拾 薄桃の下
翡翠の覡の力が発動したようだ。
枯れていた木が葉を茂らせ、ざわざわと枝を揺らす。俺の背にしがみ付いていたひよが離れ、木に駆け寄る。これがかつての姿か。立派な御神木だな。
「あの子がいた頃と同じ……」
木を見上げたひよの動きが止まった。何事かと思い俺も見上げる。
葉に紛れるようにしながら、枝の上に少女が座っていた。薄桃の着物に緋の袴。天女などがよく纏っている羽衣を背後に揺らしている。楽しそうに足をぶらぶらしていた少女が視線に気が付いたのかこちらを見下ろす。大きな桃色の瞳が俺達を見て薄く笑ったような気がした。
彼女がここの主だった女神か。その体は少し透けていて、彼女からの力は感じられない。おそらく翡翠の光が見せた一時の幻なのだろう。
――夜呼々。
「ふあ!」
――ずっと傍にいてくれてありがとう。
「ぼくは君の願いを叶えられなかった」
――叶えてくれた。傍にいてくれた。
「壊してって……」
御神木が花を咲かせた。桜かと思ったが、違う。これは桃だ。
――壊せないくらい優しい子だって分かった。嬉しかった。
「君を苦しめる人の子をぼくは」
――夜呼々、貴方は神使。人の子を恨んでは駄目。ねえ、立派な神使になって……。
桃の花びらが散る。紛れ込むように女神の姿も見えなくなる。そっと幹に触れてみると、何だか奇妙な触り心地だ。花びらと葉が散り、女神が見えなくなる。後に残ったのは立ち枯れた大木だ。
「いなくなっちゃった……」
「ひよ」
女神が消えたのは人間の自分勝手な願いに影響を受けたことも原因の一つだろう。しかし、彼女を消滅へ誘った本当の原因は何だ? これじゃないのか?
「ひよ、この桃の木は」
桃の花びらが散ったように、空間そのものが崩れ始めていた。主を完全に失ったということか。
「ひよ、どうすればここから出られる」
立ち枯れた大木を呆然と見上げているひよの肩を揺する。はっとして、ひよは俺の腕を掴んだ。引っ張られたまま、鳥居を突破する。
ごろごろとどこかを転がって、外に出る。
「いてぇ」
周囲を見回すと、シカ達が興味深そうにこちらを見ていた。奈良公園へ戻ってこられたようだな。横を見ると、ひよは俺の腕を掴んだままへたり込んでいる。
「ひよ、あの女神は桃の木だな」
「……」
「あの木は彼女自身だった。違うか? あれはもう腐っていた。彼女が消えてしまったのは」
「分かってますよ。分かってます……」
彼女が消えてしまうということを信じたくなくて、ひよは悪い願いをする人間を原因だと思うようにしたのだろうか。
「分かってたけど……」
ひよの頭を撫でる。ヒヨコは鳴かなかった。ただ、声に出さずに泣いていた。
アリバイ工作のため、妹用にシカのぬいぐるみストラップを買ってからみんなの元へ戻った。煎餅をばらまいている栄斗達の傍にポニーテールの男性ガイドが立っていた。
「晃一君」
モミジは俺に話しかけつつもひよの方を見ていた。
「見付かったかい」
「ああ」
「そうか」
ひよは少し俯いたままだ。
「このこと、おまえは知っていたのか」
モミジは悲しそうな顔をして、小さく「ああ」と答えた。
「詳しいことは紫苑が教えてくれるだろう」
「分かった」
奈良公園を出発し、バスの中で昼食をとる。何の変哲もない仕出し弁当だったのでみんなの反応はあまりよくなかった。ひよはヒヨコの姿で俺のリュックのサイドポケットに収まっているが、心ここにあらずな雰囲気だ。明日もあるのに大丈夫だろうか。
京都駅から新幹線に乗り、東京へ向かう。新幹線に乗るのは初めてだった。みんな結構そうらしく、弁当を見た時とは真逆の反応だった。途中で富士山が見えた時なんか大盛り上がりだ。
東京へ着いたのは夕方で、ホテルに着くなり夕食となった。バイキング形式だったのだが、フライドポテトが瞬殺された。追加しても追加しても瞬殺されていく。ホテルの従業員が「イモが消える」「この子達北海道から来たんでしょ。普段もっといいイモ食べてるんじゃないの」などと言っていたのを俺は聞いてしまった。まあ、美味いものは美味いんだから仕方ないさ。
京都のホテルと部屋割りの変わっている面々もいるそうだが、俺は今夜も栄斗と同室だ。クラスの男子があと二人居れば変わったと思うが、教師陣から栄斗の監視を頼まれている俺はどうあがいてもこいつと別室になることはないだろう。
修学旅行四日目。
東京、というか関東でのグループ別研修。俺は最初東京タワーなどを見学するコースを選択していたのだが、時田に呼び出され、何事かと思ったら「朝日は鎌倉コースに行ってくれないか」と言い渡された。修学旅行二週間前のことである。なぜか、それは至極簡単な理由であり、栄斗が鎌倉コースを選択していたからである。勘弁してくれ、俺は何でこいつのお守りをしてやらないといけないんだ。しかし、行先を告げると紫苑に「鎌倉でいいではないですか。神社ありますよ」と言われた。俺は断じて神社好きというわけではない。が、紫苑に行けと言われたら行くしかない。
かの有名な大仏を見て、近くの食堂で昼食。鶴岡八幡宮に参拝したら、後は小町通などを自由散策だという。そこで予期せぬ事態が起きた。栄斗が他クラスの友人に引き摺られて行ってしまったのだ。「晃一ぃ~」と悲鳴を上げながら。なんてことだ、俺はぼっち見学になるのか。というか他クラスの友人達がいるのなら俺は東京タワーを見に行ってもよかったのではないか。くう、美幸と日和が羨ましい。スカイツリーの展望台上ったんだろうな……。
おすすめの店はないかと訊くと、ひよは「関東は管轄外です」とそっけなく言った。さて、俺はこのまま集合時間までずっと神社で待機になるのだろうか。一人で観光するのはコミュ障でなくともハードル高いぞ。
「晃一さん」
様々な場所で暮らしていた文字通り旅烏時代のある紫苑がいてくれればな。
「晃一さん」
しかし、今傍にいるのは傷心のヒヨコだけだ。
「晃一さん」
「五月蠅いな、って、うわっ」
烏天狗のお面をした男が立っていた。俺が驚いたのに驚いて、「わ」という実にいい声がお面の奥から聞こえてきた。
「紫苑様?」
「他に誰がいるのです?」
リュックのサイドポケットから「うわあああ」という悲鳴と共に水干姿のひよが飛び出す。
「し、紫苑様、ぼく頑張りましたよ」
駆け寄るひよを優しく撫でて、紫苑は笑い声を漏らす。
「晃一さん、お疲れ様です」
「何でここに」
「東北新幹線に乗ってきました」
「来た方法を聞いているんじゃない」
ひよを撫で繰り回したまま紫苑は首を傾げる。
「様子が気になったので」
「修学旅行に同行はできないって言っていたじゃないか」
「京都へは行けないと言ったのですよ」
なるほど。
紫苑はまだひよを撫でている。
「京都にはあの方がいらっしゃるので……」
「あの方」
「忘れてください。何でもありません」
理由はどうであれ、これはある意味助け舟か。
「紫苑様、小町通でおすすめの店とかあるか」
「ふふ。お任せ下さい。しかし、目立つので」
そう言って紫苑はお面を外す。纏う空気が人間から神のそれへと変わる。目立つと分かっているのなら何か別の顕現方法を考えればいいのではないだろうか。
こちらですよ。と言われたので後に続く。境内を出たところでひよがヒヨコの姿になってしまったので、掬ってリュックのサイドポケットに入れる。結局周りから見れば俺は一人なんだな。まあいいか。
「晃一さん、言いたいことがあるのでしょう。分かっていますよ。けれど後にしていただけますか」
それは半分こちらの台詞でもある。こんな人の多いところで見えない神様と会話なんてできればしたくないものだ。
「ああ、そこのお店は美味しいお菓子がありますよ。お土産にすれば妹さんも喜ばれるのでは」
朝日のやつ、一人であんなに楽しそうだぞ。と噂になったのは言うまでもないだろう。




