蝕む悪意
鉄骨で素振りまでする手が小さな片手を支配する。走り出すことも抜け出すことも許さない絶対的な威圧感で連行されれば囚人の面持ちにもなるだろう。
「固定が緩んでグラついている標識があるね。危ないから、あそこは早足で抜けてしまおうか」
穏やかで優しい口調に明るい笑顔。いつも通りなのに、手を繋ぐ反対の手には包丁が終始握り込まれている。
高速道路にのる坂道を徒歩で進む。壁側には車が乗り捨てられたり玉突き事故て放棄されていた。道路の壁には蔦が這い登り緑色の模様を作って花実をぶら下げ、車の上には枯れ葉を落として人間社会の衰退を嘲笑う。
目的も行き先も教えないと宣告された布引は「そう」と二つ返事で淡白に受け入れてしまった。それからずっと彼女は丸金だけに話しかけ、丸金しか見ない。丸金は心が少しずつ欠けていく様な不安感を膨らませながら刺激しないよう束縛に付き従う。
重傷の望月は少し遅れながら最後尾を守り、村上と仲前が小銃を構えて先行。状況を分析する為に必要な情報は少ない男達の会話から推測するしかない。
彼らは荒妻の足取りを辿ろうとしている。飛行する蝙蝠を追跡する為に基地から乗ってきた車に単身乗り込み、蝙蝠に誘われるままに高速道路へと走り去った行方知れずの手がかりを求めて。
「どうして、荒妻さんは、村上さんと桐島さんを置いて行ってしまったんでしょうか……」
布引は「んー、そうだなあ」と頭を捻る。
「彼は近接中距離戦闘員だから銃撃戦での共闘を嫌ったのかもしれないね。近接攻撃しかできない私となら動きを合わせられるけれど、背後から飛んでくる銃弾とは場所を譲り合えないからね」
丸金の顔が更に曇る。
「桐島さんは、まだこの近くで隠れているんじゃないでしょうか。だって、桐島さんは怪我人で、病人だから、先に、捜してあげないと」
布引は困り顔で手を繋いだまま手の甲で丸金の頬を擦る。
「ごめんね。実は彼の隠れている場所なら知ってるんだ」
「え!?」
「そういえば丸金も最後に喧嘩したままお別れしちゃったもんね。晋作君を迎えに行くまで待ってもらわなきゃいけないけれど、後で一緒に謝りに行こう。寂しい想いをさせて申し訳なかったって」
ここからそう遠くない場所で壁に張り付けられた無惨な姿のままでいる。
丸金を連れては行けなかった。
「……はい」
穏やかな死を演出して、残酷さを覆い隠し、真実を闇に葬り去る準備が済むまでは。
背後から聞こえてきた会話に村上が含み笑いを漏らすと、仲前が「真面目にやれや」と見咎める。
狭くはない一本道で建造物もない高速道路だが見晴らし良く敵影を見つけやすいかといえばそうでもない。交通安全を喚起する標語、散乱する事故車、中央分離帯の高い壁、おまけに人形のような小者から地面の大顔まで多様な化け物が潜むのは大きな物陰とは限らない。
「俺はいつだって大真面目だぜ。未知の世界を切り開く冒険家の如く神経を張り巡らせてる。おっと、なんだ腐った死体か」
骨が一部露出して性別も判別できない死体が車の下敷きになっている。道路を引っ掻いた跡が赤く何本も折り重っていた。逃れようと抗いながらも抜け出せず、助けられることなく、しばらく生きていたのが見てとれる。
「念の為」
村上は死体の頭を蹴り飛ばした。腐って柔らかい肉はベタついて転がらずに車の下へと入り込む。頭には鬼畜な通りすがりを睨みつける目玉も残っていなかった。
仲前は見咎めるでもなく視線を正面に戻し、珍しく村上へ雑談を持ちかけた。
「そういや、てめえにはいっぺん聞いてみたいと思ってたんだ」
「へーえ、俺にぃ?」
「お前は死神を始末すれば人類の不利が覆ると思うか?」
「さて。機嫌の悪い我が班長殿はどう答えればお気に召すかな」
「撃ち殺したろか」
「蓮君ったら怒っちゃいやん。そーねー、逆に覆る要素がなんなのか教えてもらいたいんだけど、凶悪といっても徒歩の化け物がどれくらいの脅威だって? 被害範囲は限られてるんだぜ。そんじゃ死神と応戦していない地域では何が弊害になってるんでしょうねえ」
山を跨ぐような化け物が大陸中を闊歩して、龍が空を飛んで人を喰らう。核爆弾が飛んで町は消滅しても砂の下では何かが泳ぎ、七つの海では忽然と船が消えていく。
「せいぜい、化け物の空洞化した周辺だけ一時的な平和を謳歌するデストピアエンド、が妥当じゃありませんかねえ」
仲前は口角を上げる。
「蝙蝠をブチのめすオマケにしては上等だ」
村上は声を出して笑う。
「お前は蝙蝠がよっぽど憎いんだな」
「ったりめえじゃ、ボケ! 他の死神なんざどう跳梁跋扈しようがどうだって良いんだよ。蝙蝠だ。世の不条理は大体があいつのせいだ。カレーが食えねえのも、好きにタバコが吸えねえのも、殺戮者の天下になって酒と女と娯楽の代わりに、無休でクッソ怠いお守りと白兵戦とサバイバルさせられてんのもな! マジ千回は死ね!!」
「残念。村上は物理的に二回までしか殺せないんだよなあ」
「うるせえんだよ」
仲前は立ち止まる。
「俺は村上がクソみたいな遊びを続けるつもりなら地獄の果てまで止めに行く」
視線を合わせないまま決意と覚悟が明かされる。
「逆に、もしある日あいつが蝙蝠やるの飽きたから真人間に戻るつったら、後戻りできないなんて言うつもりはねぇ。隠居生活やる気があるなら協力だってしてやるよ。俺の人生が男に消耗されるなんざ胸糞悪くて仕方ねぇが、親より長くなっちまった防大からの腐れ相棒の不始末だからな」
村上は長い溜め息を漏らして肩を上げる。
「愛が重い」
「押し潰そうとしてんだよ」
歩き出した仲前が少し前を歩きだす。
「お前が変貌するのを隣にいた俺と鈴原はマヌケ面で眺めてたっけな。にも関わらず鈴原はくたばる直前まで、世界中の誰が変貌したとしても村上だけはあり得ないとかほざいてたよ。きっと何か考えがあって殺戮者のフリをしているから、その内なにか大きな策をぶち撒けに戻ってきてくれるんだとさ」
「それはまた随分とお花畑な思考回路だことで」
仲前は鼻で笑う。
「だったら、どうしてあいつは不思議な力で複製された変貌以前の村上が現れた途端に変貌したと思う」
丸金が死神を過去の姿で顕現した日、村上と対面した鈴原は殺戮者に身をやつし、冥土の土産として仲前の左眼を持ってこの世から逃げた。一言も交わすことなく。
「さあ?」
「実際は信じてなかったんだとさ。絶対に折れないと信じてた背中がもう一度へし折れちまうのは耐え難かったらしい」
道路のカーブを曲がりきった所で仲前は再び立ち止まって完全に村上へと向き直る。
「さて、鎌イタチはこの高速を使って装甲車で蝙蝠を追跡したんだったな?」
道路は道が完全に車で埋め尽くされていた。分離帯の壁を軽く突き破って派手に爆発炎上した跡から、ここ最近の物ではないのがうかがえる。
村上は積み上がった車に近づいて行く。
「なるほど、こっちが行き止まりということは消去法でいくと探し人は高速道路を逆走していたらしい。平和の名残りによる思い込みってやつだな」
推測を立てながら、村上は向こう側を確認する様子で車の隙間を覗き込み、無造作に車の間へと腕を差し込んだ。
後続の布引が少し離れた位置から男逹に問いかける。
「どうかしたの? 進まないの?」
「見りゃ判るだろうが。普通の人間には行き止まりなんだよ」
「そう。じゃあ引き返そうか」
彼女が丸金の手を引いて踵を返そうとすると、村上と仲前が同時に否定した。
「いや」
仲前は村上に向けて発砲する。
「ひゃ!」
丸金は弾丸が村上の背中を正確に撃ち抜くのを目の当たりにして体を精一杯捻る。車の隙間から村上の腕が抜けて膝から崩れ落ちていく。
「何をするんだ、仲前君!?」
「村上さん!!」
握られた手が引き寄せられ、布引の胸の中に閉じ込められる。
次の瞬間、背後で爆発が起こる。
道路が折れて瓦礫の雨が地上へと降り注ぎ、粉塵を舞上げながら元来た道路を数百メートル寸断した。
銃弾が続けざまに発砲され、忙しく視線を元に戻せば仲前が車を駆け上がって山の向こうに飛び込む村上を追撃していた。
「なんで! 止めてください!?」
暴れる丸金を手放さない布引に代わり、足を引きずりながら望月がとびだしていく。
仲前は空に向かって声を張り上げる。
「俺は信じてたぜ、村上海舟!! てめえが裏切られて捨て駒にされたごときで絶望なんざするたまかよなあ!?」
望月の手が仲前の肩に触れて、瓦礫の轟音が収まったところで高い位置から口笛が鳴らされる。
「無言で不意打ちとは痺れちまうねえ。さすが俺の相棒。成功しなったのが不思議なくらい見事な殺意だ」
村上は防音壁の縁に腰掛けて笑いながら拍手を贈る。仲前は小銃を彼に向けると口角を歪に吊り上げる。
村上には腰から下にあるべきはずの足が無かった。普段通り戯けながら皮肉を綴る男の背には太陽の光を遮って影を作り出せるほど巨大な黒い翼が翻る。翼の骨格の間に張り詰めた皮膜は黒く革めいており鳥類や羽虫ではなく悪魔や蝙蝠を彷彿とさせる。
その特徴は笑いながら殺戮を繰り広げていた死神そのものだ。




