逃げた、と言ってもいい。


 仕事も、人間関係も、将来も、全部が少しずつ重くなっていた。何か特別な事件があったわけではない。ただ、ある朝、満員電車の窓に映った自分の顔を見て、ふと、もう帰ろうと思ったのだ。


 帰る場所が、ここしかなかった。


 私は琴を弾く。


 生業というほどではない。母が生前、近所の子どもに教えていた古い琴が残っていて、幼いころから自然と触れていた。それだけだ。


 東京にいたころは、たまに動画サイトへ演奏を上げた。再生数は多くない。コメントも少ない。それでも、誰かが「寝る前に聴いています」と書いてくれると、数日は生きていける気がした。


 山へ戻ってからは、梅の季節だけ、裏の梅園で琴を弾くようになった。


 誰に聴かせるわけでもない。


 ただ、梅が咲くと、母のことを思い出す。


 母は琴の名手だった。


 私を身ごもっているころも、毎日のように梅園で琴を弾いていたという。父がよく言っていた。


「あの子は、腹の中で琴を覚えたんだろうな」


 母は笑っていた。


 私はその笑顔を、もう少ししか思い出せない。


 けれど、琴の音だけは覚えている。


 梅の匂いと、弦を弾く爪の音。


 春の風が、音と花を一緒に運んでいく感覚。


 それだけは、忘れられない。


 その日も、私は梅園へ琴を運んだ。


 古い毛氈を敷き、その上に座る。冷たい土の湿気が、膝の裏から上がってくる。斜面の下には、もう誰も住んでいない家々の屋根が見えた。さらに遠く、山の切れ目から、町の白いビルが小さく光っている。


 梅は、五分咲きだった。


 少し早い。


 今年は暖冬だったせいだろう。


 私は指先を温め、爪をはめた。


 最初の一音を鳴らす。


 細く、冷えた音が、梅園にほどけた。


 風が動いた。


 白い花が揺れた。


 もう一音。


 もう一音。


 曲は決めていなかった。


 母がよく弾いていた古い調べを、指が勝手に探っていく。弾きながら、少しずつ自分の音へ変えていく。誰に聴かせるでもない演奏だから、間違えてもいい。止まってもいい。むしろ、それくらいのほうが息ができる。


 しばらくすると、気配がした。


 毎年のことだった。


 梅の時期になると、梅園には人が来る。


 人、と呼んでいいのかはわからない。


 老いた男。


 背の高い女。


 子ども。


 顔のない影。


 農作業着の老人。


 古い袴を着た少年。


 現代の服を着ている者もいれば、時代劇の中から出てきたような者もいる。


 彼らは梅の枝の下に立ち、私の琴を聴く。


 父には見えていなかった。


 母にも、たぶん見えていなかった。


 だが私は、幼いころから見えていた。


 初めて見たときは、怖かった。


 怖かったけれど、彼らは何もしなかった。


 ただ、母の琴を聴いていた。


 花の咲く時期にだけ現れ、梅が散るころには姿を消す。


 それだけの客だった。


 だから私は、大人になっても気づかないふりをしている。


 見えていると知られたら、もう来なくなるかもしれない。


 そう思うと、少し寂しかった。


 私は目を伏せ、弾き続けた。


 今日は客が多い。


 梅の開きがよいせいか、音の調子がいいせいか、木々の間にぽつぽつと姿が増えていく。彼らは声を潜めているつもりなのだろうが、たまに聞こえる。


「今年も弾いておる」


「母君ほどではないが、悪くない」


「いや、あれはあれでよい」


「指がまだ若いのう」


 失礼な評論家たちだ。


 私は聞こえないふりをした。


 ところが、その日は一人、やけに騒がしい客がいた。


 少女だった。


 年は、見た目だけなら十二、三。


 けれど、この手の存在に見た目の年齢など意味がないことは、私でも知っている。


 髪は濃い紅茶色で、長く、左右に高く結い上げられていた。輪のように丸めた髪が、梅の枝に掛かった飾り紐のように揺れている。髪を結わえている紅い紐には、小さな梅の飾りがついていた。


 淡い桃色の小袖に、深紅の袴。


 背中には、ふわりと広がる布。


 手には、白い梅の枝。


 目は大きく、紅梅のような色をしている。


 可憐だった。


 そして、非常に邪魔だった。


 少女は、私の目の前をふわふわと横切った。


 私は弦を弾く指を止めそうになった。


 少女は気づいていないのか、それともわざとなのか、私の周りをくるくる回る。袴の裾が風に遊び、梅の花びらが彼女の動きにつられて舞う。


 私は無視した。


 曲を崩さないように、視線を弦へ落とす。


 すると少女は、私の顔を下から覗き込んできた。


 近い。


 近すぎる。


 鼻先が触れそうな距離である。


 弦が鳴り損ねた。


 ぺん、と情けない音がした。


 木々の間で、誰かが小さく笑った。


 少女は、ぱっと顔を輝かせた。


 私は内心で舌打ちした。


 見えていない。


 見えていない。


 絶対に見えていない。


 私は自分にそう言い聞かせ、演奏を続ける。


 だが、少女はさらに調子に乗った。


 私の肩の上に腰かけようとする。


 琴の上に梅の枝を置く。


 弦を弾く私の手の動きに合わせて、わざと顔を近づける。


 そしてついに、私の額の前で手をひらひら振った。


 我慢の限界だった。


 私は、少女を睨んだ。


 少女の動きが止まった。


 梅園の空気も止まった。


 あ。


 やってしまった。


 そう思ったときには、遅かった。


 少女は大きな目をさらに丸くした。


 それから、にやりと笑った。


「そち」


 妙に古めかしい口調だった。


「妾が見えておるな?」


 私は返事をしなかった。


 何も聞こえていないふりをして、もう一度琴へ向き直る。


 少女は私の正面に回り込んだ。


「見えておるのだろう」


 私は弾く。


「見えておるな?」


 私は弾く。


「見えておると言え」


 私は弾く。


「言わぬか!」


 少女は頬を膨らませた。


 木々の間で、ざわめきが起こる。


「うめか様、よしなされ」


「人の子に我らが見えるはずがありません」


「気のせいでございましょう」


 うめか。


 誰かが、そう呼んだ。


 少女の名らしかった。


 百瀬うめか。


 いや、名字まであるのかどうかはわからない。


 けれど私の中で、その名は不思議とぴたりとはまった。


 梅の花から生まれたような少女。


 春の先触れ。


 うめか。


 少女は老人の声など聞く気もないらしく、私の前へ立ちはだかった。


「そち、妾をたばかっておるな」


 私は弾き続ける。


「ならば、これならどうじゃ」


 嫌な予感がした。


 次の瞬間、少女の小さな手が、私の額をぺちんと叩いた。


 軽い音だった。


 痛くはない。


 だが、衝撃はあった。


 弾きかけた弦が、びん、と大きく鳴った。


 そして一本、切れた。


 梅園にいた者たちが、一斉に息を呑んだ。


「触れた……」


「人に触れたぞ」


「うめか様が、人の子に」


 少女だけが、得意げに胸を張っていた。


「ほれ見ろ。やはり見えておったではないか」


 私は額を押さえた。


 もう無理だ。


 この状況で知らん顔を続けるほうが不自然だった。


「……見えています」


 梅園が爆発したように騒がしくなった。


「やはり!」


「まことか!」


「百瀬の血か」


「いや、母君にも見えておらなんだぞ」


「この者、何者じゃ」


 声が重なり、梅の枝がざわざわと揺れる。


 私は深く息を吐いた。


「子どものころから見えていました。ただ、気づかないふりをしていただけです」


「なぜじゃ」


 うめかが首を傾げる。


「あなた方が来なくなったら、寂しいので」


 正直に言うと、梅園はまた静かになった。


 うめかは、何度か瞬きをした。


 それから、少しだけ照れたように目を逸らした。


「ふん。殊勝なことを申す」


 偉そうだった。


 だが、耳が赤い。


 耳が赤くなる精霊というのも妙なものだ。


 その日、ほかの客たちは半分ほど姿を消した。やはり、人間に見られていると知るのは落ち着かないらしい。残った者たちも、距離を取ってこちらを見ていた。


 うめかだけは帰らなかった。


 彼女は切れた琴の弦をじっと見つめ、それから私を見た。


「続けよ」


「弦が切れました」


「一本くらい、どうにかなるであろ」


「曲によります」


「では、どうにかなる曲を弾けばよい」


「簡単に言ってくれますね」


「妾は、そちの琴を聴きに来たのじゃ」


 その一言は、不意に胸の奥へ落ちた。


 誰かが私の演奏を聴きたいと言った。


 動画のコメントでも、社交辞令でもなく。


 この梅園にいる、梅の花のような少女が、まっすぐそう言った。


「……満足できるかはわかりませんよ」


「妾を満足させてみせよ」


 私は苦笑した。


 そして、切れた弦を避けながら、別の調べを弾き始めた。


 うめかは舞った。


 最初の一歩で、空気が変わった。


 小さな身体が、梅の枝の間を滑る。


 袴の裾がひるがえり、紅い紐が風を結び、白い梅の枝が弧を描く。動きは幼く見えるのに、次の瞬間には人の時間を超えた優雅さが宿る。


 琴の音が、舞に引き上げられる。


 私の指が、勝手に走る。


 風が吹いた。


 花びらが散った。


 うめかは、その花びらを足場にするように宙へ跳ねた。


 私は見惚れそうになり、そのたびに必死で弦へ意識を戻した。


 負けたくない、と思った。


 不思議だった。


 誰かと競うために琴を弾いたことなど、ほとんどなかった。


 けれどそのとき、私の音はうめかの舞に追いつきたがっていた。


 彼女が跳ねれば、音も跳ねる。


 彼女が袖を流せば、音も長く伸びる。


 彼女がこちらを見ると、胸が苦しくなる。


 夕方まで、私たちはそうしていた。


 気がつけば、空は茜色に染まっていた。


 うめかは梅の枝に腰かけ、足をぶらぶらさせていた。


「今日はこれくらいで許してやる」


「それはどうも」


「明日も来るがよい」


「あなたが来るんでしょう」


「そちが来ねば、妾も退屈じゃ」


「勝手ですね」


「花とは勝手なものじゃ」


 うめかは得意げに言った。


 そして、風にほどけるように消えた。


 消える直前、梅の香りが強くなった。


 翌日、私は三色団子と緑茶を持って梅園へ行った。


 理由はよくわからない。


 ただ、彼女には似合う気がした。


 演奏の前に、梅の木の根元へ団子を置く。


 すぐに、うめかが現れた。


「なんじゃ、それは」


「三色団子です」


「知っておる」


「緑茶もあります」


「知っておる」


「食べますか」


「そこまで申すなら、もらってやらぬこともない」


 彼女は偉そうに言いながら、すでに団子を一本手に取っていた。


 一口食べる。


 目が輝いた。


「……悪くない」


「よかったです」


「もう一本」


「どうぞ」


「茶も」


「はい」


 緑茶を小さな湯呑みに注ぐと、うめかは両手で持ち、ふうふう冷ましてから飲んだ。


 その様子は、どう見てもただの少女だった。


 いや、ただの少女よりずっと古く、ずっと新しい何かだった。


 それからというもの、私は毎日、団子と茶を持って梅園へ行った。


 うめかは、それを当然のように受け取った。


 食べ終わると、私の後ろをしばらくついてくることもあった。屋敷の縁側まで来て、土間の手前で止まる。中には入れないのか、入らないのか。


「まだついてくるんですか」


「団子の礼じゃ」


「礼なら、もう十分です」


「そちが寂しそうな顔をしておるから、ついてきてやっておるのじゃ」


「そんな顔をしていますか」


「しておる」


 うめかは断言した。


 私は何も言えなかった。


 梅の時期が深まるにつれて、梅園は賑やかになっていった。


 最初は遠巻きにしていた者たちも、少しずつ戻ってきた。私が彼らを見えていると知っても、演奏をやめず、騒ぎ立てず、祓おうともしないとわかったからだろう。


 老いた精が酒を持ってくる。


 子どもの姿をしたものが枝から枝へ飛び移る。


 着物の女が歌う。


 狐の耳を持つ男が笛を吹く。


 誰かが私の琴を批評する。


 誰かが母の演奏を懐かしむ。


 うめかは、その中心で舞った。


 毎日、毎日。


 梅の花が開くたびに、彼女の舞は華やかになった。


 ある日、私は出来心で、彼女の髪の紅い紐に触れた。


 ただ、ほどけかけているように見えたのだ。


 指先が紐にかかった瞬間、風が止まった。


 うめかの笑顔が消えた。


「そち」


 声が低い。


「今、何をしようとした」


「いえ、紐が」


「引いたな」


「引いてはいません。少し触れただけで」


「引いたな?」


 梅の枝がざわめいた。


 空が曇った。


 遠くの山から、唸るような風の音が近づいてくる。


「うめか様の紅緒に触れるとは」


「命知らずじゃ」


「春一番が来るぞ」


 誰かが言った。


 次の瞬間、猛烈な風が梅園を吹き抜けた。


 花びらが渦を巻き、私は毛氈ごと後ろへ倒れそうになった。琴を抱えて必死に踏ん張る。


「すみません! もうしません!」


「絶対じゃぞ!」


「絶対です!」


「団子二本追加じゃ!」


「持ってきます!」


 風が少し弱まった。


 うめかは頬を膨らませていたが、やがてぷいと顔を逸らした。


 その日、山を降りた町では、春一番が観測されたらしい。


 夜のニュースで、アナウンサーがそう言っていた。


 私は縁側で茶を飲みながら、ひとりで笑った。


 春一番は、どうやら気象現象だけではないらしい。


 楽しい日々だった。


 そう言い切れる日々は、人生にそう多くない。


 梅の下で琴を弾き、うめかが舞い、見えないはずの客たちが笑い、歌い、騒ぐ。


 山奥の廃れた家が、その季節だけは祭りの中にあった。


 だが、花は散る。


 それは毎年のことだった。


 三月の半ばを過ぎると、梅の花びらは少しずつ地面へ落ちていった。客たちも一人、また一人と姿を見せなくなる。


 うめかだけは、最後まで残った。


 散りかけの梅の下で、彼女はいつもより静かに舞った。


 その日の夕方、演奏を終えると、彼女は私の前に立った。


「明日は、来られぬ」


 私は、覚悟していたはずなのに胸が沈んだ。


「また来年ですか」


「うむ。また来年」


「必ず?」


「必ずじゃ」


 うめかは小さな手を差し出した。


 私はその手に触れた。


 冷たいようで、温かい。


 花びらに触れたような感触だった。


「それまでに、もっと上手くなっておきます」


「ならねば許さぬ」


「厳しいですね」


「妾は、そちの琴が好きじゃからな」


 そう言って、彼女は消えた。


 梅の花びらが一枚、彼女のいた場所から落ちた。


 私はその花びらを、琴の袋にそっと挟んだ。


 だが、次の年の春、私は梅園へ行けなかった。


 理由は災害だった。


 夏の終わり、過去にないほどの大雨が山を襲った。ニュースでは線状降水帯という言葉が繰り返された。町の川が溢れ、県道が崩れ、いくつもの集落が孤立した。


 百瀬の家も被害を受けた。


 裏山が崩れ、梅園へ続く道が土砂で埋まった。


 母屋の屋根も一部壊れた。


 私は避難所へ移り、その後、町の仮設住宅でしばらく暮らすことになった。


 山へ戻りたいと言っても、行政は危険だと止めた。


 工事の順番は後回しだった。


 住民のほとんどいない山奥の旧家より、生活道路や橋の復旧が優先される。当然のことだ。誰も悪くない。


 誰も悪くないことが、一番つらい。


 梅の季節が来た。


 私は仮設住宅の小さな部屋で、琴を弾いた。


 だが、音は梅園まで届かない。


 うめかは来なかった。


 次の年も、梅園へは入れなかった。


 その次の年、ようやく道が一部復旧したが、今度は私自身が倒れた。


 避難生活の疲れか、慣れない仕事のせいか、体調を崩し、入院した。大病ではなかった。けれど春の間、私は病室の窓から街路樹を眺めることしかできなかった。


 白い天井。


 点滴。


 消毒液の匂い。


 スマホに保存してある梅園の写真。


 その中に、うめかは写っていない。


 当たり前だ。


 でも、私は何度も拡大した。


 花の影に、枝の隙間に、もしかしたら彼女の髪飾りが映っていないかと探した。


 何もなかった。


 三年が過ぎた。


 四年目の二月、私はようやく百瀬の家へ戻った。


 母屋は、さらに古びていた。


 雨漏りの跡。


 剥がれた壁。


 傾いた廊下。


 庭には背の高い草が枯れたまま残っていた。


 私は荷物を置くより先に、琴を抱えて裏山へ向かった。


 道は細く、ところどころ崩れていた。


 昔の石段は土に埋まり、竹が倒れ、足元はぬかるむ。息が切れた。昔なら何でもなかった坂が、やけに長く感じる。


 ようやく梅園へ辿り着いたとき、私は立ち尽くした。


 梅園は、荒れていた。


 多くの木が折れていた。


 土砂に根をえぐられた木もある。


 水路は詰まり、苔は乾き、枝先にはほとんど花がない。


 かつて母が弾き、私が弾き、うめかが舞った場所は、見る影もなかった。


 私は琴を抱いたまま、膝をついた。


 声が出た。


 大人になってから、あんな声で泣いたことはなかった。


 誰に聞かれるわけでもない。


 それでも恥ずかしいくらい、私は泣いた。


「ごめん」


 誰に謝っているのか、自分でもわからなかった。


 母に。


 父に。


 百瀬の先祖に。


 梅の木に。


 見えない客たちに。


 うめかに。


「ごめん。守れなかった」


 土に涙が落ちた。


 梅の花びらではなく、ただの水だった。


 どれくらいそうしていただろう。


 風が吹いた。


 冷たい風ではなかった。


 春の匂いを含んだ、柔らかな風。


「遅い」


 声がした。


 私は顔を上げた。


 折れた梅の枝の下に、少女が立っていた。


 紅茶色の長い髪。


 輪のように結い上げた髪。


 紅い紐。


 桃色の小袖。


 深紅の袴。


 手には、白い梅の枝。


 百瀬うめかが、そこにいた。


「遅いぞ、そち」


 私は声にならない息を吐いた。


 琴を置き、泥だらけのまま彼女へ手を伸ばす。


 触れた。


 今度は、こちらから。


 彼女は逃げなかった。


 私はうめかを抱きしめた。


 小さな身体だった。


 花のように軽い。


 けれど、確かにそこにいた。


「もう会えないと思った」


「妾は待っておった」


「ずっと?」


「ずっとじゃ」


「こんなに荒れてしまったのに」


「荒れたくらいで、花が終わると思うか」


 うめかは私の胸を軽く押して離れた。


 そして、折れた梅の枝を指さした。


「見よ」


 枝先に、小さなつぼみがあった。


 ひとつ。


 またひとつ。


 まだ固いが、確かに膨らんでいる。


「そちが思うほど、妾たちは弱くない」


 うめかは胸を張った。


「そちの琴を待っておるぞ。皆も」


 私は周囲を見回した。


 誰もいない。


 だが、気配はあった。


 折れた木の陰。


 崩れた石段。


 枯れ草の向こう。


 そこに、昔の客たちがいる。


 見えないふりではない。


 彼らはまだ、姿を現す力をためているのだ。


 私は琴を置いた。


 泥で汚れた手を拭き、爪をはめる。


 弦を弾いた。


 音は、震えていた。


 けれど、梅園に届いた。


 うめかが舞い始める。


 最初はゆっくり。


 折れた枝を避けるように。


 崩れた土をいたわるように。


 やがて、彼女の足元から風が起こった。


 つぼみが開く。


 一輪。


 二輪。


 白い花が、荒れた梅園に灯る。


 私は弾いた。


 母の曲ではない。


 昔の曲でもない。


 この数年、病室で、仮設住宅で、山へ戻れない夜に、何度も頭の中で鳴っていた調べ。


 約束を破った後悔。


 もう会えないかもしれない恐怖。


 それでも、春が来れば梅は咲くと信じたい祈り。


 そのすべてが、指先から流れた。


 うめかは舞った。


 紅い紐が風を結ぶ。


 袴が花を散らす。


 荒れた梅園に、ひとり、またひとりと客たちが姿を現した。


 老人が泣いていた。


 子どもが笑っていた。


 狐の耳を持つ男が笛を吹いた。


 着物の女が歌った。


 宴だった。


 失われたものを悼むためではない。


 まだ残っているものを祝うための宴。


 私は弾き続けた。


 指が痛んでも、背中が震えても、止めなかった。


 うめかも舞い続けた。


 けれど、やがて私は気づいた。


 彼女の足取りが、少しずつ乱れている。


 袖の動きが遅れる。


 跳ねたあと、着地が揺れる。


 花びらのように軽かった身体が、風に乗り切れなくなっている。


「うめか」


 呼びかけても、彼女は笑った。


「弾け」


「でも」


「弾け。今の曲を、最後まで」


 最後。


 その言葉を聞きたくなかった。


 だが、私の指は止まらなかった。


 止めてはいけないと思った。


 曲は、終わりへ向かっていた。


 うめかは最後の力を振り絞るように舞った。


 梅の花が一斉に開く。


 荒れた枝にも、折れた幹にも、土砂に半分埋もれた根元にも、花が咲いた。


 それは奇跡ではなかった。


 春だった。


 ただの春が、何よりも奇跡に見えた。


 最後の一音が、梅園に消えた。


 同時に、うめかが倒れた。


 私は琴を離し、彼女を抱き起こした。


「大丈夫か」


「……上々じゃ」


「そんなことを聞いているんじゃない」


「今の曲、名は?」


「ない」


 私の声は震えていた。


「あなたのために弾いた。自然に生まれた曲だ」


「ならば、名をつけよ」


「一緒につけよう」


 うめかは小さく笑った。


 その身体が、薄くなっていく。


 指先から、花びらのようにほどけていく。


「待ってくれ」


 私は彼女を抱きしめようとした。


 だが、腕の中で彼女は軽くなっていく。


「また来年、会えるんだろう」


 うめかは答えなかった。


「必ずって言っただろう」


 彼女は私を見上げた。


 紅梅色の瞳が、静かに細められる。


「楽しかったぞ、そち」


「まだ、名前すらちゃんと聞いていない」


「知っておろう」


「百瀬うめか」


 私が言うと、彼女は嬉しそうに笑った。


「うむ。よい名じゃ」


「自分の名前でしょう」


「今、そちがくれた名じゃ」


 風が吹いた。


 春一番だった。


 梅の花びらが舞い上がる。


 彼女の身体は、その花びらの中へ溶けていった。


 最後に、紅い紐だけが指先に触れた気がした。


 引っ張ってはいない。


 ただ、触れただけだ。


 今度は怒られなかった。


 梅園に、私ひとりが残った。


 いや、ひとりではなかった。


 風があった。


 梅の香があった。


 琴があった。


 そして、枝先にはまだ花が咲いていた。


 私はその場で、もう一度琴に向かった。


 さっきの曲を忘れないように。


 一音もこぼさないように。


 弾きながら、曲の名を決めた。


 うめか。


 春一番を連れてくる、梅の少女の名。


 それから毎年、二月の終わりから三月の半ばにかけて、私は梅園で琴を弾く。


 梅園は少しずつ手入れをした。


 崩れた水路を直し、折れた枝を払い、若い苗も植えた。町の人に頼み、ボランティアにも来てもらった。動画サイトに梅園の演奏を上げると、思いがけず多くの人が見てくれた。


 春になると、山奥の百瀬家には少しだけ人が来るようになった。


 三色団子と緑茶を持ってくる人もいる。


 なぜか、梅園の入り口に供えて帰る。


 誰が広めたのかは知らない。


 ただ、ときどき子どもたちが言う。


「今、女の子がいた」


「ピンクの着物の子」


「団子を持っていったら、途中までついてきた」


 私は笑うだけにしている。


「髪の赤い紐には触らないほうがいいよ」


 そう教えると、子どもたちは目を丸くする。


「なんで?」


「春一番が来るから」


 山の春は、街より遅い。


 けれど、梅だけは咲く。


 今年も、白い花が開く。


 紅い紐を揺らす風が吹く。


 私は琴を構え、最初の一音を鳴らす。


 すると、梅の枝の向こうで、誰かが小さく笑う。


 見えるようで、見えない。


 いるようで、いない。


 それでいい。


 私は弾く。


 うめか。


 彼女の名を、春の中へ返すように。

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