8.だけど、お前は女だ
空中で自分が下になるように、ゆずるの躰を抱え込んだ。そのため、直久は背中で着地した。
「痛っ」
「直!」
「いてぇー。超、マジ、いてぇー」
「バカ。なんで、俺なんかを庇ったりするんだよっ」
ゆずるが背中をさすってくれた。それだけで痛みが引いてくるようである。
「なんでって言われても。なんとなく……」
「なんとなく?」
「んっと。ホラ。やっぱり、お前、女だし。傷なんか作ったら大変だろ?」
「女だから? 俺が女だから?」
気のせいか、ゆずるが震えている。頬が赤い。
「お前は俺が女だから庇ったりするのかよっ!」
「当然だろ。普通の男はそうゆうもんだろ?」
「俺はお前に、俺が女だからって、女として見るなって言ったよな? 女として見ることしかできないのであれば、二度と俺の前に姿を現すな、って」
「ああ、言っていたな」
それは春のことだ。ゆずるが女だと知った時に交わした会話。
直久は頭を横に振った。
「だけど、お前は女だ。俺はそのことを知ってしまったし、それを忘れるようなこともない。今更、知らなかった振りをできるほど、器用でもないしな」
「だったら――」
「だったら、姿を現すな? なんで? ハッキリ言って俺には、なんでお前が男として生きなきゃいけないのか、ぜんぜん理解できないよ。九堂家の当主は男でなければならないんだって? なんでだよ? そんなの今の世の中じゃあ、ナンセンスだろ? 女だって良いじゃんか。――そんでも、どーしてもって言うのなら、養子を取れば良いことだろ? お前が婿を取れば良いじゃん。たいたい、九堂家って、ずっと跡取り息子が生まれてきたわけ? 長く続いている家なんだろ? 女しか生まれなかった時だってあったはずだ。そん時も、女が男として生きるように決められていたわけ?」
「それは……」
ゆずるは下唇を噛み締めて、顔を背けた。
「お前には分からない事情があるんだ」
「ふーん。事情ね。俺には分からない事情なんて、俺は知りたいとは思わない。そうすっと、俺にとってお前は、俺には無関係なお前の事情で男の振りをしていることになる。だけど、事実、お前は女だし、俺には女としか見えない。それなのに、女としか見えないのなら、姿を現すなだって? ずいぶん勝手だよな」
「お前が俺を女扱いして、もし、それで他の奴らにバレたら困る」
「別に困らないだろ? 女ですって、みんなに言えばいいじゃん。んで、女として生きろよ」
「ダメなんだ」
「なんで?」
「うるさい!――今は、こんなくだらない話をしている場合じゃないだろ。霊を」
ゆずるは天井を見上げた。穴がない。たった今、二人が落ちてきた穴が空いていないのだ。
慌てて、辺りを見渡す。四方すべてが灰色の壁だった。
「閉じ込められた!?」
「ヤバイのか?」
「あの程度の霊の結界なら、すぐに破れる」
「そっか。なら、大丈夫だな」
ゆずるはその場にしゃがみ込み、先程そうしたように、床に手を置いて結界を破ろうとした。
だが、その手を直久が制する。
「話は終わってない」
「なんの話だ?」
「今、たった今まで、話していた話だよっ」
「知らない」
「……」
だんだん、ムカついてきた。
グッと力を込めて、ゆずるの手を握る。ゆずるは顔を顰めた。
「放せ、馬鹿力」
「俺はお前が嫌いだ。見ているとムカムカしてくる。すっげぇ、ムカツク。お前を見ていると、焦れったいんだよ。なんでだよ、って思う。すっげぇ、気になるんだ」
「放っておけば良いだろ? 俺が嫌いなら……」
「嫌いじゃねぇよっ!」
直久は真っ直ぐにゆずるの瞳を見つめた。
嫌い。大嫌いなゆずる。
自身で『嫌いなのか?』と問いかければ、即答で『嫌い』と答えることができる。
だけど、ゆずるから問われれば、否定したくなる。
――嫌いじゃない。
嫌いであり続けたいと思っていた。だけど、それは無理なことだった。
「お前さー、もっとしっかりした奴だと思っていた。だけど、なんか危なっかしいし、見ていると、思わず、手が出ちゃうんだ。これ、もう、無意識だから。条件反射つーの? 俺の意志関係なしに、気付いたら、お前を助けようと躰が勝手に動いちゃっているんだ」
「……」
「俺、きっとお前の事が好きなんだよ」
従姉のゆずる。 大嫌いなゆずる。嫌いで嫌いで、気になって仕方がなかった。
「――好きだ」
低く、静かに言い放つと、ゆずるは驚いたような顔をした。そして、その顔は次第に哀しげになっていく。
「お前は、俺が女だと知ったとたんに、そういうことを言うんだな」
「ゆずる?」
「気持ち悪い」
直久は息を呑んだ。何と言い返したら良いのか、分からなかった。
▽▲
「ごめん」
霊に閉じ込められた空間から脱出すると、再会した数久にすぐさま謝られた。
「説得しようかと思ったんだけど、交渉決裂しちゃった」
「それで、逃げられたのか? 問答無用で除霊しないからだ」
お優しい数久のポリシーは、『霊に自ら成仏させる』なもんで、まず話し合いをするのが数久のやり方なのだ。
ゆずるは先見を喚んだ。
「霊を見つけてくれ。――いいから、早く行け!」
うるさそうに、片手を振って先見を追い払う。直久には先見の姿が見えないので、どのようなやり取りをされているのかは、不明である。
しばらくあって、ゆずるが駆け出した。どうやら、霊を見つけたらしい。直久も後を追った。
そこは、子ども部屋だった。小さなベッド。小さな本棚、そして、勉強机。
他の部屋の荒れようと比べ、この部屋だけは異様に綺麗だった。まるで、今でもそこに子どもが生活しているかのようだ。
やはり追ってきた数久が印を結んだ。空気が変わる。結界を張ったらしい。
これで、この場所は、ゆずると数久が有利とする空間となったのだ。
不意に声が響いた。子どもの声だ。
『――外に出てみたかっただけなのに』
どこから?
姿を探して、辺りを見渡す。気配が身動きした。直久はベッドの下を覗き込んだ。
――いた!
しかも、バッチリ見えたのだ。白塗りでもしたかのように異様に白い顔がベッドの下に浮いて見える。血走った目をギョロギョロさせて、直久達を見上げていた。
『――外に出てみたかっただけなのに』
男の子は直久達が見守る中、ベッドからゆっくりと這い出て来た。
ピシャン。
この場に不似合いな水音に、直久はハッとする。男の子は全身びしょ濡れだった。
歩く度に水が滴り、床に足跡が付いた。
ピシャン。
男の子は窓際に寄る。外を眺めた。
『――外に出てみたかっただけなのに』
窓から外へ身を乗り出した。一瞬、蛍の光が見えた気がした。
そうして、気付いた時には窓の外に両足が見え、下へ下へと落ちていった。
慌てて窓に駆け寄り、下を見やった。暗闇だった。
「直ちゃん、下に降りてみよう」
北西の隅の部屋に梯子を立て掛けてあった。そこから、庭に降りるようにと。――それがこの部屋だったのだ。
直久は梯子を降り、庭に立った。男の子を捜して、辺りを見渡す。
「こっちだ」
ゆずるが先だって駆け出した。
家に沿って庭を行くと、池がある。ゆずるは池の前で足を止めた。黒ずんだ水。ひどく臭う。
「この池は、母親が男の子を慰めようとして、造らせたものみたい。蛍を飼っていたんだ」
「蛍を? ――だけど、蛍って、綺麗な水にしか棲まないんじゃ」
「元々は綺麗な池だったんだよ」
ゆずるは池の中に手を突っ込んだ。すると、見る見るうちに、水が澄んでいく。
「見ろ。見つけた」
澄んだ水の中、男の子が上を見上げているのが見えた。
水を吸った躯はふやけ、大きく膨らみ、もはや人の形を留めてはいないが、確かにそれはあの男の子だった。
「外に出たくて、窓から飛び降りたんだ。そしたら、蛍の光が見えて、この池に来た」
「そして、この池に落ちた」
「不意に死にたくなったみたい。生きている意味を見失って。――だけど、死ぬのは苦しくて、怖くて、思い直して助かろうとしたんだけど、水草に足を取られ、結局、溺れちゃったんだね。可哀想に。誰にも見つけて貰えなくて、ずっと、ここにいたんだね」
「――だからって、ひでぇ悪さするよな」
「な、直ちゃん!?」
「ガキだからって、甘ったれんなよ。俺はなぁ、マジで、ダチや仲間が虫ごときに喰われちまったのかと思ったんだからな。ダチを失うのかと思ったら、すっげぇ怖かったし、そん時に何もできなかった自分がすっげぇムカついた」
直久は池の中を覗き込んで、尚も大声を張り上げた。
「家から出たかったんなら、母親にちゃんとそう言えば良かったんじゃねーか。ちゃんと向き合って、言えば良かったんだよ。自分の人生だろ? 自分でどうにかしてみろよっ!」
バシャン、と池の水が波立った。白い顔が浮かび上がる。ジロリと直久を睨んだ。
『だから僕は壁を破ったんだ。自分の力で!』
男の子の霊が悲鳴を上げる。
霊が怒ると温度が下がると言うが、確かにそんな気がしてきた。ぞっと鳥肌が立つ。
だが、直久だって負けない。
「なんだよ、壁って!? 次元を距てる壁か?」
鈴加の話に出てきた『壁』のことだ。
この世とあの世、そして、他の多くの世界とは次元が異なるという。だからこそ、世界は交じり合わない。鈴加は、次元を『壁で区切られた空間』と例えていた。
直久は霊を睨み返した。
「それとも、能力の壁か? 年齢の壁。性別の壁。『壁』つってもな、いろいろあるじゃねーか。お前は、破る壁を間違えたんだよ!」
不意に死にたくなっただってぇ?! ふざけるな! 死んでどうする? 死んで!
「お前、まだ8歳だったんだろ? なんで死のうだなんて思うんだよ。まだまだ人生長いじゃないか」
『生きていても面白くないから』
「死ねば楽しい事が待っているのかよっ」
『待ってなんていなかった……』
「だろ?」
『生きたい。もっと生きたい』
直久はゆずるに振り向いた。ゆずるは首を横に振る。
「お前はもうあちら側のモノなんだ。お前が破り、通り抜けた『壁』は、もう二度と通り抜けることを許されないものだったんだ」
「……でも、大丈夫だよ。転生システムがあるから」
――数。なんだ、それ?
弟のあんまりの言葉に、直久は顔を引きつらせた。
おそらく生まれ変わりのことだと思う。鈴加の知り合いに、前世の記憶があるという人がいるらしいから、本当に人は生まれ変わりをするのだろう。
「霊界で魂を清めたら、また生まれ直すことができるんだって」
『本当に?』
「うん」
納得したのか、男の子は顔に笑みを浮かべた。
ゆずるが瞼と閉ざし、印を結んだ。空が歪んだ。その空を指す。
「行け。お前のあるべき場所に!」