こぼるる齟齬
鳥の囀りが耳に届いて目を開く。目の前には丸金を抱きかかえながら座った状態で泥のように眠る布引がいた。まだ窓の外は少し暗い。身を起こせば体を包んでいた埃臭い布団がずり落ちた。丸金は疲れている布引を起こさないように立ち上がって布団を掛け直そうとしたところで、布引の左手が出刃包丁を握っているのに気づく。
驚いて一歩下がった頭に硬い物が当たる。
ゆっくり振り返った部屋の異様な光景に丸金は絶句した。鈴、風鈴、金属棒、フライパン、コップ、音の鳴るあらゆる物が至る所に吊るされていた。虫が飛びついても反響しそうな一夜で張り巡らされた蜘蛛の巣に、余地のある床へと身を伏せる。
布引の目の下の隈は一晩ではとれずにより一層色を増していた。寝顔の布引は憂いを帯びた死神そのものに見えた。
丸金は正しい行動がしたかった。良い子でいたい。役に立ちたい。誰も失いたくない。置いていかれたくない。しかし、ここにきて正しいが矛盾を孕み出している。大人達の望みがそれぞれ違う。だから正解も違ってくる。すれ違いを起こしてしまう。
布引の望みは丸金と聖の無事。
慎重に布団を掛けて、音を鳴らさないよう這いながら部屋を出る。壁に手をつきながら真っ暗な階段を降りて、目の前にある扉のガラス奥に望月の姿を見つけた。
扉を開くとソファで休んでいた望月が身を起こす。
「菅原君か。おはよう、そろそろ姿を確認しに行こうか迷っていたところだ。布引君はまだ眠っているのか?」
「……ごめんなさい」
沈み込んだ丸金に望月は眉をひそめる。
「悪いと思っているなら二度も黙って姿を消すマネはしない。口先だけで謝られても受け入れることはできない。君が同じ事を繰り返す許可と取りかねないからだ」
うつむいて何も言えなくなる丸金を厳しく諭す望月は、足を床におろして両手を組む。
「菅原君の欠点はその時々で周りに流されて言いつけを忘れてしまう落ち着きのなさだ。いや、覚えているが破っても仕方ないとあえて無視をしている時もあるだろう。君は自己責任で危険な目に合うだけだと思うだろうが、君にとってどうでも良い命が他人にとっては違う事を重く受け止めてくれ」
「……はい」
「公平ではないから正直に教えておくと、話し合いで君には余計な事をさせないよう情報を伏せる事になった。この方針に対して誠実に信頼を取り戻すか、誤魔化してズルをするかは君次第だ」
天井に向かって深い溜め息が漏らされる。
「朝から重い話になったが、どうしても釘を刺しておきたかった。テーブルに携帯食があるから食事を済ませてしまおう」
小さく頷いて床に座ってもそもそと噛り付く。望月も手を伸ばして静かな食卓に生活音だけが響いた。二階も静かで鈴の音は聞こえてこない。
どうにかなった。
それは結果論で本当は一度死を覚悟した。丸金が死ねば四人の大人は道連れにされていた。死に関しては自己責任が通らない。しかも彼らは子供である丸金に情を移している。どれだけ丸金が平気だと言っても心を痛めてしまうお人好しだ。
望月の望みは丸金が何もしないこと。
本当は解っている。布引と望月に報いたいなら子供らしく振る舞えばいいのだと。そうしてたまには笑ってみせて、甘えて、守られて、頼って、邪魔にならなければ尚良いだろう。それだけで彼らは血の一滴まで丸金の為に差し出してくれる。
望月が咳払いをする。
顔を上げると、大きな掌に小さな一粒のお菓子が気まずそうに差し出されていた。
「チョコなんだが食べないか?」
包み紙に見覚えがあった。これは聖から分け与えられた食料の一部だ。丸金は昨日もこれを口にしている。
「聖さんがチョコは優秀な非常食だって言ってました。望月さんが必要な時に食べてください」
「ああ、いや待て」
望月は焦って言葉を捻り出す。
「これはあれだ。その、実は自分がチョコを食べられなくて持て余していたんだ。せっかく藤崎君が分けてくれた貴重な食べ物を無駄にしては忍びない。どうせなら味わって食べてくれる者に譲りたいと思っているのだが」
困りきった顔を見て、丸金は不器用な男の優しさを受け取った。
「…………私は、私はチョコが好きです。ありがとうございます」
「そ、そうか。良かった」
食べ終わった望月はまだかなり辛いらしく、食べ終わるとソファへ横になる。
「申し訳ないが自分は出発までに少しでも体力を回復するため眠らせてもらいたい。布引君が起きてきたら彼女の分の朝食を渡してやってくれないか? あと、分かっているとは思うが一人で家の外に出るような勝手はするんじゃないぞ」
「望月さんが起きるまで、ここで、反省します」
「いや、何もそういう自罰的な活動はしなくていい。君は、何事も極端に走り過ぎだ」
呆れた顔から苦笑が漏れ、太い腕が目元に乗って会話が途切れる。間を置いて小さなイビキが漏れる。
丸金はチョコを持ったまま手を合わせて「ご馳走様でした」と言って立ち上がった。到着早々に二階へ押し込められた丸金は忍び足で一階を巡り始めた。台所、風呂、トイレ、洋室、玄関横にある和室、何処にも村上と仲前の姿は見当たらない。家の造りは全体的に窓が細く、人間が出入りできる広さのものはシャッターが降ろされていた。
玄関に辿り着く。
外にはもちろん出られない。丸金は扉を見つめ、靴を履くための椅子を扉の前に運んでドアスコープから外の様子を覗き込んだ。しかし、景色はまったく見えない。丸金は首を傾げて服の袖でスコープを拭きとり、もう一度向こう側を覗くと目玉がこちらを見つめ返していた。
「ぴゃっ!?」
小さな声で驚いて椅子を踏み外して壁にぶつかって張り付いて固まる。
「あっはっはっはっ、ひぃっひ」
外で笑う声が聞こえる。口をひき結んで恨めしげに扉を開くと村上が腹を抱えていた。ひとしきり笑った村上は「あー、くだんね」と見張りに戻る。
「お出かけですかね、お姫様」
扉の隙間から少しだけ顔を覗かせる。
「……昨日、なんで村上さんに怒られたか、考えてきたので、聞いてください」
「へえ。怒った覚えはないけど発表したいのなら、どーぞ?」
背中を向けたままぞんざいに返されて、怯みながらもドアノブを握り締めて堪えた。
「わ、私がすべき事とか、言われた事が、できてないのに、あれもこれも嫌なんて、都合の良い望みを押し付けてばかりで、簡単に新しい選択肢を与えて貰おうとしたから、です、よ、ね」
村上は笑みを浮かべるだけで肯定も否定もしない。
会話を振り返ってみれば村上はとても分かりやすく丸金に課題を提示していた。
村上の望みは丸金の成長。
冗談めかしく術者である子供をご主人様と呼んでいた。丸金が村上にとって本当はどういった位置付けなのか推測できない。材料が無い。だからこそ愚直に忠実に与えられた言葉を反芻するしかない。
『マルが良い子でいる限り』
村上は戯けた軽口に紛れ込ませて仮借なく丸金を推し量っている。安全な場所から無責任な我儘を撒き散らせば見限られてしまうだろう。
もしくは既に手遅れなのかもしれない。
「でも、でもやっぱり聖さんを殺したりできません。聖さんは悪意のある敵じゃありません。助けるべき相手です。布引さんを裏切りたくないです!」
ただ、丸金が村上から受け取ってきた言葉は命じられたままに動けという単純なもの達ではなかった。
「犠牲がいっぱい出るかもしれない選択をするのは悪い事だけど」
自分を殺せと犠牲を強請りながら他人は見逃せと言う身勝手な注文だ。
「その為に犠牲になる人を選ぶのだって内緒にしないといけないくらい悪い事だと思うから、だから」
薄ら笑いで村上が振り返る。
「だから悪い事を吹き込まれた事を告げ口してきましたって?」
首を振る。
「だから、これから私が何を頑張れば良いのか教えてください!」
村上は眉を歪める。
「はあ?」
呆れ声に威圧されて丸金は縮こまって吃り出す。
「せ、正解を選ばないけど、悪くならないようにする為にいっぱい努力しようと思って、でも、あの、何からやればいいのかわかなくて……」
それは結局のところ昨日の続きでしかない。新しい選択肢がないかの模索だった。ただ一つ違うのは、丸金が求めた質問が答えではなく解き方であるという点だった。
それは同じようでいてまったく違う。
村上はしばらく虚空に視線を投げた。
そして、ゆっくりと丸金に近づいて目の前でしゃがみ込む。
「まずは完璧な結果を求めずにギリギリ譲れない目的と目を瞑れる損失を明確にしろ」
「は、はい!」
「その上で目的を果たす為に足りない手札を洗い出せ。過小評価と希望的観測は排除して正確にだ。不足を補う為に何をすればいいか問題を一つずつ分けて考えろ。それぞれの問題が解決不能か、身を削ればなんとかなる案件かを振り分けていく。それで不可能な点を諦めたら再考する。何度も延々と繰り返せ。大体の奴はここで投げ出して妥協する」
丸金の目に輝きが灯る。
今まで少女の頭には白か黒しか存在しなかった。極論しかないから心を病んで、正解に固執するから無力感しか得られなかった。丸金はその輪廻の外側にようやく少し触れている。
「答えを見つけるんじゃなくて、作る為に頑張る」
両手に拳を作って与えられた言葉を噛み締める。
村上は気紛れに垂れ流した理屈を真剣に拾い集めて頭を回転させる少女を眺め、不意に小さな顎をつかんで強引に持ち上げた。
挑発的な細められた目と視線がかち合い、丸金はおかしな姿勢で硬直する。
「なあ」
小さく歪んだ笑みが丸金の耳元に近づいて低い声で噛み付くように囁いた。
「世界を救うなら死神を始末するより手っ取り早い近道があるっつったら、お前さんどうする?」
「ち、か、道?」
顎を滑る長い指が離れて、返事を待つ悪戯な目を見つめ返す。
「それって」
返答に甲高い破裂音が被さる。
音の方角を探るより前に村上が目の前から後ろに跳んだ。その開いた空間を鋭い何かが貫いて激しく砂埃を舞上げる。
風圧で丸金は尻餅をついて現れた塊を凝視する。地面に深々と包丁を突き立てて現れたのは布引だった。彼女は緩りと村上を視線で追いかけながら包丁を引き抜いて立ち上がる。
丸金は慌てて布引の背中に飛びつく。
「ぬ、布引さん! 止めてください、どうしたんですか!?」
黙ったまま包丁を片手に村上を見つめる布引はゆっくりと頭を傾ける。
「やっぱりハーネスをつけておけば良かった。可哀想かと思ったけれど気配で目が覚めなかった。念の為の仕掛けも鳴らなかったし、直接鈴をつけておくべきだったかしら。そうよね、子供は少し目を離すとすぐ死に急いでしまうんだから」
振り返った布引は疲れを残した笑顔で膝を曲げて丸金を抱き締める。
「おはよう、丸金」
硬直する丸金に、村上は片眉を上げた。
「これは冗談じゃなさそうだな」
真綿で包み込む様な腕の中で声にならない悲鳴が上がる。




