もつれ糸
布引の手が丸金から離れ、シザーがいるのにフラフラと無防備に聖に向かっていく。
「ひじり、聖よね?」
「そんなはずない。だって先生はここに」
「また会えるなんて、私、てっきり」
「お前誰だ! よ、寄るな!!」
聖は動揺して後退る。布引はシザーの横を素通りして手を伸ばす。転びかけた聖は身を翻して川に向かって逃げ出した。
「そっちは危ない! 戻って、聖!?」
河童の目が川に近づく獲物に集中する。布引は川に入る前に聖の腕をつかまえた。しかし、聖は足元へと必死に手を伸ばして何かを拾って振り返りざまに布引の頭へと振り抜いた。
「来るなあああ!!」
鈍い音がした。
聖の手に握られていたのは丸金が渡し損ねたバールだった。布引の顎を伝って草むらへと血が流れる。
「いやあ!?」
丸金が悲鳴を上げると聖の視線がそちらを向いた。地面を這う河童が血の雫へと白く長い舌を伸ばしておこぼれを舐める。
「退がってろ、悪ガキ!!」
仲前が土手から駆け下りてくるが、丸金は無我夢中で布引の背中へと一直線に走り出す。
恐慌状態の聖の背後で複数の河童が立ち上がって少年へと魔の手を伸ばす。フラついた布引が聖に向かって手を伸ばせば河童の方へと後退して、待ち構える河童達は頭からかぶりつくように伸び上がる。
その斜め上に刃を大きく振りかぶったシザーが飛びこんだ。聖の頭上から川面に向けて河童達が切断される。
「轟先生!!」
次の獲物を求めて身を翻すシザーの名を呼びながら、聖は川から御し易い体格の河童を引き抜くと、今度は荷物に向かって駆け出した。
「聖」
「先生こっちだ!」
「お願い、待って」
河童は丸金と同じくらいの大きさで、雑巾の様に体を捻って聖の体に向かって嘴を開いた。シザーは殺意を持って今にも人を襲わんとする河童に引き寄せられて走り出す。それを確認すると聖は鞄に火をつけてから中身を盛大にぶちまける。そこから色とりどりな大量の煙が空中で噴出して聖とシザーを覆い隠す壁を作りだす。
駆けつけた仲前は布引につかみかかる河童を蹴り戻し、口元を庇って身構える。
「なんだ、あのガキ! スモークケーキか!?」
「聖、聖、いや、行かないで」
頭を全力で殴り飛ばされた布引は足を絡ませながら煙の壁を掻き分ける。
布引は聖を選ぶ。
丸金は愛する誰かの身代わりだったから。
丸金は唇を噛んで拳を握り、布引を追い抜かして煙の中に飛び込んだ。
「丸金!?」
「またか、クソガキァ!!」
隣で聖に覗きこまれながら描いた札を煙の中で打ち上げる。垂直に尾を引く目札に視界を移した丸金は土手を超えて住宅地に逃げ込んでいく二人の影をとらえる。
煙を突破した丸金は高所から自分の位置を確認すると、両目を手で塞いだまま神の視点で二人を追った。シザーを餌で釣りながら逃げる聖は、河童を始末しようとするシザーから河童を守りながら走っていた。
二つハンデがあったとしても脚力のない丸金では追いつけない。
対立するとしても目的を話してからのはずだった。怪異に対しても恐慌状態に陥らずに冷静さを保っていたのに、交渉の余地もなく拒絶反応を示すとは思いも寄らなかった。
そして、明朗快活で迷う事のない布引があそこまで動揺するとも。
「どうにかしなきゃ。でも何を話せば。このままじゃ」
苦肉の策すらつかめず愚直に追跡する丸金はやにわに屋根の上で人を見つける。自衛隊でよく装備される八九式小銃を構え、空を飛来する目札に対して含み笑いを向けて手を振った。
「村上さん!?」
動きを止めた目札に片目を瞑ってみせると村上は銃口を路地に向けた。そちらはシザー達のいる方向ではない。銃声が一発丸金の耳に直接届く。弾の撃ち込まれた先には殺戮者がいた。
村上に視線を戻すと彼は両手を広げて見せた。さあ、選択肢は用意したと言わんばかりに。
目元から手を離して丸金は肉眼を取り戻す。
「シザーが、優先、するのは」
丸金は避けようとしていた危険な道へと踵を返す。
シザーとの距離は遠のいている。
一か八かの勝負だ。
死神シザーの最優先は殺意を持って襲われている誰かの敵を切り裂く事。聖が行動でもってその習性を証明してみせた。遠くなれば精度は落ちる。長引けば引き寄せられて現れる。生き餌でなければシザーは殺意を見失う。聖が上手くシザーを挑発して見向きもされない可能性とてありうる。
曲がり角から飛び出せば痛みに怒り狂った殺戮者が丸金に向けて咆哮を上げる。赤ら顔の中心に比率の悪い目が一つ、異常に肥大した掌は子供を簡単に握り潰せるだろう殺戮者は拳を地面につけるゴリラの様な仕草でもって突進してくる。
恐ろしさに怯んで背後の壁にぶつかった。向かってくる一つ目を避けて壁伝いに走って逃げる。一つ目は丸金の元いた壁を掌で叩いて凹ませ、獲物に向けてたった一つの目を向けて追ってきた。
脳裏に浮かぶのは聖の笑顔だ。
世界が荒廃する以前からシザーを匿い、頼る所もなく、退廃した世界を彷徨い続けても希望を捨てなかった。シザーをおびき寄せた後に何と言って説得すべきか思いつきもしていない。正直に話して積もり続けた想いを変えられない。
「誰か私に追いつけば」
村上、仲前、布引、時間さえ稼げばつたない言葉より力を持った大人達が周りにいる。頼りになる保護者達。丸金よりも正解に近づける大人達。正確な位置を把握する村上が最初に来れば状況は覆せるかもしれない。
「村上さんなら」
殺戮者が丸金の横に並ぶ。
慌てて丸金が地面に手をついて停止した目と鼻の先に風圧がよぎり掌が叩きつけられる。すぐに元来た道を走っても真後ろから気配は離れない。
丸金は隙間の狭い電柱の後ろに入ったところで目の前を太い腕に閉ざされる。背後を振り返っても同じこと。
閉じ込められた頭上から吐息が当たり、見上げてみれば一つ目が電柱の背後を覗き込んでいた。
「時間を稼げば」
それは人並みはずれた力のある聖だから使えた作戦で、左右から迫る掌が丸金の体を握りこんで全身を圧迫する。
体が軋んで息が詰まり、もがけもしない。
「かっ、は……」
酸素を求めて空を仰いだ鼻先に大きな物がかすめて過ぎる。
目の前の電柱と背後のブロック塀ごと一つ目の首が横に薙ぎ払われた。残った体が時間差で横倒しとなり殺戮者の手は無残に地面へと投げ出された。目の前にはシザーが残り、遅れて現れたのは手に血痕のついたバールを握る聖だった。
シザーは頭を揺らし、何かを探るように辺りを見回す。切断された電柱の後ろから出てきた丸金がシザーの前に立つ。聖はシザーの二の腕をつかむと丸金から距離をとった。
「話を、聞いて、ほしくて」
うつむいたまま硬い声が返ってくる。
「急に置いてって悪かったよ。でも、あの偽物はお前の仲間なんだろ?」
言葉に詰まり答えなくても聖はジリジリと後退して離れていく。
話さなければ後悔する。
「布引さんは偽物じゃありません」
「意味がわかんねえよ。まったく理解できない。先生はここにいるじゃんか」
「私は陰陽師です。使役術を得意とする属性です。その中でも肉体の一部から同一体を顕現する技を秘術として伝える家系でした。普通は、妖怪や魑魅魍魎や動物に使う術を、私は、人間に使ったんです。強い殺戮者を、誰も敵わない特別な変貌者を味方にできたら、そしたら、みんなを助けられるかもしれないって、教えてもらって」
「先生並みの人間離れした大人。五体限界まで作った使い魔。そういうことか。望月のおっさんもそういうコピーだったんだな」
「ぶ、分霊体です。コピーじゃありません」
「こんな仕打ちあるかよ。騙し討ちだぞ。俺は助けてやろうとしてたのに」
「ち、ち、違うんです。私、どう言えば良いか分からなくて、知らなかったんです。だって、だって、シザーの話に聖さんの情報なんて全然」
「頭ぐちゃぐちゃで何も考えられねえ。先生が前みたいに喋ってた。思い出せねえんだ。先生ってあんな声だったか? 違う、あれは先生じゃない。轟先生はあの日から壊れちまってんだ。まだ俺は先生を元に戻せてねえじゃねえか。何もやれてねえ。あんなのは違う。違う何かだ!」
また一歩後退した聖は突然背後を振り返って何もない空間にバールを振るう。重い衝突音と銃声がして、聖の向けた視線の先を追って屋根に村上がいるのに気づく。小銃を構えた村上に、丸金は聖の前に飛び出して両手を広げる。
「聖さんは敵じゃありません! 撃たないでください!?」
「おい」
後ろに庇われた聖が低い声を出す。
「おい、菅原丸」
「違うんです! 違うんです! 私、話さなきゃって思ってただけで、殺すつもりなんて」
板挟みで振り返った丸金は、険しい顔で村上を睨む聖に驚く。
「あの変貌者お前の使い魔なのか」
「む、村上さんは布引さんと同じです。蝙蝠っていう死神の変貌前を切り取って顕現した人で」
聖は村上から視線をはずさずバールを構えてシザーを背中に隠す。
「あいつは駄目だ。轟先生を人気のない場所に引き離しても、俺達を付け回して先生をわざと戦場に連れて行く極悪人」
「……え?」
丸金達から再び距離をとる聖の後方から仲前が現れて小銃を構える。
「おい、そこのガキと悪ガキ丸! これ以上勝手なマネするんじゃねえ。お前もだ、蝙蝠!! 次から次へとややこしい話にしやがって」
丸金は再び聖の前に回り込んで腕を広げて弁明する。
「だから、違うんです! 聖さんは布引さんの道場の生き残りなんです! シザーに同行者がいたんです! 布引さんが、本当に、本当に大事にしていた生徒で」
「後で事情だけは聞いてやる。馬鹿過ぎ丸を叱り飛ばすのも今回ばかりは俺じゃねえ。襲ってこないガキを殺すつもりも趣味もねえ。いいか、目の前に数えきれないかの有名な大量殺戮者様がいるんだよ。平和的な話し合いがしてえなら、まずはそいつを無力化する必要があるってのを理解しろ」
聖は一歩丸金を押して仲前から離れる。
「迷彩服。ってことは菅原丸のいた基地所属の自衛隊のおっさんってとこか。だから俺がどっかの隊員に漏らしてやった先生の対処法知ってんだろ。銃構えても先生が反応しないくらい殺意消せるなんて器用じゃん。脅しになると思ってんの?」
「自衛隊舐めんなよ。殺さなくてもガキ一人くらい完封すんのはワケねえぞ」
「こっちは舐めてくれて良いんだぜ。ガキ相手にマウントとって良い気分になってくれりゃやり易い」
聖はマンホールにバールを強く叩きつけ丸金に向かって話しだす。
「菅原丸、あの蝙蝠野郎は信用するな。あんな奴が真っ当な人間なわけねえ。……轟先生の偽物が本当に先生そのままに再現された何かなら、そばから離れず守ってもらえ」
ジリジリと距離を詰める仲前と屋根から飛び降りて歩いてくる村上に空気が強く張り詰めていく。
「どうして、まだ、忠告してくれるんですか? 私、本当に大事なことまだ言えてません。私が使役術を使って殺そうとしている相手は、私の使命は」
懺悔をしようとする丸金に聖は苦笑いで首を振る。
「チビ助が危ない目に合ってたら助けてやれって轟先生に言われてる。こういうの破るとうちの先生怖いんだ。足腰立たなくなるまでしごかれちまう。怖ぇ、怖ぇ」
「私、布引さん大好きです。凄く、優しくて」
「ああ、いいな。俺も轟先生と話せりゃなあ」
切なそうに聖は顔を歪めるから丸金は堪らず少年の腕を引く。
「話してください!」
「断る。俺の先生は闇に落ちて苦しんでる本物だけだ。偶像で俺だけ救われるつもりはない。先生はそれを望むってことは分かってる。だが俺はこうも教わった」
聖はバールでマンホールをテコの原理で空中まで跳ね上げる。
「大事なもんは諦めるなってな!!」
聖はシザーを下水に蹴り落としてから飛び降りる。
「な!?」
下水道に消えた死神と少年に慌てて仲前が走り寄る。あの大きなシザーの鉈は下水の円に傷をつけつつ引っかからずに姿形を消していた。
マンホールの前にしゃがんで泣きじゃくる丸金を背に、仲前は元来た道を歩きながらタバコを咥えて火をつける。丸金の元へは村上が顔を覗き込んで話しかけていた。仲前は曲がり角まで辿り着くと壁に腕をついて咥えタバコのまま煙を吐く。
「変貌すんじゃねえぞ、クソアマ」
壁に隠れた位置で崩れ落ちた布引が声を殺して泣いていた。頭から血が流れるのを気にもせずに、涙を拭って、拭っても流れて、耐えきれずに小さな嗚咽を漏らし続ける。
「落ち着けっつってんだろ。変貌すんならこのまま殺すぞ」
布引は泣きながら笑い出す。
「あの子が生きてた。諦めて、少しも探してあげなかったのに。生きててくれた。あの子だけでも。身長だって、あんなに伸びて。あんな風に強くなって。痛かった。十年ぶりに、脳震盪起こすかと思ったくらい」
「態度も度胸もクソ生意気そうでどっかのクソアマそっくりじゃねえか。このご時世に野垂れ死ぬでもなく死神と放浪してたとよ。馬鹿かよ」
「そう、あの子、馬鹿なの。優しくて、良い子で、凄く可愛くて」
「そうかよ」
「言わないで……」
弱々しく布引は顔を歪める。
「丸金に泣いてたって言わないで」
タバコを手に持ち替えて煙を空に向けて吐く。
「一発やらせるなら考えてやらんこともない」
少し笑って口を押さえる。
強がりでもカラ元気でも明るい顔しか見せたくない。どれだけ悲しくても辛い顔は見せなくない。不安にさせるあらゆるものを覆い隠して、誤魔化して、抑え込んで、絞め殺して。




