梅の咲くころ
山の春は、街より遅い。
二月の終わりになっても、朝の土はまだ硬く、屋根の北側には薄汚れた雪がしぶとく残っている。郵便受けの赤い塗装は剥げ、石段の隙間には霜が白く入り込み、誰も通らなくなった参道には、去年の枯葉が風に押されて溜まっていた。
それでも、梅だけは咲く。
この家の裏山にある小さな梅園は、毎年、誰に頼まれたわけでもないのに花をつける。
薄紅。
白。
ほんの少しだけ濃い紅。
枝はねじれ、幹は古く、添え木なしでは立っていられない老木もある。けれど花の時期になると、梅園は一瞬だけ、山の斜面から切り離された別の場所になる。
そこには、春が来る。
町へ降りるバスは一日に三本しかない。
コンビニまでは車で四十分。
スマホの電波は、母屋の縁側に立てばぎりぎり一本。
そんな山奥に、私は一人で住んでいる。
姓は百瀬。
昔は、このあたり一帯の名主だったらしい。
らしい、というのは、私自身がその栄華を何ひとつ知らないからだ。曽祖父の代にはすでに土地を手放し、祖父の代には屋敷の半分が朽ち、父の代には村から人が消えた。母は私が大学へ入る前に亡くなり、父も数年前、冬の明け方に眠るように逝った。
残ったのは、古い母屋と、手入れの追いつかない山林と、裏手の梅園だけだった。
売ることも考えた。
町の不動産屋には「正直、買い手はつきませんね」と言われた。民泊にしたらどうかと勧められたこともある。だが、こんな場所まで泊まりに来る物好きがどれだけいるのか。そもそも私に、人をもてなす気力がなかった。
だから私は、会社を辞め、東京の部屋を引き払い、百瀬の家へ戻ってきた。
逃げた、と言ってもいい。
仕事も、人間関係も、将来も、全部が少しずつ重くなっていた。何か特別な事件があったわけではない。ただ、ある朝、満員電車の窓に映った自分の顔を見て、ふと、もう帰ろうと思ったのだ。
帰る場所が、ここしかなかった。
私は琴を弾く。
生業というほどではない。母が生前、近所の子どもに教えていた古い琴が残っていて、幼いころから自然と触れていた。それだけだ。
東京にいたころは、たまに動画サイトへ演奏を上げた。再生数は多くない。コメントも少ない。それでも、誰かが「寝る前に聴いています」と書いてくれると、数日は生きていける気がした。
山へ戻ってからは、梅の季節だけ、裏の梅園で琴を弾くようになった。
誰に聴かせるわけでもない。
ただ、梅が咲くと、母のことを思い出す。
母は琴の名手だった。
私を身ごもっているころも、毎日のように梅園で琴を弾いていたという。父がよく言っていた。
「あの子は、腹の中で琴を覚えたんだろうな」
母は笑っていた。
私はその笑顔を、もう少ししか思い出せない。
けれど、琴の音だけは覚えている。
梅の匂いと、弦を弾く爪の音。
春の風が、音と花を一緒に運んでいく感覚。
それだけは、忘れられない。
その日も、私は梅園へ琴を運んだ。
古い毛氈を敷き、その上に座る。冷たい土の湿気が、膝の裏から上がってくる。斜面の下には、もう誰も住んでいない家々の屋根が見えた。さらに遠く、山の切れ目から、町の白いビルが小さく光っている。
梅は、五分咲きだった。
少し早い。
今年は暖冬だったせいだろう。
私は指先を温め、爪をはめた。
最初の一音を鳴らす。
細く、冷えた音が、梅園にほどけた。
風が動いた。
白い花が揺れた。
もう一音。
もう一音。
曲は決めていなかった。
母がよく弾いていた古い調べを、指が勝手に探っていく。弾きながら、少しずつ自分の音へ変えていく。誰に聴かせるでもない演奏だから、間違えてもいい。止まってもいい。むしろ、それくらいのほうが息ができる。
しばらくすると、気配がした。
毎年のことだった。
梅の時期になると、梅園には人が来る。
人、と呼んでいいのかはわからない。
老いた男。
背の高い女。
子ども。
顔のない影。
農作業着の老人。
古い袴を着た少年。
現代の服を着ている者もいれば、時代劇の中から出てきたような者もいる。
彼らは梅の枝の下に立ち、私の琴を聴く。
父には見えていなかった。
母にも、たぶん見えていなかった。
だが私は、幼いころから見えていた。
初めて見たときは、怖かった。
怖かったけれど、彼らは何もしなかった。
ただ、母の琴を聴いていた。
花の咲く時期にだけ現れ、梅が散るころには姿を消す。
それだけの客だった。
だから私は、大人になっても気づかないふりをしている。
見えていると知られたら、もう来なくなるかもしれない。
そう思うと、少し寂しかった。
私は目を伏せ、弾き続けた。
今日は客が多い。
梅の開きがよいせいか、音の調子がいいせいか、木々の間にぽつぽつと姿が増えていく。彼らは声を潜めているつもりなのだろうが、たまに聞こえる。
「今年も弾いておる」
「母君ほどではないが、悪くない」
「いや、あれはあれでよい」
「指がまだ若いのう」
失礼な評論家たちだ。
私は聞こえないふりをした。
ところが、その日は一人、やけに騒がしい客がいた。
少女だった。
年は、見た目だけなら十二、三。
けれど、この手の存在に見た目の年齢など意味がないことは、私でも知っている。
髪は濃い紅茶色で、長く、左右に高く結い上げられていた。輪のように丸めた髪が、梅の枝に掛かった飾り紐のように揺れている。髪を結わえている紅い紐には、小さな梅の飾りがついていた。
淡い桃色の小袖に、深紅の袴。
背中には、ふわりと広がる布。
手には、白い梅の枝。
目は大きく、紅梅のような色をしている。
可憐だった。
そして、非常に邪魔だった。
少女は、私の目の前をふわふわと横切った。
私は弦を弾く指を止めそうになった。
少女は気づいていないのか、それともわざとなのか、私の周りをくるくる回る。袴の裾が風に遊び、梅の花びらが彼女の動きにつられて舞う。
私は無視した。
曲を崩さないように、視線を弦へ落とす。
すると少女は、私の顔を下から覗き込んできた。
近い。
近すぎる。
鼻先が触れそうな距離である。
弦が鳴り損ねた。
ぺん、と情けない音がした。
木々の間で、誰かが小さく笑った。
少女は、ぱっと顔を輝かせた。
私は内心で舌打ちした。
見えていない。
見えていない。
絶対に見えていない。
私は自分にそう言い聞かせ、演奏を続ける。
だが、少女はさらに調子に乗った。
私の肩の上に腰かけようとする。
琴の上に梅の枝を置く。
弦を弾く私の手の動きに合わせて、わざと顔を近づける。
そしてついに、私の額の前で手をひらひら振った。
我慢の限界だった。
私は、少女を睨んだ。
少女の動きが止まった。
梅園の空気も止まった。
あ。
やってしまった。
そう思ったときには、遅かった。
少女は大きな目をさらに丸くした。
それから、にやりと笑った。
「そち」
妙に古めかしい口調だった。
「妾が見えておるな?」
私は返事をしなかった。
何も聞こえていないふりをして、もう一度琴へ向き直る。
少女は私の正面に回り込んだ。
「見えておるのだろう」
私は弾く。
「見えておるな?」
私は弾く。
「見えておると言え」
私は弾く。
「言わぬか!」
少女は頬を膨らませた。
木々の間で、ざわめきが起こる。
「うめか様、よしなされ」
「人の子に我らが見えるはずがありません」
「気のせいでございましょう」
うめか。
誰かが、そう呼んだ。
少女の名らしかった。
百瀬うめか。
いや、名字まであるのかどうかはわからない。
けれど私の中で、その名は不思議とぴたりとはまった。
梅の花から生まれたような少女。
春の先触れ。
うめか。
少女は老人の声など聞く気もないらしく、私の前へ立ちはだかった。
「そち、妾をたばかっておるな」
私は弾き続ける。
「ならば、これならどうじゃ」
嫌な予感がした。
次の瞬間、少女の小さな手が、私の額をぺちんと叩いた。
軽い音だった。
痛くはない。
だが、衝撃はあった。
弾きかけた弦が、びん、と大きく鳴った。
そして一本、切れた。
梅園にいた者たちが、一斉に息を呑んだ。
「触れた……」
「人に触れたぞ」
「うめか様が、人の子に」
少女だけが、得意げに胸を張っていた。
「ほれ見ろ。やはり見えておったではないか」
私は額を押さえた。
もう無理だ。
この状況で知らん顔を続けるほうが不自然だった。
「……見えています」
梅園が爆発したように騒がしくなった。
「やはり!」
「まことか!」
「百瀬の血か」
「いや、母君にも見えておらなんだぞ」
「この者、何者じゃ」
声が重なり、梅の枝がざわざわと揺れる。
私は深く息を吐いた。
「子どものころから見えていました。ただ、気づかないふりをしていただけです」
「なぜじゃ」
うめかが首を傾げる。
「あなた方が来なくなったら、寂しいので」
正直に言うと、梅園はまた静かになった。
うめかは、何度か瞬きをした。
それから、少しだけ照れたように目を逸らした。
「ふん。殊勝なことを申す」
偉そうだった。
だが、耳が赤い。
耳が赤くなる精霊というのも妙なものだ。
その日、ほかの客たちは半分ほど姿を消した。やはり、人間に見られていると知るのは落ち着かないらしい。残った者たちも、距離を取ってこちらを見ていた。
うめかだけは帰らなかった。
彼女は切れた琴の弦をじっと見つめ、それから私を見た。
「続けよ」
「弦が切れました」
「一本くらい、どうにかなるであろ」
「曲によります」
「では、どうにかなる曲を弾けばよい」
「簡単に言ってくれますね」
「妾は、そちの琴を聴きに来たのじゃ」
その一言は、不意に胸の奥へ落ちた。
誰かが私の演奏を聴きたいと言った。
動画のコメントでも、社交辞令でもなく。
この梅園にいる、梅の花のような少女が、まっすぐそう言った。
「……満足できるかはわかりませんよ」
「妾を満足させてみせよ」
私は苦笑した。
そして、切れた弦を避けながら、別の調べを弾き始めた。
うめかは舞った。
最初の一歩で、空気が変わった。
小さな身体が、梅の枝の間を滑る。
袴の裾がひるがえり、紅い紐が風を結び、白い梅の枝が弧を描く。動きは幼く見えるのに、次の瞬間には人の時間を超えた優雅さが宿る。
琴の音が、舞に引き上げられる。
私の指が、勝手に走る。
風が吹いた。
花びらが散った。
うめかは、その花びらを足場にするように宙へ跳ねた。
私は見惚れそうになり、そのたびに必死で弦へ意識を戻した。
負けたくない、と思った。
不思議だった。
誰かと競うために琴を弾いたことなど、ほとんどなかった。
けれどそのとき、私の音はうめかの舞に追いつきたがっていた。
彼女が跳ねれば、音も跳ねる。
彼女が袖を流せば、音も長く伸びる。
彼女がこちらを見ると、胸が苦しくなる。
夕方まで、私たちはそうしていた。
気がつけば、空は茜色に染まっていた。
うめかは梅の枝に腰かけ、足をぶらぶらさせていた。
「今日はこれくらいで許してやる」
「それはどうも」
「明日も来るがよい」
「あなたが来るんでしょう」
「そちが来ねば、妾も退屈じゃ」
「勝手ですね」
「花とは勝手なものじゃ」
うめかは得意げに言った。
そして、風にほどけるように消えた。
消える直前、梅の香りが強くなった。
翌日、私は三色団子と緑茶を持って梅園へ行った。
理由はよくわからない。
ただ、彼女には似合う気がした。
演奏の前に、梅の木の根元へ団子を置く。
すぐに、うめかが現れた。
「なんじゃ、それは」
「三色団子です」
「知っておる」
「緑茶もあります」
「知っておる」
「食べますか」
「そこまで申すなら、もらってやらぬこともない」
彼女は偉そうに言いながら、すでに団子を一本手に取っていた。
一口食べる。
目が輝いた。
「……悪くない」
「よかったです」
「もう一本」
「どうぞ」
「茶も」
「はい」
緑茶を小さな湯呑みに注ぐと、うめかは両手で持ち、ふうふう冷ましてから飲んだ。
その様子は、どう見てもただの少女だった。
いや、ただの少女よりずっと古く、ずっと新しい何かだった。
それからというもの、私は毎日、団子と茶を持って梅園へ行った。
うめかは、それを当然のように受け取った。
食べ終わると、私の後ろをしばらくついてくることもあった。屋敷の縁側まで来て、土間の手前で止まる。中には入れないのか、入らないのか。
「まだついてくるんですか」
「団子の礼じゃ」
「礼なら、もう十分です」
「そちが寂しそうな顔をしておるから、ついてきてやっておるのじゃ」
「そんな顔をしていますか」
「しておる」
うめかは断言した。
私は何も言えなかった。
梅の時期が深まるにつれて、梅園は賑やかになっていった。
最初は遠巻きにしていた者たちも、少しずつ戻ってきた。私が彼らを見えていると知っても、演奏をやめず、騒ぎ立てず、祓おうともしないとわかったからだろう。
老いた精が酒を持ってくる。
子どもの姿をしたものが枝から枝へ飛び移る。
着物の女が歌う。
狐の耳を持つ男が笛を吹く。
誰かが私の琴を批評する。
誰かが母の演奏を懐かしむ。
うめかは、その中心で舞った。
毎日、毎日。
梅の花が開くたびに、彼女の舞は華やかになった。
ある日、私は出来心で、彼女の髪の紅い紐に触れた。
ただ、ほどけかけているように見えたのだ。
指先が紐にかかった瞬間、風が止まった。
うめかの笑顔が消えた。
「そち」
声が低い。
「今、何をしようとした」
「いえ、紐が」
「引いたな」
「引いてはいません。少し触れただけで」
「引いたな?」
梅の枝がざわめいた。
空が曇った。
遠くの山から、唸るような風の音が近づいてくる。
「うめか様の紅緒に触れるとは」
「命知らずじゃ」
「春一番が来るぞ」
誰かが言った。
次の瞬間、猛烈な風が梅園を吹き抜けた。
花びらが渦を巻き、私は毛氈ごと後ろへ倒れそうになった。琴を抱えて必死に踏ん張る。
「すみません! もうしません!」
「絶対じゃぞ!」
「絶対です!」
「団子二本追加じゃ!」
「持ってきます!」
風が少し弱まった。
うめかは頬を膨らませていたが、やがてぷいと顔を逸らした。
その日、山を降りた町では、春一番が観測されたらしい。
夜のニュースで、アナウンサーがそう言っていた。
私は縁側で茶を飲みながら、ひとりで笑った。
春一番は、どうやら気象現象だけではないらしい。
楽しい日々だった。
そう言い切れる日々は、人生にそう多くない。
梅の下で琴を弾き、うめかが舞い、見えないはずの客たちが笑い、歌い、騒ぐ。
山奥の廃れた家が、その季節だけは祭りの中にあった。
だが、花は散る。
それは毎年のことだった。
三月の半ばを過ぎると、梅の花びらは少しずつ地面へ落ちていった。客たちも一人、また一人と姿を見せなくなる。
うめかだけは、最後まで残った。
散りかけの梅の下で、彼女はいつもより静かに舞った。
その日の夕方、演奏を終えると、彼女は私の前に立った。
「明日は、来られぬ」
私は、覚悟していたはずなのに胸が沈んだ。
「また来年ですか」
「うむ。また来年」
「必ず?」
「必ずじゃ」
うめかは小さな手を差し出した。
私はその手に触れた。
冷たいようで、温かい。
花びらに触れたような感触だった。
「それまでに、もっと上手くなっておきます」
「ならねば許さぬ」
「厳しいですね」
「妾は、そちの琴が好きじゃからな」
そう言って、彼女は消えた。
梅の花びらが一枚、彼女のいた場所から落ちた。
私はその花びらを、琴の袋にそっと挟んだ。
だが、次の年の春、私は梅園へ行けなかった。
理由は災害だった。
夏の終わり、過去にないほどの大雨が山を襲った。ニュースでは線状降水帯という言葉が繰り返された。町の川が溢れ、県道が崩れ、いくつもの集落が孤立した。
百瀬の家も被害を受けた。
裏山が崩れ、梅園へ続く道が土砂で埋まった。
母屋の屋根も一部壊れた。
私は避難所へ移り、その後、町の仮設住宅でしばらく暮らすことになった。
山へ戻りたいと言っても、行政は危険だと止めた。
工事の順番は後回しだった。
住民のほとんどいない山奥の旧家より、生活道路や橋の復旧が優先される。当然のことだ。誰も悪くない。
誰も悪くないことが、一番つらい。
梅の季節が来た。
私は仮設住宅の小さな部屋で、琴を弾いた。
だが、音は梅園まで届かない。
うめかは来なかった。
次の年も、梅園へは入れなかった。
その次の年、ようやく道が一部復旧したが、今度は私自身が倒れた。
避難生活の疲れか、慣れない仕事のせいか、体調を崩し、入院した。大病ではなかった。けれど春の間、私は病室の窓から街路樹を眺めることしかできなかった。
白い天井。
点滴。
消毒液の匂い。
スマホに保存してある梅園の写真。
その中に、うめかは写っていない。
当たり前だ。
でも、私は何度も拡大した。
花の影に、枝の隙間に、もしかしたら彼女の髪飾りが映っていないかと探した。
何もなかった。
三年が過ぎた。
四年目の二月、私はようやく百瀬の家へ戻った。
母屋は、さらに古びていた。
雨漏りの跡。
剥がれた壁。
傾いた廊下。
庭には背の高い草が枯れたまま残っていた。
私は荷物を置くより先に、琴を抱えて裏山へ向かった。
道は細く、ところどころ崩れていた。
昔の石段は土に埋まり、竹が倒れ、足元はぬかるむ。息が切れた。昔なら何でもなかった坂が、やけに長く感じる。
ようやく梅園へ辿り着いたとき、私は立ち尽くした。
梅園は、荒れていた。
多くの木が折れていた。
土砂に根をえぐられた木もある。
水路は詰まり、苔は乾き、枝先にはほとんど花がない。
かつて母が弾き、私が弾き、うめかが舞った場所は、見る影もなかった。
私は琴を抱いたまま、膝をついた。
声が出た。
大人になってから、あんな声で泣いたことはなかった。
誰に聞かれるわけでもない。
それでも恥ずかしいくらい、私は泣いた。
「ごめん」
誰に謝っているのか、自分でもわからなかった。
母に。
父に。
百瀬の先祖に。
梅の木に。
見えない客たちに。
うめかに。
「ごめん。守れなかった」
土に涙が落ちた。
梅の花びらではなく、ただの水だった。
どれくらいそうしていただろう。
風が吹いた。
冷たい風ではなかった。
春の匂いを含んだ、柔らかな風。
「遅い」
声がした。
私は顔を上げた。
折れた梅の枝の下に、少女が立っていた。
紅茶色の長い髪。
輪のように結い上げた髪。
紅い紐。
桃色の小袖。
深紅の袴。
手には、白い梅の枝。
百瀬うめかが、そこにいた。
「遅いぞ、そち」
私は声にならない息を吐いた。
琴を置き、泥だらけのまま彼女へ手を伸ばす。
触れた。
今度は、こちらから。
彼女は逃げなかった。
私はうめかを抱きしめた。
小さな身体だった。
花のように軽い。
けれど、確かにそこにいた。
「もう会えないと思った」
「妾は待っておった」
「ずっと?」
「ずっとじゃ」
「こんなに荒れてしまったのに」
「荒れたくらいで、花が終わると思うか」
うめかは私の胸を軽く押して離れた。
そして、折れた梅の枝を指さした。
「見よ」
枝先に、小さなつぼみがあった。
ひとつ。
またひとつ。
まだ固いが、確かに膨らんでいる。
「そちが思うほど、妾たちは弱くない」
うめかは胸を張った。
「そちの琴を待っておるぞ。皆も」
私は周囲を見回した。
誰もいない。
だが、気配はあった。
折れた木の陰。
崩れた石段。
枯れ草の向こう。
そこに、昔の客たちがいる。
見えないふりではない。
彼らはまだ、姿を現す力をためているのだ。
私は琴を置いた。
泥で汚れた手を拭き、爪をはめる。
弦を弾いた。
音は、震えていた。
けれど、梅園に届いた。
うめかが舞い始める。
最初はゆっくり。
折れた枝を避けるように。
崩れた土をいたわるように。
やがて、彼女の足元から風が起こった。
つぼみが開く。
一輪。
二輪。
白い花が、荒れた梅園に灯る。
私は弾いた。
母の曲ではない。
昔の曲でもない。
この数年、病室で、仮設住宅で、山へ戻れない夜に、何度も頭の中で鳴っていた調べ。
約束を破った後悔。
もう会えないかもしれない恐怖。
それでも、春が来れば梅は咲くと信じたい祈り。
そのすべてが、指先から流れた。
うめかは舞った。
紅い紐が風を結ぶ。
袴が花を散らす。
荒れた梅園に、ひとり、またひとりと客たちが姿を現した。
老人が泣いていた。
子どもが笑っていた。
狐の耳を持つ男が笛を吹いた。
着物の女が歌った。
宴だった。
失われたものを悼むためではない。
まだ残っているものを祝うための宴。
私は弾き続けた。
指が痛んでも、背中が震えても、止めなかった。
うめかも舞い続けた。
けれど、やがて私は気づいた。
彼女の足取りが、少しずつ乱れている。
袖の動きが遅れる。
跳ねたあと、着地が揺れる。
花びらのように軽かった身体が、風に乗り切れなくなっている。
「うめか」
呼びかけても、彼女は笑った。
「弾け」
「でも」
「弾け。今の曲を、最後まで」
最後。
その言葉を聞きたくなかった。
だが、私の指は止まらなかった。
止めてはいけないと思った。
曲は、終わりへ向かっていた。
うめかは最後の力を振り絞るように舞った。
梅の花が一斉に開く。
荒れた枝にも、折れた幹にも、土砂に半分埋もれた根元にも、花が咲いた。
それは奇跡ではなかった。
春だった。
ただの春が、何よりも奇跡に見えた。
最後の一音が、梅園に消えた。
同時に、うめかが倒れた。
私は琴を離し、彼女を抱き起こした。
「大丈夫か」
「……上々じゃ」
「そんなことを聞いているんじゃない」
「今の曲、名は?」
「ない」
私の声は震えていた。
「あなたのために弾いた。自然に生まれた曲だ」
「ならば、名をつけよ」
「一緒につけよう」
うめかは小さく笑った。
その身体が、薄くなっていく。
指先から、花びらのようにほどけていく。
「待ってくれ」
私は彼女を抱きしめようとした。
だが、腕の中で彼女は軽くなっていく。
「また来年、会えるんだろう」
うめかは答えなかった。
「必ずって言っただろう」
彼女は私を見上げた。
紅梅色の瞳が、静かに細められる。
「楽しかったぞ、そち」
「まだ、名前すらちゃんと聞いていない」
「知っておろう」
「百瀬うめか」
私が言うと、彼女は嬉しそうに笑った。
「うむ。よい名じゃ」
「自分の名前でしょう」
「今、そちがくれた名じゃ」
風が吹いた。
春一番だった。
梅の花びらが舞い上がる。
彼女の身体は、その花びらの中へ溶けていった。
最後に、紅い紐だけが指先に触れた気がした。
引っ張ってはいない。
ただ、触れただけだ。
今度は怒られなかった。
梅園に、私ひとりが残った。
いや、ひとりではなかった。
風があった。
梅の香があった。
琴があった。
そして、枝先にはまだ花が咲いていた。
私はその場で、もう一度琴に向かった。
さっきの曲を忘れないように。
一音もこぼさないように。
弾きながら、曲の名を決めた。
うめか。
春一番を連れてくる、梅の少女の名。
それから毎年、二月の終わりから三月の半ばにかけて、私は梅園で琴を弾く。
梅園は少しずつ手入れをした。
崩れた水路を直し、折れた枝を払い、若い苗も植えた。町の人に頼み、ボランティアにも来てもらった。動画サイトに梅園の演奏を上げると、思いがけず多くの人が見てくれた。
春になると、山奥の百瀬家には少しだけ人が来るようになった。
三色団子と緑茶を持ってくる人もいる。
なぜか、梅園の入り口に供えて帰る。
誰が広めたのかは知らない。
ただ、ときどき子どもたちが言う。
「今、女の子がいた」
「ピンクの着物の子」
「団子を持っていったら、途中までついてきた」
私は笑うだけにしている。
「髪の赤い紐には触らないほうがいいよ」
そう教えると、子どもたちは目を丸くする。
「なんで?」
「春一番が来るから」
山の春は、街より遅い。
けれど、梅だけは咲く。
今年も、白い花が開く。
紅い紐を揺らす風が吹く。
私は琴を構え、最初の一音を鳴らす。
すると、梅の枝の向こうで、誰かが小さく笑う。
見えるようで、見えない。
いるようで、いない。
それでいい。
私は弾く。
うめか。
彼女の名を、春の中へ返すように。




