持ち物に刻む名は
百鬼夜行が跋扈する世界で、民家に住む人間が何人残っているだろう。
久方ぶりの客人として案内されたのは補修で継ぎ接ぎだらけになった家。玄関先から壊れて登れない階段、花の飾られていない花瓶は粗雑に端へ、歩きざまにサッシを指で拭った村上が掃除だけは行き届いているのを確認する。
「村長の家が一番保存が良いもんでしまくっと避難場所に使ってるんですわ。そやかて屋根やら壁やら空いとっても自分の家が安心しますもんで、普段は使うとらんのやけど」
先頭の布引が人好きのする笑顔で応対する。
「苦労なさっているところをお世話になり恐縮です。助けていただいたお礼にできる事があれば何でもおっしゃってくださいね。ただ私共は厳つい強面ばかりでしょう。他の方を怯えさせてやいないかと心配なのですが、この村にはお二方だけなのですか?」
「いんやあ、狩りに出ている男を加えて三人、寂しいもんです。元から過疎ではありますが今生で村が滅びるのを見ることになろうとは。そんなもんで皆さん良ければ好きなだけ、なんなら定住しはっても構いませんよ」
温厚そうな老人が眉尻を吊り上げる。
「片岡、冗談でもこんな危険な村に引き留めるもんやないわ」
「ほっこりしとる客人の前でがいっと脅かさんでも」
「本気にしたらどうするんや。関係ない娘さんがアレに攫われでもしたら、親御さん方にどう詫びるつもりなんや」
仲前の片眉が吊り上がる。
「攫われるとは、随分と物騒な単語が出ましたねぇ」
「ほら爺さんがいらんこと言うからやわ。攫うと言うても、ほらぁ、何処にでもある昔ながらの怪談話みたいな。勾月村には冬になると、子供をちょっと、取って食う妖怪みたいなのが現れるちゅうか」
布引は口元に拳を当て顔を伏せながら、らしからぬ怯えた演技で情報へ食らいつく。
「妖怪だなんて。もしやこの村には居ついている殺戮者がいるのですか?」
「あぁ、殺戮者とかいう最近出てきた化け物ではないんですよ。村では十年前からアレに悩まされていて、なんちゅうか、アレは本当に妖怪と言うしか……」
廊下の最奥にある十二畳に一行は招かれる。外と通じる格子窓が手前に一つ、屋内はかなり薄暗い。立派な仏壇には骨壺一つ、手前では細く白い煙を上げる線香が独特な香りを放っている。
「最初に紹介する村の話題としては些か躊躇いますが、こんな世の中ですから隠し事は無い方が良いでしょう。お茶を用意してきます。お嬢さんには約束通り菓子もね」
片岡と呼ばれた男はそう言い残すとばつが悪そうに台所へと姿を消していった。
残った老人は今時珍しい行灯にマッチを擦って火を灯す。足が悪いのか摺り足で隅に積み上げられた座布団まで行くと、手慣れた調子で場を作って手前を陣取り客人へは奥を勧める。
「怪我人もいらっしゃるようやから後ですぐ布団も用意しますが、まずは重そうな荷物を下ろして一服しましょうや」
各自が少し離れた配置だが移動するのも警戒心の角が立つ。言われるままに座したところで老人は当然の疑問を呈した。
「ところでそちらが抱えられているのはペット、でよろしいんやろうか。なんせ田舎やから外来物には詳しくなくて。なんの動物ですか?」
望月は荷物と一緒に抱えていた毛玉の存在を思い出して慌てふためく。
「あっ、と、こいつは断りもなく連れ込んでしまって」
目を離して外に繋いでおくわけにもいかないが変貌した未確認生物についての経緯は複雑で説明し難い。どう言い繕うか言い淀んだ望月に代わって布引は堂々とでたらめを放った。
「この子は犬のマルチーズです」
器用に村人から見えない角度で望月と仲前の口元が一瞬引き攣ったのを丸金は垣間見た。丸金はマルチーズを知らなかった。
「ほう、これがマルチーズ」
「長い間カットをしていないので不格好になってしまって。それこそ妖怪みたいでしょう?」
「いやぁ、これはこれで味があって愛らしい。名はなんと呼べば?」
「荒妻晋作。是非とも愛称のあっつんでお呼びください」
丸金は呼吸に失敗して盛大にむせこんだ。
片岡がお茶を用意するのに随分と時間をかけている間、布引はよくもこれだけのでたらめを並びたてられるものだと感心する苦労話を繰り広げていた。
「すぐそこの施設に足を踏み入れた途端に襲われたんです。命からがら山に足を踏み入れた先で村を見つけるなんて、捨てる神あれば拾う神ありと申しますか」
「恐ろしい目に遭われたようだ。ご無事で良かった。遭難もせず日ごろの行いが良かったのでしょうな。しかし、そんな旅路では神経が磨り減ったことでしょう。こんなボロ屋でよければゆっくり休んでいかれると良い」
何の変哲もない雑談のようだが老人は判り易く奇妙だった。近隣で虎に襲われたと聞いても同情するばかりで動揺しない。一般的とはいえない小銃を見咎めて警戒するそぶりも見せない。異常事態に対する平常対応が狂気の入口を覗かせる。
それよりも丸金が気になったのは布引の口上手だ。
「周辺には他に民家や生存者はいないのでしょうか」
「麓まで行かんことには奥地ですから」
「では、この辺りでは殺戮者の被害に遭われたりはなかったのですね」
「それなら積極的に疎開を勧めるとこやけど、残念な話、山深い田舎も安全な地とはいかんようです。外から来る化け物がおらんでも内輪で変貌するもんで」
「そんな! お辛い話を、させてしまって……」
「もう世界中の誰にとっても他人事ではないでしょう。痛みを共有して慰め合えるのは尊い事です。他人に興味を持ってくださる方は今生ではもう珍しいでしょうからなあ」
「気の利いた事は言えないかもしれませんが、私で良ければいくらでも話を聞かせてください」
彼女は情念を込めた演技で老人の懐に潜り込んでいく。ともすれば虎の尾を踏むように、しかし最初から虎など恐れる女ではない。
こういった役目は村上か望月の役目だと思っていた丸金は意外に思った。だが人心掌握に関して本領を発揮しているのはいつだって布引であるのを思い出す。そもそも顕現された布引の初動は基地での関係作りだった。接触した自衛官達が死神の写し身に対して憎悪を隠さないにも関わらず、布引にだけは見て取れるくらい呆れや困惑が上回っていたのだ。布引は恐ろしいし死神ではなく無防備に人の温もりを求めている女だと。それは懐柔されたとも言える結果。
視野が変われば見方も変わる。
布引は無邪気に四面楚歌を歩き回っていたわけではなかった。
「お待たせしました。ちょいと棚を引っくり返しとったもんで」
ようやく片岡が木製の盆に人数分の湯呑を乗せて現れると、華麗に布引が男のそばに駆けつける。
「すみません! 大人数だから大変でしたよね。お手伝いさせてください」
「いやいやいやいや、お茶如きですから。お客さんは座っててください! 気が利かん事になんぞは全部賞味期限が切れとって。これやったら腹は壊さんと思うんやけど少しあんないかもしれません」
「あぁ、お気遣い頂きありがとうございます。後で味見をしてから子供に……あら? この湯呑、信楽焼の狸さんかしら。可愛らしい物を用意してくださって」
湯気立つ湯呑と共に持ち込まれた上品な黒い漆塗りの菓子鉢はそれとなく丸金から離された。入っているのは黒い麩菓子で腐食の成否はつけづらい。
「あり、がとう、ございます……」
一応は親切である。丸金がぎこちなく頭を下げると男は優しく頷いて空いた座布団へ収まった。
そして初めて会った時と同じく用意されたものに誰より早く口をつけるのも布引だ。「暖かい。涙が出そう」と目元を拭えば、村人から返されるのは優しい笑顔。
丸金も目の前に配られた湯呑を見下ろす。滑稽な狸の顔がついた湯呑には茶柱が立っていた。山登りの直後だ。喉は乾く。自然な流れで自分も喉を潤そうと丸金は手を伸ばした。
「菅原君」
突然の名指しに硬直する。行動を咎めた望月は首を振って嘘を綴る。
「猫舌の君にはいれたては熱いから十分冷めてから飲みなさい。また火傷してしまうだろう」
許可しないものは飲むな。
意図が通じた丸金は迂闊さを恥じて膝の上に拳を戻す。他の男達も湯呑は手にしたが、持っただけだ。村人の視線を独り占めにする様に布引は大袈裟にもてなしを褒め称える。
実際には誰一人飲んでいないことを気づかせない為に。
腹の探り合いに参加しているのだと自覚すると丸金の肩は急激に重くなる。何もかもが怪しく見えて何処に視線を向けていればいいのか分からない。
「さて、そろそろ聞かせていただけますか? 勾月村の恐ろしい妖怪を紹介してくださるという話です。娘を攫うと聞いては落ち着いてもいられず、単なる怪談ではなく、実在する化け物なんですよね」
布引が本題を切り出すと愛想良く話していた片岡は顔を曇らせて口籠る。代わりに老人が視線を仏壇に向けて語り始めた。
「十年前から始まった怪異です。初めはうちの孫でした。猟銃を躱して木の間を飛び回り、地面を抉り、首を掻き切り、目を抉る、残虐な化け物です。力自慢の男衆が束になっても歯が立たず攫われる子供を見送るしかありませんでした」
望月は毛玉を撫でながら眉間の溝を深くする。
「そんな事件があれば警察が動くでしょう。村に駐在がいないとしても麓に行けば必ず捜査の手が入るはず。毎年ともなればニュースにならないはずがない」
「今でこそ化け物が当たり前にはなりましたが、警察は熊の仕業に遭難、家出、仕舞いには村ごと信心深い基地外扱い。最期まで見当違いな捜索程度でしか取り合ってくれませんでしたよ。思えば殺戮者のはしりやったんかもしれませんな。そう、アレは殺戮者やった」
「……ご愁傷様です。しかし、何故その事件は冬に起きていたのでしょうか?」
片岡は顎を擦って苦笑する。
「どうでしょうなあ。今更真実を明らかにしようにも、村に生き残っとるのは死にぞこないの爺さんと、頭が足りん僕と、守るもん失くした味噌っかすだけやから」
老人は忠告を重ねる。
「今は秋口、畑と狩猟で食料も蓄えとりますから何日でも休んでいって構いません。でも冬までには出なければならない。雪がチラつく頃には必ず」
人を攫う、何処かで聞いたような話だ。
数日以内に施設で少女を誘拐したのが件の妖怪ならば季節的に辻褄が合わない。正確な日付を数えなくなって久しいが、今時分は少し肌寒い秋、まだ山の木々も色づく手前で冬には到底届かないだろう。その事件を冬に起こす動機が分からない以上、何かの条件が合ってしまった可能性は考えられるが。
「いいや、本当に妖怪の犯行だったなら偽装の説明がつかない」
村人はそのまま部屋を宿泊先に提供すると夕暮れ時には帰っていった。景気良く食材は好きに使って良いからと台所まで開放して、少し埃臭い布団も人数分並べられ、非の打ち所がないもてなしを施してくれている。
「それに彼らの話にはいくつか不審な点があった」
「改めて言われんでも馬鹿以外は気づいてる」
「馬鹿も気づいてますけど」
「それよりカマイタチの里帰り先が怪しくなった。同郷の人間があんだけ特徴的な同姓同名に無反応でいるのは不自然だ。目的が逸れてる」
部外者がいなくなっても緊迫は解けない。
用意された食料に手をつけず持ち込んだ物を機械的に腹へ詰めていく。
問題は全てが複雑怪奇に進展してしまっている。
望月の掌の下で毛玉が身を捻って回転し始める。
「特に気になったのは警察が誘拐と殺人の通報で動かなかったという点だ」
「不真面目な処理をする輩は悲しいことに何処にだっているんだよ。……発覚しない環境なら尚更な」
さして取り上げるまでもないと切り捨てられても望月は確信を告げる。
「いや、あり得ないんだ。極秘拠点は周辺の事件に神経を尖らせていたからな。遭難者の捜索があれば部外者が近辺に立ち入られないよう積極的に人を動員させる程だ。妖怪云々は信じないとしても襲われた事実があるなら痕跡が残る。訴えがあったなら必ず原因を突き止めるまで調べたはずなんだ。大体、十年近くも人が消えていたならデータベース化されて自分の耳にも入ってくる」
「あの人達は人が死んでいるのに何故かお巡りさんに通報をしなかった。もしくは妖怪の件がまるごと作り話って言いたい?」
「嘘はあるだろうよ。お外の世界がいくら危険だからってヤバい風物詩がある村に居残ってるのは不自然だ。普通は二回目が起きた時点で全員が故郷を諦めて引っ越してる。実際に化け物がいるってんなら何か居残ってる理由があるはずだ。そんでもってその理由は攫われた孫の為なんて綺麗な話じゃねえ」
「仲前君は何故そう思う」
「臭えんだよ、俺は初めから最後まで厳つい銃を片時も手放さなかった。にも拘わらず何故普通にもてなされた? つまり連中は虎はおろか銃火器持っとる俺達でも対処できる自信があるってんだろ」
確かに彼らは何かをまだ隠している。
曝け出す義理もないのだから。
「話が複雑になってくるが誘拐の容疑者は一応増やしておこう。それに最優先は取り急ぎ少女の安否と居場所の見当だ」
ここで丸金は弾けるように立ち上がり、おかしな挙動で「ご、あ、しょ」と声を詰まらせ空回りを披露する。
丸金は村にいるはずのない少女と会っている。不自然な場所で、おかしな会話を交わし、大人が来た途端に姿を消した。最後の村人は山に一人で狩りに出られる男だ。少女と見紛う容貌とは考えにくい。
「どうしたの、丸金。喉に何か詰めた? それともまた何か気持ち悪いものが見えたんじゃ」
激しく首を振った丸金は、伝えるタイミングをつかめないでいた大事な情報を振り絞る。
「報告を、していないことが、ありまして」
呆れられる覚悟で丸金は床下の少女について話すと、予想通り望月と布引は険しい顔で立ち上がる。
「脱走して隠れていたのか。賢い子なら移動しているだろうが姿を見ていない第三の男が少女を捕まえるまで我々を足止めしていたんだとすれば」
「おい待て」
仲前が畳を叩く。
「そいつの正体が今でも人間なら良いが視認できたのは床下から覗く顔だけなんだろ。相手を探るにしても会話の内容がおかしい。歴代の犠牲者が変貌して床下は化け物の巣窟でしたなんてオチが見えたぞ」
「変貌しているかどうかなんて関係ないよ。安全な状況じゃない子供が居るなら、まずは保護でしょ」
「村人が下手人だった場合の処理はどうするつもりだ。つまり殺戮者じゃなく敵対すんのが人間の場合の方針だ。行く前に決めろ」
荷物から包丁を引き抜いた布引は真顔になる。
「目的いかんによっては容赦しない。その子に危害を加えるなら村人だろうと自衛官だろうとだよ」
少女が変貌者だったら。
変貌犬は襲いかかってこないからこそ結果的に撃たずに済んだ。しかし、蝙蝠の様に言葉を喋る悪意のある妖怪と化していれば再び意見は割れるだろう。この裏の取れていない仮想敵地のど真ん中で統一ができるのか。
望月の答えを待たず仲前は装備を対人間用の拳銃とナイフに切り替えて戦闘態勢をとった。
「事を起こされるなら食事、風呂、睡眠時だ。もとより素直に生活行動をとってやる謂れはねえ。隙を見せることになる長期戦はもちろんなしだ。1日で終わらせる。先に目標である少女の初期位置を確認、確保できなければ仮想敵の位置を把握の後に一斉に無力化してからお待ちかねの質問タイム。早い段階で連中が接触してきた時は失せ物探しで押し通す」
当然のように丸金が立ち上がろうとした中腰で仲前が指を差す。
「邪魔丸はここで待機。お目付け役は絶賛やる気皆無のお前でいいな、蝙蝠」
「いえっさー、班長」
背中で聞いた間延びした返事に丸金は硬直する。
「毛玉はそのままタイタンが管理」
「わん!」
犬は当たり前の様に応答する。
「作戦開始だ」
布引は居残りの名を聞いて立ち止まり、村上を冷たく見下ろした。言葉はない。そこには信頼ではなく疑惑が含まれている。実際に村上は丸金を戦闘でも平気で使う。彼女にとっては保護者として一番信用できないだろう。
「丸金」
「は、はい!」
打って変わって丸金には力強い笑顔が向けられた。
「危なくなったら必ず声を上げるんだよ。十秒も待たせない。丸金は良い子だから出来るよね?」
そしてそこには逆らわせない圧もあるのだ。
望月、仲前に続いて布引が証言を元に少女の足取りへ向かっていった。
残された丸金は後ろで立ち上がった村上に驚いて縮こまる。不意に、村に着いてから村上の声を聴いていないのに気付く。無口どころかお喋りな部類だ。いつから黙っていたのか思い出せず、言いようのない不安が募る。
村上は黙って部屋を一周、家探しを始めた。なんとなく丸金はいつものように声をかけられず黙って行動を見守った。同じく村上は丸金に声をかけてこようとしない。布引以上に耐え難い重圧を感じ、部屋の隅で膝を抱えて小さくなる。
荒妻が姿を消す前にも予兆があった。心が見抜けない丸金には村上の態度が同じものかは蓋が開くまで分からないだろう。
そう、立ち返れば勾月村には荒妻を呼び戻しにきたのだ。望月が上手く説得できなければ離反した使鬼を仲前は許さないだろう。丸金は彼を消さなくてはならない。それが最初にして最大の取り決めだ。破れば丸金がここにいる意味すら消える。
せめて、このまま荒妻が見つからなければ。
消したと嘘をついても大人達に確認する術はない。
彼は荒れ果てた世界を一人で渡り歩ける稀有な存在だ。武器も食料も寝床も聖のように上手く立ち回って確保するだろう。丸金が見切りをつけられたからといって死神になるとは限らない。
心が囁く。
共にいる意味を丸金が示せなくなった瞬間に、いずれは順番に見切りをつけられる。荒妻の次は村上だ。その次には仲前が、聖の為なら布引とて確かではない。あの望月も丸金が道を外せば去ってしまう。
捨てられてしまう。
片目を押さえて眼帯の暗闇を覗き込む。
せめて与えられた役目だけでも果たそうと、遠く離れた死神の元へ意識を深く傾けた。
すべき事を。
視界に広がるのは黒ではなくピンクがかった真っ赤な夕陽が沈む空。一面に広がるススキが風に揺られて黄金の海の様に波立っている。波間にはたくさんの案山子が点在していた。野晒しの服は赤茶けてはためいて風の強さを知らせてくれる。
蝙蝠はススキの中を歩いているようだった。視界の端に萎びて変色したススキの束がたまにチラついて穂先がもったりと崩れては散ってしまう。
相変わらず場所は特定できないが、少なくともここではない。自然に囲まれた美しい景色に安堵感と心細さが胸に満ちる。
蝙蝠は澱みなくのんびりとした速度で真っ直ぐに歩いていく。直線上には四体で向かい合って仲睦まじい案山子達がいた。大きな案山子に小さな案山子と様々な種類があるようだ。水平に伸びる両手と首がビチビチと上下左右に揺れていた。
案山子は風でそんな揺れ方をしない。
近づくにつれ案山子の手には精巧な指が苦しそうに痙攣したり強張って震えているのがハッキリしていく。
目を背けなければアレが何か解ってしまう。
案山子ではない。
蝙蝠が案山子の正面に回り込んだ。涙も鼻水も涎も拭えず苦痛に歪む少年の顔だ。彼の正面には頭が二つに裂けて捻れて暴れ狂う案山子がいて、隣には小柄なミイラが磔にされたまま垂れ下がっていた。その反対側にはもう一人の痩せ細った女が生き残っている。死に物狂いで何か喚いて命乞いをしているのが解ってしまう。
案山子の様な姿勢にされた足は付け根近くまでコンクリートで固められ、背中に通した棒に釣り糸や針金で磔にされていた。
蝙蝠は手元に持っていた枯れたススキを少年の口元へ押し付ける。穂先だと思っていたのは乾いた指で、茎だと思っていたのは水分が抜けきって乾燥した手足の干物だ。
案山子はそこら中に立っていた。二体で、あるいは三体でそれは向かい合わせになっていたり背中合わせになっていた。
痩せ細った女の手足が不自然伸びて垂れ下がっていく。空洞に落ち窪む片目から血を流しながら女は変貌して元の形を失ってしまう。
絶望は連鎖する。
少年の頭部が弾けて綿毛と化す。フワフワと季節外れのタンポポが遠くへ行こうと強い風に乗って赤い空の中へ飛び去って行く。
蝙蝠は軽快に周りを見渡した。視界に広がるのは何十体もの人間だ。靡いているのは何メートルもある指だ。飛んで行ったのは帽子ではなく脱げた皮だ。鳥が突いているのは人形ではなく人間だ。
ここは人間を変貌させるための人畑。
目を見開いて勢いよく壁にぶつかる。蝙蝠の視点を何度網膜に焼き付けられたか分からない。耐え難いおぞましさに耐え切れず畳の上で吐物をぶちまけた。慣れるはずがない。目の前が霞む。体をかき抱いて震え上がる。あんなものは人間の発想じゃない。
頭を占めるのは生理的嫌悪感だ。
「何か見たのか」
蝙蝠の声が蘇る。
よりによって目を前で異変を聞き咎めたのは蝙蝠と何一つ変わらない姿をした男だ。小窓から夕暮れの赤と行灯の薄暗く不気味な光が影を揺らす。
値踏みするように村上の視線が動く。
何でもないと口に出きず、焼けるように喉が詰まり、全身から血の気が引いて眩暈が起きる。
人間を、おそらく家族だった者を、あんな風に引き裂いてオモチャにしていた。丸金よりも幼くても躊躇いなく壊してしまえる。
人の尊厳を粗末に踏みにじる蝙蝠は悪魔そのものだ。たった二年で村上はそうなった。巻き戻しただけで別物ではない。ましてや蝙蝠は思考を残していた。つまり村上の頭の中にもあの人間の壊し方が詰まっている。
実行したか、していないかの差だ。
何が違うか連ねられるか?
現にすり替わっても見分けがつかない。
「マル」
口を押さて首を振る。まさに今、片目の先で恐怖で叫んでいる人がいる。その目に映っているのが丸金の前にもいる顔だ。恐怖で混乱した頭で後ろに逃げようとしても壁がそうはさせてくれない。両目に映る同じ顔が、絶望に歪む犠牲者が、歪んで潰れて変形していく人間の頭が視界いっぱいに広がった。
あんな残酷なことを楽しめる蝙蝠が怖い。
寝ても覚めても思い出す慟哭、断末魔、尊厳を削り取られた人間が溶けていく様。目の前に助けを求めて喘ぐ人がいても助けられない無力さは恐怖へと取って代わる。
どちらが現実かわからなくなる。
境界線を引けなくなる。
この男が蝙蝠なのか、村上なのか、命を弄ぶ死神なのか、丸金が呼んだ正義の味方なのか。
乱暴に体を引きずり倒される。
立っている視点と見上げる視点に視界が回転して頭痛と再度の吐き気が込み上げる。
「なあ、ご主人様。人が真剣に話してる最中にホラー映画を楽しむのはお行儀が悪いってもんだ。まずは視点を合わせて哀れな下僕の話に聞く耳をもたなきゃなあ」
震える小さな体に馬乗りになった村上は口を吊り上げて笑っていた。
何が起こっているのか判らず丸金は引き攣って絡まった声しか漏らせない。
「な、を、んで」
「俺はずっと考えてたんだ。荒妻の離反や誰かの救出より重大な問題だ。信用は言葉で買えない。洗脳で矯正しても維持には足りない。足元を掬われる前に敵と味方も区別できない阿呆な主人を解らせるには何が効果的なのか」
低い声で蕩ける様な不気味な顔で、失望を含んだ蝙蝠と同じ調子で声が降ってくる。
「ご、め、なさい、わか、判ってて、違うって、蝙蝠じゃなくて、別、別個体だって判ってるので」
「しぃ」
村上の左手が丸金の口を塞いで押さえつける。
「違う、違う、違う、お前さんは何も理解できてない。解らないのに解ったふりをするのはハッタリが必要な間だけだ。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥ってな?」
今度は右手が丸金の瞼を限界まで押し広げる。
「お勉強の時間だ、ご主人様。人間ってのはどうしたって視力に八割囚われる。聴覚、嗅覚、触覚、味覚、他の感覚は合わせたって二割に満たない。掛け算もできない脳みそで割り算の概念は理解できんだろうから簡単に言っちまえば、百回聞いた話より一回見たものを真実と思うのが人間だ」
基地で何度も死神のトラウマに苦しむ人を見てきた。頭で違うと理解しても忌避感は拭い去れないのだ。同じ姿、同じ声、ましてや時間軸が違うだけの存在だ。
簡単に感情を支配できるなら変貌者など存在しない。
大人が振り払えない先入観を、正せない不和を、丸金にやれと言われているのが今だ。
「視覚を抑えて言葉を信じろと言っても通用しない時はどうすべきか」
体が震える。
悪夢が始まった時から少しずつ恐怖は蓄積していたのだろう。その証拠に村上に自ら話しかけたのはいつが最後なのか思い出せない。
相談したのは?
頼ったのは?
「俺はずうっと考えてたわけだ。お前さんが俺を避け始めた時から」
村上は変化に気づいていた。
だから黙って丸金を観察をした。
村上は塞がれた口で弁解をしようともがく丸金を観察しながら反対の手でナイフを引き抜いて、冷たい刃で柔らかく弾力のある頬を叩く。
小枝の様な両手を使って抵抗されても鍛え抜かれた片腕はびくともしない。
丸金の耳にナイフを強く握り込む音が届く。
「結論、つまり対処すべきは他人の脳味噌ではなく視覚情報だったというわけだ。そういや小学校では持ち物には名前を書きなさいって習うもんだしなあ!」
頬を離れた切っ先が視界を赤く横切った。
飛び散る血が焼ける様に熱く丸金の顔に降り注ぐ。塞がれた手の下で悲鳴を上げる。くぐもった恐慌は外にけして届かないだろう。ナイフから滴る雫が畳に落ちて染み込んでいく。波打つように傷口から盛り上がる血が傷の深さを物語り、衝撃のあまり向こう側にいる蝙蝠の姿をかき消してしまった。
自らの手で頬から鼻にまで刃を通した村上に浮かぶ感情は、思考の焼き切れた丸金の様子に満足する快だ。
「よう、ご主人様。これで糞野郎との区別はついたかよ」
塞がれた口が開放された丸金は開いた口が塞がらなかった。
「か、こ、蝙蝠と見分けが、つくように、した、したって。あの、そんな事、したら、駄目だと、思う、ので、す、がぁ」
あまりにも理解を超えて頭が沸騰した丸金は顔中に苦悶を凝縮した皺くちゃで呻く。そのおかしな顔に血を垂れ流しながら村上が噴出する。
仄暗い泥の中で息もできず藻掻いていたくせに、猫だましを食らった程度で委縮した本性を取り戻す。
素直で幼く歪で無形、顔には心の全てが書いてある。
「挙動不審で目も合わせられなくなってる哀れなご主人様がまともにお喋りできるよう判り易く体を張ってやったんだよ。なあ? 俺ってば超優しいだろう」
「あ、ぐ、う、ぎ」
目を泳がせながら起き上がろうとした丸金の額を薄ら笑いの指先一つが押し戻す。
「蝙蝠は他の死神と違って人間性を残してる分、きっかけがあれば一線を越えるかもしれない。まだ何か足りないから同じ思想に至らない。本音はすでに蝙蝠と同じなんじゃないか。だって本質は同じなんだから。だから俺を蝙蝠と見間違う」
「ち、違います! そうは、思ってません。そんな、風、には」
「常に頭が狂いそうな光景を見続けて、目の前に連想させる姿があれば恐怖を感じて当然だ。それを責めているわけじゃないんだぜ。大人ができない感情制御を、感情の塊みたいなガキに米粒程度も期待しちゃなんねえよなあ」
それなのに心に嘘をつく丸金は信頼を求めて必死に弁明する。
「が、頑張るので。蝙蝠が、何を、しても、何も感じなくなります。私は、責任を、果たす、ために」
「世界を救いたい奴が人間を壊してる光景に何も感じたくなったら普通にヤベェんだわ」
「んんぅっ」
丸金は唇を噛んで目を回す。
村上が植え付けた片目で育つ恐怖心を癒せる大層な知識も時間もありはしない。
だから手っ取り早く、この顔で連想するものが蝙蝠ではなくなるように視覚の暴力に訴えた。
蝙蝠よりも先に思い出すのがこの誓いであるように。
「何があったとしても俺は蝙蝠にはならない。何故なら俺は正義の味方になりたいマルの使鬼をまっとうすることを選んだからだ。死神退治でも世界平和でもない。菅原丸金が目的を勝ち取るのに足りない力を補うことに命を使うってのを選んだ。俺はこうと決めたら手段は変えても目的は変えない。そもそも蝙蝠とは行く道が違うんだよ!」
目を丸くして驚いた顔で片目に灯ったのは光だ。
「そんなの」
丸金の目にはもう向こう側の蝙蝠なんて映っていなかった。
「凄く、びっくりです……」
目に涙の膜が張って大粒がみるみる溢れ出す。
この人は死神を倒すために人類の味方になったのではなく、丸金に応えた『丸金の味方』だと言い切った。未熟で間違いも迷いも捨てられない事を理解しながら、行くはずだった未来を否定して、強さを、覚悟を、心を示した。
顔を大きく引き裂いた傷を丸金は目に焼き付ける。
「二度と見間違えたりしません。だって」
この傷で最初に思い出すのはきっと貰った言葉だから。




