渦巻く憎悪
厳重な監禁から一転、久方ぶりの空は暗雲が立ち込めていた。生温く湿気を帯びた空気がまとわりつく。
「開放感とは程遠いな」
「黙って歩け」
禁術の準備にも手を貸していた富田二等陸佐の子飼い、黒服の監視は名を桐島と明かした。
膝まで伸びた草は何度も踏みならされて建物から外壁までに一本道ができている。目的も向かう先も知らされていないが、とりあえずの終点は見えいていた。
布引は袖を鼻に押し当てて咳き込む。
「ううっ、ヤバい、そろそろ普通に息できないよ。生ゴミを捨て忘れて一週間発酵させた後に煮込んだみたいな刺激臭がする……」
呻く布引の後に続く村上は、肩口で小さな手首を握って歌いながら歩いていた。背中合わせで宙吊りにされた丸金は、先程から一心に地面を見つめ続けている。最後尾で銃口を向けながら歩いている迷彩服の監視と顔を合わせ続けるのは、軽い拷問だった。
大量の変貌者が出てしまったあの日、殺戮者に切り付けられた左目に巻かれた包帯にはいまだに生々しく赤黒い汚れが滲んでいる。こちらは仲前と名乗った。
丸金のつむじを見下ろした仲前は長い溜息をつくと、銃口を村上の後頭部に突きつけた。
「おい蝙蝠、ガキを自分で歩かせろ」
歩きながら村上が振り返る。解放されるのかと丸金は目を輝かせたが、再び前を向いた村上に手首をつかみ直された。
「言おうかどうか迷ってたんだが仲前、お前迷彩服クソ程も似合わんな」
「それ迷った人間の台詞じゃねえからな」
「前の制服も似合ってなかったけどな」
「撃ち殺そうかなっ」
頭上で交わされた応酬で思い出す。
檻の中で殺戮者に囲まれた混乱の最中、村上は迷彩服の監視を名前で呼んでいた。
疑問を含んで肩口から村上の短い後ろ髪を見上げると、頭の動きで分かったのか、村上が話を振ってきた。
「そういえばマル、自衛隊ってのは陸と海と空で部隊が分かれてるって知ってたか?」
「いいえ。よく知りません」
「ちなみにここは陸上自衛隊基地で、先頭は航空自衛隊。よく見かける緑っぽい迷彩服は主に陸上自衛隊が採用してる制服なんだが、背後のおじさんの所属は少なくとも二年前までは海上自衛隊だった」
「おい、お前同期だろうが。誰がおじさんだ本当に撃ち殺すぞ」
「さてここでクイズです。俺はどこの所属だったでしょうか。ヒント、パイロットです。ちなみに俺が着てるのも制服だからな」
「え!? え、あの、えっと」
突然の記憶テストと目前の怒れる仲前で困惑する丸金に、前方の望月が助け舟を出す。
「それはヒントではなく引っ掛けだろう海上自衛隊。知り合いがいてもおかしくはないと思っていたが、監視とグルになって他人のフリをしていたとはな。何故隠していた」
助け舟ではなく新たな火種だった。
取調室の刑事の形相で睨みつけられても、相変わらず村上は飄然と供述する。
「味方なら伏兵として情報は伏せるべきだし、敵なら地雷は踏みたくないだろ。普通に様子見てたわな」
「蝙蝠と顔見知りなんて吹聴すんじゃねえぞ。ただでさえ他部隊の拾われ者で肩身が狭いんだ。慣れ合うつもりは微塵もない。てめえらの監視を引き受けたのも仕事が選べねえのと、死神アレルギーでこれ以上の変貌者を出さないためだ」
銃口が丸金の真横にある村上の肩甲骨を抉る様に押す。
「せっかく生き残ってた鈴原もてめえの面見て嫌気がさして、俺の片目を道連れにリタイアだとよ。てめえの記憶はいつが最後だ、糞野郎」
横から、銃身が無造作な手に向きを変えられる。布引は強引に照準を自分の胸に合わせて仲前の前に立ち塞がった。
「ヨロシクしてくれなくても構わないけれど、子供のそばに銃口を向けるのはいただけないんだ。撃って気が済むなら的になろうか?」
丸金はその危険行為に息を飲む。
「悪ふざけは止めないか!!」
どちらの監視が声を上げるよりも早く、望月の怒声が落ちる。
「冗談でも民間人や丸腰の相手に武器をチラつかせるんじゃない! 布引君も軽率な行動は慎め!」
銃口は桐島からも向けられていた。
一触即発で凍り付いた空気の中、銃身を手放した布引が笑顔を浮かべて両手を挙げると、仲前は静かに悪態をついた。
「……こっちは射殺許可出てんだぞ。平和ボケも大概にしとけ。今の、ビビりなら撃ってんぞ」
桐島が深く息を吐いて手を震わせながら銃口を下げる。振り返りもしない村上は、緊張感もなくふくらはぎをつま先で掻く。
再び先を促されて移動が再開される。
自衛隊の建物から離れた平地には、大型商業施設の駐車場に並ぶ規模で車が密集していた。周りに見える洗濯物や、車間を動く人影で、あれも生活区域なのだと分かる。
先の騒ぎなどでは懲りない村上が、横に広がる光景を眺めながら丸金に話しかけてきた。
「見事に窮屈そうな避難キャンプだな。あそこで生活するくらいなら、地下で監禁生活を送る方が随分と快適だったんじゃないか、マル」
いまだに背中で揺られながら丸金が小声で答える。
「あそこは病人を連れてる人達の隔離区域です。病気だと気持ちが暗くなるから変貌しやすいって噂のせいで騒ぎが起きて、それから差別されてるんです。他の人はちゃんと建物の中で暮らしてます」
話題のどこを掘り下げても黒い話が出てくる状態に、さすがの村上もうんざりして一段声が低くなる。
「それ、あそこのお巡りさん達には黙っとこうな」
「あっ」
前触れもなく解放された丸金は長い草の中に沈み込み、水面に顔を出す様に立ち上がる。久しぶりの地面によろけながら前方を見ると、高くそびえる壁の前に迷彩服の重装備をした男女が五人、よく見れば鉄扉の前に包帯まみれで銃を抱えて両足を投げ出した女が一人いた。座り込んだ女のズボンは筒状ではなく歪に先細り爪先が消えていた。
村上がこめかみに指を当てる。
「今日の予定は遠足かと思いきや銃殺か?」
目を剥いた望月が前に踏み出そうとするのを桐島の銃身が阻み、仲前がようやく予定を説明する。
「ここにいるのは先日の殺戮パーティの生き残りだ。忍耐力に関しちゃお墨付きの精鋭だが、お互いのためにも会話厳禁だ、分かったな黙ってろ。今日の予定は生存者捜索の定期巡回に同行してシャバの現状を把握してもらう」
荒妻が腕を組んで部隊を見渡す。
「普段着で武器もなしか。こちらの耐久性でも調べるつもりか」
「その通りだ。丁寧なチュートリアルを用意してやったんだよ。腕っ節が強かろうと活かせない奴は話にならねえからな。保護した民間人の死因で最も多いのは殺戮者にびびっての自滅。自衛隊でも初期には混乱で同士討ちが相次いだ。この間みたいにな」
「んー。実力じゃなくて私達の肝を試したいってこと?」
「目的は色々あるが、死神退治で半放し飼いにする前にリードが無くてもハウスができるかの様子見だ。貴重な武器持って離反されるぐらいなら、早めに消えてどうぞってのが一等陸佐の見解だよ」
気怠そうに巡視部隊から声がかかる。
「もういいか。出発するぞ」
返答を待たず隊員達が扉から殺戮者の闊歩する向こう側へと出て行く。
一人残った扉脇の女が嘲笑を浮かべる。
「廃墟探索楽しんできなよ。あんた達が殺した死体がそこら中にあるからさ」
「止めろ!」
桐島が恫喝する。それでも止まらず、彼女の口から明確な憎悪が垂れ流される。
「手術やれる環境じゃないから足が潰れてもそのまんま。痛みも喪失感も堪らないけど、いつまで耐えても解熱しない。お陰で任務はリーチのかかった準殺戮者扱いで壁際固定。誰のせいかなあ。そうそうお前だ」
指先が望月に向けられる。
「お前、お前、お前だよ」
桐島は大股で近づいて平手を振り上げる。
しかし平手が振り下ろされることはなかった。桐島の腕をつかんだ望月は彼女の前に膝をつく。名指しで向けられた怨みに、望月は真っ向から応えた。
「日常が壊れた実感がないまま上辺だけで謝るのは白々しいかもしれない。それでも市民を守るはずの自分が人命を脅かし傷つけているのなら己が許せない。すまないと思っている。許す必要はないし、非難するのは君の権利だ」
女は首を傾げ、表情を消し、望月を見たまま黙り込んだ。そこにどんな感情が宿っているのかは窺い知れない。
望月は立ち上がると扉に向かっていく。女の前に立つ桐島は完全に沈黙したのを確認し、何も言わず望月の後を追った。
冷えた空気が流れる。
「おい、てめえらも早く出ろ」
急かされて歩き出す一同の先頭にいる布引が歩きながら口を開く。
「私も化け物になった実感はないけれど、随分な被害を撒き散らしているみたいだし、矛なり盾なり都合よく使ってもらって構わないと思っているよ。ただちょいと確認しておきたいん点があるんだ」
開いたままの扉の枠を布引の腕が力強く封鎖した。
「まさかこれ、おチビちゃん連れて行こうとしてないよね?」
静かに存在感を消していた丸金が動揺する。爽やかな笑顔だが否定を許さない圧力が監視の仲前へと向けられていた。仲前は舌打ちをして銃身を肩に置く。
「有耶無耶になったと思ってたのに、外に出るまで説明するんじゃなかったぜ。面倒くせぇ」
「忘れるわけがない。子供を巻き込むなら私は承知しないと言ってあったはずだけどな」
「陰陽師が同行は必要だってんだから仕方ねえだろうが。専門家には従っとけ」
「こんな立場で心苦しいけれど認めるわけにはいかないね」
意見を変えそうにない布引に怯んだ丸金は、そこで隣にいる村上の存在を思い出して期待の目を向ける。チームとして必要としてくれた村上なら助け舟を出してくれるかもしれない。やりとりを眺めていた村上は視線を感じて丸金に視線を向けてくれた。
そして、棒読みで裏切った。
「おおっと、どうするご主人様。手強そうなとうせんぼが現れたな」
絶句した。
村上は味方どころか丸金が危機にどう対応するのか高みの見物をするつもりでいた。
成り行きに任せても仲前だけでは劣勢にしか見えず、意を決して丸金も参戦に向かう。
「あの、あの、術者は使鬼のそばを離れては、い、い、いけないもの、なので」
聞き流さずに布引は丸金に向かい合う。
「大変なんだね。それは何故かな?」
「危ないことをお願いした、責任があるので」
布引は優しく断言した。
「良い子だね。でも必要ないな。死神とかいう化け物が本当に私達だとすれば、むしろケリをつける機会を与えてくれたおチビちゃんには感謝すべきなんだ。だから危ないことは大人に任せて部屋に帰らせてもらいなさい」
「私は、そんな価値なんて私には……」
布引は丸金を安全な場所に帰そうと心を砕き、かたや丸金は布引を針のむしろに投げ入れながら挫折をすれば存在を消すためにいる。後ろめたい構図が口答えを尻すぼみにさせる。
まともに目も見れなくなり、うつむいて、背を丸くする。
押し潰されそうな罪悪感。
それを突然の浮遊感が遮断した。抱えられたと気付いた時には流れるように外にいた。扉と腕を潜り抜けた荒妻が丸金を抱えて振り返る。
「マルが行くと言ってるんだ。あんたがどうこう命令できる関係じゃないだろう」
「どこの子だろうと危険地帯に連れて行こうってんなら私は止めるさ」
すぐに距離を詰めた布引と荒妻の火花が丸金の頭上で派手に散る。
口を挟めぬ口論に挟まれて半泣きとなる丸金の横を、素知らぬ顔で村上が過ぎり、眩しくもないのにわざとらしく掌を額に当てて外を見渡した。
「望月ちゃんがやけに静かだと思ってたら、こりゃ壮観だな。臭気の元はこれか」
立ち尽くす望月の視線の先にあるのはうず高く積まれた死骸の山だった。腐乱した肉の中を野犬の群れが鼻先を差し込み牙を突き立て食い荒らしている。
望月がぎこちなく後ろに下がり、強張った声を絞り出した。
「……見るんじゃない」
先行していた自衛官は普段の景色とばかりに死骸ではなく吠える犬を警戒する。
冷たく節くれた固い掌が丸金の目元を覆った。
手を伸ばすと布越しに厚く硬い胸板がある。乱れの無い鼓動と上下する呼吸の動きが、生きている感触として伝わった。
残酷な世界を隠す指先に触れる。
「大丈夫です。荒妻さん、私、もう死体には慣れてますので」
手が離れてまず目に入ったのは悲し気な布引で、斜め上を見上げると感情の読めない荒妻の目を間近から覗き込む形になる。
口論の意識がそれた間だった。村上がポケットに手を突っ込んだまま扉を足で閉めた。
「はーい、扉が閉まりまーす」
「あ!?」
布引が声を上げるタイミングで内鍵を閉める音が鳴る。隙を突かれて退路を断たれた布引が表情を変える。
仲前は顎で死骸を指し示す。
「町の景観なら心配ない。ここは感染症が蔓延しないよう定期的に死体集めてる焼却場だ。町の方が逆に片付いてる。さっさと行くぞ」
「いや、だからその前にこのおチビちゃんをだね」
布引が手を伸ばして実力行使にでると、荒妻は丸金を真上に高々と持ち上げる。背中から腹部にかけた二つの手だけに支えられて空を見上げる丸金は口一文字で四肢を曲げて丸まった。
まるでヌイグルミを取り合うような攻防が始まる。
いつまでも静かな望月の顔をからかうように村上が覗き込んだ。
「壁の中での意気込みはどこへやらだな。眩暈と吐き気でお困りか?」
難しい顔で外の光景を見つめる望月は拳を強く握りこむ。
「大丈夫だ。あの遺体の数を痛ましいと思う気持ちに反して現実感が追いつかない。お化け屋敷の大道具にすら見えてくる。これが本当に現実なのか」
村上は望月の背中を叩き、自らも伸びをする。
「だからさ、あんまり気負わず行こうぜ。なんせこの世は病んだ拍子に化け物になるかもしれない鬼畜仕様だ。堅物には難しいかもしれんが、さっきみたいに嫌悪感をまともに受け止めてたんじゃ身が持たないぜ」
死神により多くの犠牲が出たからこそ、選ばれて呼び出された。この死骸の何割かは自分だった化け物が殺したのかもしれない。
村上は後ろを振り返る。
「さて、俺はそろそろご主人様の救出でもしにいってやりますか」
ボールの如く体重を無視して縦横無尽に振り回される少女が存外我慢強く悲鳴を耐えるものだから、子供争い大岡裁きの母親が決まらないようだ。
布引は引き下がる様子を見せないが、そもそも丸金や彼女に選択権はない。扉にはとっくに鍵がかけられ閉め出されており、どう決着をつけようが進むしかない。
この無駄な争いに終止符を打つべく、村上は場違いに明るく柏手を打って腕を広げて参戦する。絶望に染め上げようとする憎悪すら眩ませるように。
「荒妻ちゃん、へい、パース」
まさかの掛け声を合図に丸金は空中を飛んで、ようやく少女は悲鳴を上げた。
望月に手を引かれる丸金はかける言葉に迷いながら、拳骨を受けた三人を何度も振り返りながら滅びた町に足を踏み入れる。