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茉莉花

 黒い糸状が肢体に巻き付いて肉体を歪めていく。身に着けている物が溶けて形を変えて別物へと変わろうとしていた。

「あんたの優先順位は悪人の命じゃないだろう? いつも通り助けてやればいい。救うべき相手を」

 その捨て台詞を最後に、もう言葉は必要ないとばかりに顎の付け根から生えた糸が荒妻の眼下に何度も潜り込んでは口を強く縫い付けていく。変容していく途中でも最後にはどんな姿になってしまうのか誰もが想像できただろう。顔の下半分を覆面で隠し、カマイタチの如く縦横無尽に命を蹂躙する死神とまったく同じ存在なのだから。


 変貌を終えるのも待たずに荒妻は開いた穴に飛び込むと、壁を蹴ってあっという間に上へと姿を消してしまった。


「きあああああああああああああ!!」

 人の声域からはずれた甲高い異音が鼓膜を破らん勢いで攻撃する。

 少女だったものは、地面まで伸びた指を更に細かく裂いて鞭の如く振り回しながら周りを遠ざけようと暴れ出した。それでも布引は原型を失っていく茉莉を強く抱き込んで「変わらないで!!」と引き留める。指の裂け目は手に収まらず手首から腕にまで達し、左目が肉の中に陥没して破裂したかと思えば残った片目だけが異様に肥大する。深く肉を寄せて中心に向かって刻まれる皺が醜く怒りを凝縮させた表情を作り上げていく。

 枯れ枝の様にやせ細った可哀想な二本の足は絡み捻じれて一本の歪な足を作りあげた。

「一本ダタラ……」

 そこにはもう愛らしい少女の面影などない。


 関節のない指が布引の皮膚を裂いて赤い血を撒き散らし、荒れ狂うその一本が壊れかけた眼鏡を弾き飛ばし、高い位置から落ちた眼鏡は為すすべもなく衝撃でひしゃげて割れる。

 地上から井戸に縄梯子が投げ込まれた。

「今のカマイタチはなんだ!? こっちも面倒だってのに、状況報告!!」

 無事に擦れ違ったらしく力強い仲前の怒声が響いてくる。本物のカマイタチとは違い、まだ思考を残している荒妻の狙いは仇討ちのみ。それも変貌途中だからに過ぎず、殺意にまみれた青年はすぐに言葉も思考も殺戮者へと染まってしまうだろう。カマイタチと同じ道筋を辿って。


 村上が銃をガチャリと鳴らして丸金の首根っこをつかむ。

 この酷い状況で望月は感情を押し殺した平坦な声を発する。

「布引君、もういいから茉莉を離してやってくれ。自分がここに残る。君は地上へ」

「茉莉を残しては行かない!!」

 反対に布引は感情的に話の途中で声を被せていく。子供の前では不安にさせる顔を常に隠している彼女には珍しく怒りも焦りも曝け出し、守る様に茉莉を抱え込む。

 細く息を吐き、あくまで冷静に望月は説得する。

「あの荒妻君をまともに相手取ることができるのは布引君くらいだろう。全員がここで茉莉にかかりきりになれば、仲前君はもちろんここの村人は虐殺されてしまう。彼が復讐を終えてしまえば何処に姿を消し被害が広がるとも知れない」

 それは布引を説得できる理由になり得ない。


 即座に選んだのは村上だ。丸金を肩に担いで縄梯子をつかむ。

「あ」

 戸惑う丸金と布引の視線が合う。その感情は読めなかった。もし地上で何かあれば、いつもの様に助けを呼べば、彼女はどちらに走るのだろう。聖の言葉が頭を過る。ここで死神と化す危険があるのは荒妻だけではない。

 村上が素早く縄梯子を登ってしまうから地下の様子はすぐに見えなくなってしまった。暗闇のうねる井戸の底と弱く漏れる灯りだけの視界に、追いかけてくる姿も声も聞こえない。


「よい、こら、せっと」

 井戸の縁に手をかけた村上と同時に丸金は別人の手によって抱えられ地上に降ろされる。村上が井戸から抜けると、仲前は続くはずの誰かの姿を探して井戸を覗いて厳しい視線を戻した。

「他の連中は?」

「内ゲバ発生だ。誘拐された少女は望月ちゃんの娘で、拷問を受けた末にトラウマスイッチ押されて変貌。パパは冷静に対処しようとしているみたいには見えたわけだが」

「ここで死神倍増イベントかよ」

「少なくともカマイタチは確定しちまったな。ここの村人はルールを破ったやっこさんの妹を見せしめに惨殺、変貌前の殺人事件について調べ上げた荒妻ちゃんは念願の仇討ちをお望みだそうで」

「全員始末して姿を消されるまでのタイムトライアルってわけか。やっぱり来るんじゃなかったぜ」

「絶望しそうか?」

「はっ」

 仲前は鼻で笑ってタバコを咥える。


 立ち尽くす丸金に仲前は荒妻を消せと指示しなかった。地下鉄スラムでの会話が頭を過る。次は頼まないと覚悟を決めている。

 もう荒妻は戻せない。解っていても丸金に荒妻を殺す覚悟がない。唯一無傷で簡単にあの哀れな殺し屋をかき消してしまえるのが顕現した陰陽師だとしても、この自衛官達はそれを強制しない方向で話し合っている。

 いつもみたいに唇を噛む。


 できないから大人に任せる。


 本当にそれで良いのか?


 大人に任せれば良い。


 それで何人も失ったから一緒に戦う決意をしたんじゃないのか?


 余計なことをして頑張った結果は失敗しかしていない。


「村人はこっちに殺意がある。敵の敵も敵の三つ巴だ」

「下で死神が増えた場合は、さて、どうしたもんかねえ」

「超人だろうが逃げようのない地下ならハメ殺しを試せる良い機会だ。死神退治の前哨戦として褒賞が貰えるかもなあ。なんせ今回守れば良いのは手元にいるチビ一匹だ。上手くやれるんだろ、相棒」

 仲前が村上に向かって拳を突き出せば、軽く拳が打ち合わされる。


 この男達は違えていてもすぐに気持ちを切り替えて役目を果たす覚悟を持っている。丸金は彼らが変貌した時の保険であるべきなのに役目を放棄した。役に立ちたいと言いながら本当に求められている事は拒絶する。これでは蝙蝠の呼ぶ通りの愛玩動物なのだろう。

 目を瞑れば蝙蝠のいる空が見える。あちらは眠っているはずだし目札では音まで聞こえるはずがないのに、丸金にはハッキリと嘲笑う声が届く。


 ほらな、答えを知っても実行できない。しょせんお姫様の覚悟はその程度。




 きいきい、と会話もできなくなった小柄な殺戮者は強力な羽交い締めから抜け出せない。空気を掻いて届かない手を伸ばす先は真っ直ぐ望月だけに向いていた。

 変わり果てた少女を静かに見つめながら望月は布引の説得を続ける。

「菅原君は荒妻君の変貌で酷く動揺しているはずだ。勾月村の住人も容赦なく敵対している。いつもとは違う人間同士の殺し合いになってしまうだろう。人が傷つくのを怖がる優しくて頑固な子だ。支えてやらねば今度こそ折れてしまうかもしれない。君が優先すべきは茉莉じゃないはずだ。すぐにでも菅原君を追いかけてやってくれ」


「ふざけるな!!」


 布引の目から涙が零れる。

「茉莉は今までずっと色んな大人に置き去りにされてきた」

 どうしようもなかったとしても最初は望月に捨てられた。幼児ならろくに説明もされなかっただろう。恐怖が残ったはずだ。良い子にしていなければまた捨てられる。顔色をうかがって愛情に縋った末に、それでも子供を私物化していた大人が保身に走ってまた見捨てた。

 それが全てか真実かなど関係ない。

 茉莉の感じた絶望を知るのは、もはや布引ただ一人なのだ。

「寂しくて、怖くて、それでも歯を食いしばって、こんなに酷い世界で子供がワンコだけ連れて、また悪い大人に食い物にされて、最期にこんな酷い場所に置いていくなんてあり得ない。地上に連れて帰ってあげる。茉莉にふさわしい、明るくて、安全な場所に」 

 小さな体を逃がすまいと抱えながら布引が立ち上がる。そんな布引の声は茉莉に届いていない。耳も陥没して皮膚の下に埋まってしまったから聴覚が機能しているのかも怪しい。


 望月は地上に向かおうとする布引の前に立ちはだかった。

「自分は間違いだらけの人生を歩んできた」

 正解を選びたいと泣き叫ぶ丸金を見て、まるで自分のようだと望月は思った。どうすれば妻だった人は家族でいてくれたのか、娘を失わずに済んだのか、答えはついぞ出ないままだ。

「タイタンとして多くの人命を奪い、罪滅ぼしが何の役に立つこともなく、茉莉を前にすれば適切な言葉も出てこない。情けないな」

 新しい家庭を築くなんて事は考えられなくて仕事だけに打ち込んだ。何もしていないと胸の空洞に毒が溜まる感覚がして、泥の様に眠る毎日を望んで生きてきた。


 ここで茉莉に会うなんて今更だ。

 なんの関係もない娘だから早く忘れてしまえと、周りが、法律が、全てが望月に言い聞かせてきたのに。

「血の繋がりを盾に茉莉を奪っておいて本当に捨ててしまったというのか? 命よりも大切だと、家族を守っていくんだと言っていたじゃないか」

 ズタズタにされた望月の空白の七年はなんだったのか。

「ああ、でも……」

 世界中が敵に回っても茉莉だけは望月の味方だったのに、いけないことだと突っぱねて娘を裏切ったのは望月だった。




 チャイムに応じて玄関扉を開けると、オレンジのランドセルを背負って息を切らせた少女が立っていた。頬を紅潮させて母似のフワフワな癖毛を左右の肩口に分けてリボンで結んでいる。記憶にあるより成長した夢にまで見た少女だ。


「パパ、ただいま!!」

 休みの日に髭を剃るのも面倒で無精髭のまま居間で延々と天井を眺めていた。

「あたしね、かえってきたよ。パパ、パパ、さみしかったでしょ? きゅうにいなくなってごめんなさい。あのね、茉莉ね、茉莉はね、きょうからパパのところにかえってくることにしたの。だって、茉莉はパパの子だもん」

 服をつかんで少女は必死に呼びかけてきた。

「お、おこってるの? なんでいなくなったかせつめいするから聞いてよ。茉莉小さいときはリコンのいみをしらなかったんだよ! でもね、あのね、茉莉わるくないと思うけどちゃんとあやまるから、いっぱいあやまるから、お家、入れてよ」


 不安そうにうつむいた少女は返ってこない許しを押しやり、意を決して勝手に家の中に飛び込んだ。

「茉莉、もう小学校いってるんだよ。テストいっぱい百点とったから後で見せてあげる! ようちえんのときよりかしこくなったし、いいこになったよ。さかなも食べられるようになったよ。小さい子みたいにおねしょしないし、なきむしじゃないし、ともだちとケンカとかもしなくなったからね」

 靴を脱いで家の中から懸命に訴えてくる。


 頭がおかしくなって白昼夢を見ているのかと思った。喉にかぎ針でも飲み込んだように声がつかえて返事ができない。


「おかえりって、言ってよぉ」


 少女が振り絞った勇気を気の迷いだと決めつけて法律という名前の残酷な仕打ちで追い返した。警察と両親が連れて行こうとする手をかいくぐって縋りついてきた少女に、膝をついて、小さな両肩に手を置いて、望月は少女に絶縁を突き付けた。

「パパはもう茉莉のパパじゃないんだ」

 手放したくなかったくせに。




 助けを求める小さな手が何度も夢に現れる。大人の理屈では最善の行動だろう。惑わせてはいけない。変に期待を持たせてはいけない。家庭を壊してはいけない。正しいはずなのに罪悪感は何度だって顔を出す。


 誘拐犯でもよかったじゃないか。

 茉莉が勝手にした事だと罪を子供に押し付けるべきではなかった。話を複雑にしてでも、疲弊していた精神を叩き起こして戦うべきだった。

 会う機会を、話す機会を、絆を、茉莉の為に残しておくべきだった。主張できるだけの権利はあったのだから。

 普通の幸せを望んだのは家族より性欲を優先した不定の妻と、人妻と知りながらも略奪を実行した間男だ。茉莉じゃなかった。茉莉は一度として普通の家庭なんて望んでいない。

 望月が血の繋がらない娘に与えたかったのは正解ではなく、もっと柔らかく暖かな未来だったはずなのに。


 ようやく前に踏み出して茉莉の変貌した指先に触れる。熱のない革みたいな感触が喪失感を加速させた。

「ぎ、ぎぎいいいい、ぎゅいい」

 皮膚を引っ搔き、巻き付いて、茉莉がなんとか傷つけようと試みているのが分かる。


 もう一度正面から頼む。

「茉莉と二人にしてくれないか」

 首を振って抵抗する布引に、泣きそうな優しい顔で望月は交渉を続ける。

「一度は君に押し付けてしまおうかと考えた自分が恥ずかしい。やり直したいんだ。世界が平和なままなら他人でいるしかなかったこの子に、娘に、今度こそ伝えられなかった本音を打ち明けたい。茉莉を可哀想な子で終わらせたくない。頼む」


 唇を震わせて布引は望月の目を見た。

 彼が誠実なのはこれまでの付き合いで充分解っている。だが茉莉に関しては冷静でいられなかった。話す内容によっては聞かせたくない。傷つき過ぎて脆くなった心に否定はおろか鼓舞や理屈は受け止めきれないだろう。根っからの善人が導き出した正論が、別人種にとって理想的に刺さるかは別の話だ。


「ぎ、ぎぎ、ぎ、いいいい」


 それでも布引では茉莉を救えない。望む言葉を知っていても、それを誰に言ってもらいたいかは替えられない。


 布引の腕が緩められると茉莉はすかさず跳び上がり、体を捻って天井へと着地する。重力が働くよりも早く一つ目が望月をとらえて真っ直ぐに降ってきた。

 それを受け止めようとした望月の腕を足がけに、頭から覆い被さるように茉莉が取り憑く。茉莉は頭から太い首に指を巻き付けると、噛みつく為に進化した牙を剥いて無防備な頸動脈へと喰らい付いた。

 元より頑丈過ぎる男だ。急所をとらえられてなお小さな牙では硬い皮膚を突き破るには至らない。

 それが今までまともに相手をされず一人相撲を続けてきた様を見るようで胸が苦しい。


 させたいようにさせながら、人の温もりを感じない体に身を寄せて細い胴に腕を回す。

 それからまだ立ち尽くしている布引に視線を向けた。されるがまま受け入れていた布引のは顔至るまでカッターで切り刻まれた様に血を滲ませている。


「ありがとう。もうこの子を一人にはしない。地上では荒妻君だけではなく隠れている村人にも気をつけてくれ。仲前君の攪乱で鎮火作業に人手を割きはしたが、だからこそ何処から襲ってくるか分からない。上手く、助けてやってくれ」


 仄暗い目で茉莉を見守る布引は冷たく返答する。

「どんな時でもいろんな事を考えてしまうのが羽秋さんの良いところで、悪いところだ」

 軽く床を蹴って布引は井戸の穴に向かって走り出す。

「待っててね、茉莉……」

 それだけを言い残すと布引は暗闇に身を躍らせた。


 痛いところを指摘された望月は神妙に久方ぶりに触れる娘へと向き直る。これで雑念は消えた。地下に残っているのは望月と茉莉だけになった。

「わん」

 正確には化犬が大人しく見守っている。変わり果てた茉莉と娘を抱く望月の周りをコロコロと歩いて、性懲りも無くにじり寄る蜘蛛や蛇を追払いながら。

 地上からは地鳴りや爆発音に銃声と、穏やかとはいえない空気が伝わってくる。いつもなら望月はそんな前線に立っていた。きっと丸金は心と戦う事になる。事と次第によっては辛い選択を迫られるだろう。どんな結末を迎えようと何を選ぼうと全員の心に傷が残る。


 丸金はよく正解を大人に問いかけるが、少女の求める答えなんてものは大人にだって解らない。誰にでもなんにでも通じる王道なんてものはない。いくつもの成功と失敗の経験をなぞりながら新しい解決策を模索しているだけで、それが正解になるとも限らなくて、だから多くの失敗を積み重ねてきた大人は肝心な時には何も知らない子供より臆病になる。


 望月は逃げて、後悔して、うずくまって、忘れる事で解決した気になっていた大人だ。

 一緒に過ごした期間はたった五年間。物心がついてからの茉莉にとってはもっと短く朧げな月日だろう。何も共有せずに生きた年月の方が長過ぎて、お互いが何に感動して、何が大事で、何を恐れているのかも知らない。

 一目でよく解ったものだ。

 懸命に殺そうと躍起になって首元の一点狙いを仕掛ける茉莉を胸元まで引きずり下ろす。まともな肩も腰もない形を抱き締めると、何も知らない少女なのに愛おしく感じる。


「茉莉」


 一度は死ぬまで愛する事を誓った女性が離れていった時、身を引き裂かれるように辛かった。それでも彼女が幸せになるのならといつの間にか諦めはついていた。

 それなのに、どうしても茉莉だけは諦めきれなかった。

 執着を消しきれなかった。

 給料の大半を会うことができない少女の為に振り込み続けた。


「茉莉」


 失敗ばかりの人生だった。

 参考になるような成功の引き出しなんてない。

 全て失敗してきた。

 だから子供が苦手になった。

 失敗ばかりが脳裏に焼き付いてる。

 子供を傷つけてしまいそうで怖かった。


「茉莉」


 望月はまだ茉莉と再会してから何も伝えていない。

 本当は手放したくなかった事、今でも愛している事、結局は一日だって脳裏を過らなかった日はなかった事。

 もう言葉が通じるとは思えない奇声を発する異形の頭を撫で、想いを名前に込めて呼びかける。


 仕事のせいで間に合わなかった我が子の誕生に他人より遅く駆けつけた。よれたスーツでみっともない姿だった。ガラス越しに小さな籠で眠る赤ん坊が並んでいる。

 迷惑を顧みず思わず大声で探し回ってしまい、看護師に見咎められてしまう。眠る他所の赤ん坊達を脅かしてしまった事に委縮していると、ガラスの中にいた看護師が気を利かせて奥に消えて一つの命を連れて戻ってきた。

 あの時にはまだ名前がなかった。初めになんと声を掛けたのか思い出せない。


 話したい事は溢れるほどある気がするのに浮かんでくるのは思い出ばかりだ。そのほとんどが少女は覚えていないような他愛ないものなのに、共有できない思い出を何度も繰り返し頭の中で刷り続けている。


 一人遅れて夕食をとるテーブルに両手をついて跳びはねながら食べ終わるのを待つ幼児が、子供の舌には絶対美味しくないだろう塩辛を強請って、仕方なく舐める程度の欠片を小さな口に乗せてやれば案の定顔をしわくちゃにして口直しにジュースを要求する。ビールとリンゴのパックジュースで乾杯するところまでがセットらしく、鳴りもしないのに口で「かちーん」と茉莉が言う。


 嘘で塗り固めてきた本音をいざ伝えようとしても何処か言い訳くさく許しを得ようとしているだけのようで、茉莉を掬い上げられる言葉の形になる気がしない。

 望月にとって特別な名前を呼びかけるばかりだ。


「茉莉」


 その膠着した望月の暗い視界の中に毛玉が悠然と転がりながら現れる。望月の正面まで来るといつものように「わん」と鳴く。娘を失った後、殉職した仲間から引き取った名前も分からない老犬だった。

「君は一緒に旅をしていた犬の名前を知っていたんだろうか?」

 ようやく言葉に出せたのは許しを請うものでも胸中を吐露するものでもなく、誰にも話せなかった秘密の様な思い出話。


「こいつの名前はジャスミンというんだ。色々と候補はあったんだが、譲り受けた同僚との会話で幸せな生涯を願って名付けたと言っていたのを思い出したら一つしか考えられなくなってしまってな。理由をつけて名前を呼びたかっただけかもしれない」


 抱き締める体をかいくぐった指が太い首に巻き付く。どうあっても縊り殺そうとする執着が見える。そんな中でも賢い化犬は親子の様子を眺めるだけで静かに待っていた。自分の話題に耳を傾けていたのかもしれない。


「ジャスミンの別名は茉莉花」


 首を締め付ける力が抜けて暴れる茉莉の動きが止まる。


「お前の名前はパパが決めたんだ。血の繋がりなんて関係ない。お前が産まれた時に全て捧げると誓ったはずだったのに、寂しい想いをさせるばかりの不甲斐ない男ですまない。許してくれなくても良い。それでも謝り続けよう。今度こそパパは世界中を敵に回しても茉莉を手放さない」


 一つしか残っていない目が望月の視線と絡み合う。


「愛してるよ、茉莉」


 すっかり鎮まり大人しくなった少女だったものが、不意に下水の臭気すらかき消す甘く優しい匂いを膨らませる。醜く歪んでいた頭が左回りに更に細く捻じれたかと思うと、軽く膨れて頭上から裂けるように大輪の白い花弁へと変わっていく。暗闇で光る粒子を散らし、光に透けた花びらは淡い桜色にも染まる。

 体は更に薄く細く蔦を絡み合せ人の形を忘れていく。サナギの中でドロドロに溶けていたものが地獄を超えて蝶となるかのように。


 二度目の変貌は儚くも美しく、それは望月が良く知る茉莉花という可憐な花そのものになる。


 人体とは違う動きで強力な拘束から抜け出した茉莉花は腕の外で静かにたたずむ。荒々しく燃えていた殺意が凪いで、どこかうつむくように花が傾く。

 もう片目どころか発声する口も耳も見当たらない植物を基にした形をとっていた。感情を伝えられる人の要素を全て失ったともいえるだろう。


 静かな邂逅はそこまでだった。その体で、確かな意思で、茉莉は全身を捻りバネにしながら蔓を長く伸ばし地上に続く穴へ飛び込んだ。

 振り返るより前に素早く姿を消した娘を、望月の肩を蹴って同じ速度で追いかけたのは化犬だった。


「わん!!」


 触手でもって簡単に縦穴を走っていく異形を追いかけて見上げた丸い空には夜だというのに煙と炎で歪に明るい。

 井戸の縁にかかった一枚の白い花びらが暗闇の中に落ちてくる。

 取り零す事無く大事に望月は両手でそれを受け止めた。目を瞑って顔の前に持っていけば微かに残るのは優しい茉莉花の香りだけ。

 蜘蛛の糸のような頼りなくも芳しい極楽へのよるべは溶けて指先で揮発していった。

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