〇三
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まぶしい朝日で、ゲンやんは眠りから起こされた。
どうやら昨夜、キロクはカーテンを閉め忘れたらしい。
外から子供の声が聞こえてきたが、次第に遠ざかっていく。
ゲンやんは背伸びをしながら、窓から外を見る。
昨夜の雨が嘘みたいな、驚くほどの快晴だった。
ところどころ雨の跡というのか、被害はあるようだけど。
後ろを見ると、キロクは布団で大いびきをかいているが、セーハチの姿はない。
外に出てみれば、セーハチは外の水道で顔を洗っている。
「おはよう」
そう声をかけようとした時だった。
ゲンやんは、遠くのほうを何台もの車が走っていくのを見る。
車はいずれも、かなりの速度で荒女山のほうへ向かって行くようだ。
無意識のうちに、ゲンやんは車を目で追っていた。
「やあ、おはよう!」
そんなゲンやんの不意をつくように、誰かがその肩を叩いた。
振り向くと、キラキラとした大きな瞳が二つ、ゲンやんを見ている。
「ゆうべはよく寝れたかな?」
大きな口に笑顔を浮かべて、真澄はそう尋ねてくるのだった。
「実は、あんまり」
ゲンやんは小さく笑って、頭をかいた。
雨のせいか、昨夜はおかしな夢を見てしまい熟睡しきれなかった。
睡眠時間はけっこうあったはずなのに、全身に疲労感がある。
そうしているうちに、また二、三台の車が荒女山へと走っていった。
水道前では、セーハチがタオルで顔をふいている。
「なにかあったの?」
「くわしいことはわからないけど、崖崩れあったみたい」
荒女山を見ながら、真澄はその濃く太い眉をひそめた。
「がけくずれ!?」
しれっと語られた物騒な言葉に、ゲンやんはつい大声を出してしまう。
昨日ここへ来る途中、何度も崖下の道路を通ったのだ。
人工的に整備されているとはいえ、何かあれば大惨事になってもおかしくない。
もしかすれば、自分も巻き込まれていたかもしれない、と思ってしまう。
「怖い?」
少し目を細めて、若干意地悪な声で真澄は言った。
「そりゃあ、怖いけど……」
「当然だよねえ。あたしだって怖いもん」
真澄は肩をすくめて、もう一度荒女山を見る。
「これじゃ、下手すると夏祭りもどうなるかわからないな。変な天気が多いし」
そんな話をしていると、また車が走っていく。
「どーもおかしいんだよね」
頭の後ろで手を組みながら、真澄が何気なく言った。
「え、なにが?」
「いや、ここってこういう山の中じゃない? だから、下のほうとは天気が多少違うこととかそんなに珍しいわけでもないんだけど……」
そう言って真澄の見上げる朝の空は、晴れ渡り白い雲がゆらゆらと流れている。
とても、昨夜台風かと疑うような雨模様だっとは思えない。
遠くに見える荒女山も、昨夜見たような不気味さは微塵もなかった。
「なーんか、天気予報が外れること多いんだよね、最近」
真澄はくるりと大きな瞳をカメレオンのように動かした。
会話をする二人の後ろを、タオルを肩にかけたセーハチが通っていく。
ゲンやんたちの会話に、特に興味がなさそうだった。
「あ、えーと……」
セーハチを呼び止めようとした真澄は、何かを考えるように視線を上に向ける。
「青江清八郎」
セーハチははっきりとした発音で、自分の名前を言う。
どうやら真澄は、セーハチの名前を忘れていたようだ。
「……そうそう、青江くん! もうすぐ朝ごはんだから」
「わかった。すぐに行くんで」
セーハチはうなずくと、少し早足で離れのほうへ歩いていく。
「ところで……僕の名前はわかるよね?」
ゲンやんは若干不安を感じながら、真澄に質問してみる。
「あー、もちろん? ゲンやん、でしょ」
「うん。それ、あだ名。じゃあ本名は?」
ゲンやんが重ねて質問をした結果、
「…………あれ?」
真澄は少し困った顔で黙り込んでしまった。
「僕は源 兵衛。ミナモト、ヒョーエだから」
黙っている真澄に、ゲンやんは痺れを切らしてそう言った。
「ああ、そうだった、そうだった。ミナモトくんね」
真澄はパンと両手を打って、照れ笑いを浮かべるのだった。
「じゃあ、早くくるようにね? さめるから」
そして、ごまかすように早口で言うと、ペタペタと母屋へと歩いていく。
真澄の足元に、昨日見たトラ猫がすり寄っていた。
「はいはい。今あげるよー」
「親戚なんだから、名前くらいおぼえろよ……」
ゲンやんは小さくつぶやいて、キロクを起こすべく離れへと戻る。
「おーい、キロク? 起きてるか?」
言いながら離れの引き戸を開けようとした途端、大柄な影がぬっと現れた。
「うわっ!」
驚いて飛びのくゲンやんを尻目に、キロクがのっそりと出てきたものである。
「おはよお……」
キロクはあくびと背伸び、両方を同時にしながらゲンやんに朝の挨拶をする。
その後ろから、セーハチはひょいと進み出ていった。
セーハチは驚いているゲンやんにかまうことなく、さっさと母屋へと歩いていく。
「ああ、そうだ。朝ごはん……」
キロクはもう一度あくびをして、半分寝ぼけながらもきちんと離れの戸を閉めてから母屋へ向かっていった。
結果、驚いてついそのままになってしまったゲンやんは一番最後に残されることに。
「……あ、おい。ちょっと待った!」
ゲンやんはあわててキロク、セーハチの後を追う。
「お前ら、勝手に先さき行くなよ」
急いで追いつき、文句を言うゲンやんだったけど、
「え? ……なんで?」
キロクはまだ寝ぼけているせいか、よくわかっていないようだ。
「別に勝手に先行ったら良かったのに」
セーハチは、本当にどうでも良さそうな顔でそう言った。
「お前らなあ……」
ゲンやんは怒りがいのない友人二人に肩を震わせたけど、やがて諦めのため息をついてから自分も朝ごはんに急ぐのだった。