拾壱 神樹下の童
小町通の散策を終えた俺達は鶴岡八幡宮へ戻って来た。和菓子も洋菓子も美味しかったな。
話しやすいので、と言って紫苑が案内してくれたのは靄の立ち込める日本家屋だった。境内にこんなところあっただろうか、と思っていると、驚くなかれここが鶴岡の夢社なのだという。あの八幡神の夢社なのかと俺が驚愕していると、紫苑は申し訳なさそうに言った。
「そうであってそうではない、という感じですかね」
「どういうわけだ」
水干姿のひよを撫でているジャケット姿の紫苑は俺の少し前を歩いていた。振り向いた紫苑の艶やかな漆黒の髪が揺れる。同じように漆黒の瞳が吸い込むように深くなる。
「大きな力、多くの神使、たくさんの願いを抱える神は巨大な夢社を作ることがあるのです。神使の居住空間などを持つ……まるで一つの住宅街のような。この建物はとあるハトのお住まいです」
「ふうん」
どうぞ、と部屋に通される。何の変哲もない普通の和室だ。言われるがままに座布団に座ると、テーブルを挟んで向かいに紫苑とひよが座った。並んでいると親子か兄弟のようだ。カラスとヒヨコだが。
「紫苑様、教えてもらおうか今回のこと」
八咫烏は薄く笑っている。いつもの顔だ。
「全部知っていたのか、おまえは」
「全部とは」
「ひよのことだ。分かっていてそいつを代役にしたんだろう。茅と作戦でも立てて」
「茅さんと作戦など立ててはいません。依頼は茅さんが勝手にしたことです」
ひよは皿に置かれたきなこねじりをもぐもぐと頬張っている。飲み物は用意されていないようなので、喉に詰まらないか心配だ。
「行先に春日があるのを見て、晃一さんなら辿り着くだろうと思っていました。茅さんは晃一さんの力量が分かっていないのですよ。わざわざ依頼の形を取らずともあの夢社へは向かうことができたはずです」
「まあ、確かに。ひよが春日でいなくなれば後を追うからな」
「晃一さんは優しいですね」
皿からきなこねじりが消える。今度は隣の皿に入っていた寒天ゼリーを食べ始めた。オブラートで包んである、いわゆるおばあちゃんの家にあるお菓子。俺はこの表現はおかしいと思っている。なぜおばあちゃんの家なのか、そこはおじいちゃんの家ではないのか、と。そもそも俺の祖父の家にはそういうお菓子自体あまり置かれていないな。行った時にだいたい置いてあるのは土産物としても有名な教会のクッキーだ。あれはバターが美味しい。
お菓子を食べ続けるひよを横目に、紫苑は話を続ける。
「確かに私はひよさんと桃の木のことを知っていました。私だけではありません、貴方が今回出会った神使達、彼らも知っていたことです。言われたでしょう、私の名前を出した時みなさんに」
周りにみんながいたため雛千代にはこれと言って何も言われなかったが、茅も梅枝もモミジも、意味ありげなことを言っていたな。
「ひよさんはまだ修行中の身、本来ならばもっと力の強い者を代役とするべきなのです。しかし、私はあえてこの子を指名した。なぜだか分かりますか」
「ひよが自分の過去と向き合うため」
「なるほど」
何がなるほどなんだ。
「当たりとも外れとも言えますね」
「というと」
紫苑の瞳が深く暗くなる。見つめていると吸い込まれてしまいそうだが、目を逸らすことはできない。逸らしてはいけないような気がする。
生暖かい風が頬を撫でた。
「確かにひよさんと桃の木の件は解決へ導いていただくつもりではありました。しかし、それと同時に貴方を試したのですよ、晃一さん」
は?
「桃を見た時にひよさんに異変は起こりませんでしたか」
「俺にはそうだとは言い切れないが、堕ちそうな……そんな気がした」
寒天ゼリーを食べていたひよが動きを止める。潤んだ目で不安そうに紫苑を見上げて「ごめんなさい」と呟いた。それを優しく撫でて、紫苑は俺を見る。
「晃一さんはひよさんを桃の木と再会させ、堕ちることも防ぎました。素晴らしい働きです」
「はあ……?」
「ひよさんが人の子のあらゆる面と向き合うこと、晃一さんが翡翠の覡としてしかるべき対応をしっかりとすること、無事に終わってよかったです」
「紫苑」
カラスの神様は俺が突然呼び捨てにしたことに対して一瞬きょとんとした。ひよがむっとした顔になる。
「全部おまえの計画通りってことか。全てはおまえが仕組んだことだったんだな」
俺は立ち上がった。
二羽の鳥は黙っている。少し強く言い過ぎただろうか。しかし、俺の言っていることは間違ってはいないはずだ。ひよのことがあるから、俺の修学旅行にぶつける形で事を終わらせた。よく言えば俺は出先において紫苑がいない中見事に依頼を解決したことになるが、悪く言えば紫苑にうまく使われたことになる。怒るとか、そういうことは間違っている。相手はカラスと雖も神様だ。人間である俺の敵う相手ではない。だから、いいように動かされてもそれは何でもない当たり前のことなんだ。
それでも……。
それなら言ってくれればいいじゃないか。試すようなことせずとも、最初から言ってくれればよかったんだ。
何だか、裏切られたみたいだ。信用されていなかったのか?
違うな。神様相手に、友達みたいだなんて思っていたのかもしれない。
「晃一さん」
いつの間にか紫苑が目の前に立っていた。中庭側に立っているため、逆光気味になって余計黒く見える。夜空のような翼が大きく広げられる。
「怒ってます?」
「怒ってはいない」
「私は、晃一さんとひよさんと、お二人で事を……」
「分かってる」
「それなら」
分かってるけどさ。
「朝日様、ありがとうございました。ぼく、彼女が幸せだったということが分かってよかったです。一回り大人になれたような、そんな感じです」
ひよが桃の木に抱いていた思いは、神使から神への思い。愛とか恋とかではないのだと思う。人間とは違うのだな、と改めて思う。大切な気持ちは、誰が思っているのか、誰に対して思っているのかで異なるのだろう。
「ぼく立派な神使になりますよ! きっとそうすれば、彼女も喜んでくれるはずです。きっと……」
それでも大事なことには変わりはないのだろうな。
ひよは大粒の涙を零し、笑う。ひと目で無理をしているのが分かる笑い方だった。
「晃一さん」
「今度からは何かあるならちゃんと言ってくれ、紫苑様」
「はい、そうしますね」
コース別研修を終え、バスに揺られて羽田空港までやって来た。ひよとはここでお別れで、三重から迎えのニワトリが来るのだという。紫苑はこのまま一緒に飛行機に乗るそうだ。見えないから誰にも何も言われないが、重さとかは大丈夫なのだろうか。一柱分くらい問題ないのか……? というかカラスなんだから飛んでいけばいいのに。
「東京から北海道までなんて何日かかると思っているのです」
「いい感じの所で瞬間移動すればいいだろう。いや、瞬間移動繰り返せばどんどん北海道まで近付けるんじゃないか」
「そんなに便利な力ではありませんよ過労死させるつもりですか」
俺達のやりとりを見ていたひよが噴き出した。
「ぷふ。お二人は仲がいいですね」
「は?」
「おやおや」
「人の子とか神とか、そういうのって案外関係ないのかもしれないですよね。ぼくも朝日様大好きです!」
無邪気に笑うひよの頭を紫苑が撫でる。
「紫苑様、貴方に笑顔が戻ってよかったです」
はっとしてから、紫苑はひよの頭をぐりぐり撫で繰り回す。
「また会いましょう。紫苑様、朝日様」
小さなヒヨコの男の子に手を振って、俺達はその場を離れた。平凡とは程遠い三泊四日の修学旅行は無事終了した。
飛行機の窓からは東京の夜景が見える。一時間半かからずに函館まで着くというのだからすごい。三日前に出発した時はみんな大はしゃぎだったのに、今は疲れの色が滲んでいる。俺も少し寝ようかな。
夢を見た。
薄桃色の花を纏った大木の上に女の子が座っている。その木の下には水干姿の男の子が立っていて、女の子を見上げていた。花びらが散る御神木の下で、男の子は笑っている。女の子が微笑み返す。
美しい情景だな。もう少しこの風景を見ていたい。そう思っていた俺は栄斗と美幸の「着いたよ!」で叩き起こされることとなる。




