第八章 幸せと恐怖
芳樹は、数度躊躇ってから、呼び鈴を押した。
インターホンから「鍵開いているから入って」と声が聞こえて、芳樹は、ドアノブに手を掛けた。
ここは、兄夫婦の住むマンションの部屋の前だ。約束通り、夕飯を御馳走になりに来た。
悠斗に失恋したことや、気味の悪い贈り物のことが気がかりで、とても人に会う気分ではなかった。
だが、義姉はすでに、料理を用意してくれているだろうし、突然キャンセルをして迷惑はかけたくない。
芳樹はノブを掴んだまま、心の中に冷たくわだかまる黒い影を押さえるように呟いた。
「いつものようにしなきゃ」
いつもの、湧井芳樹にならなければいけない。兄夫婦の前で暗い顔など見せれば、いらぬ心配をかけてしまう。幸せな兄夫婦の負担になるようなことだけは、絶対にしてはならない。
「今から、俺はいつもの湧井芳樹だ」
口に出して、芳樹は意識を切り替えた。
感覚的には、演技のスイッチを入れたといったところか。
今から芳樹は兄達の前で見せる『いつもの自分』を演じるのだ。
ドアを開いて、玄関の中に入った。
「こんばんは」
声を上げると、廊下の奥にあるドアが開いて、小さな人影が走り出てきた。
突進してくる子どもを目にとめて、芳樹は靴を脱いで持っていた荷物を床に置いた。
膝をついて、抱きついてきた小さな体を受け止める。
「よっくーん。いらっしゃーい」
甥の晴樹だった。くりくりとした大きな目は母親似。口元は兄の秀樹にそっくりだ。
叔父の欲目を抜きにしても、かなり可愛い子どもである。
芳樹はそのまま彼を抱き上げた。
「わっ! 高ーい」
きゃきゃと喜ぶ甥っ子に、重く沈んでいた心が少し軽くなる。
「晴樹、またちょっと大きくなった?」
前に抱っこした時よりも重くなった気がして、彼を覗きこむように問いかけた。晴樹は笑顔を作った。
「この間ね、背、測ったらね、ちょっと大きくなってたよ」
そう、と相槌を打った芳樹の耳に、女性の声が届く。
「いらっしゃい、よっくん。そんな所でお話してないで、部屋に入って。秀くんももう帰ってきてるのよ」
パタパタとスリッパの音を響かせて、義姉の恭子が芳樹のもとへやってきた。
晴樹と良く似た大きな目を、芳樹を見て嬉しそうに細める。
そんな義姉に、芳樹は足元に置いていた荷物を視線で示した。
「これ、お土産です。お菓子と、義姉さんに化粧品」
芳樹が言うと、恭子は足元に置いてあった二つの紙袋を手にとって、小さい方の紙袋の中を覗いた。
「わぁ。美王化粧品の……」
「この間、CM撮影のとき、試供品をいっぱいもらっちゃって。俺は使い道ないから、よかったら義姉さん使ってください」
芳樹が微笑むと、恭子は嬉しそうに頬を紅潮させた。
「ありがとう、よっくん。これで、しばらく化粧品買わなくてすむわ。節約、節約」
歌を口ずさむように、節約、節約と連呼しながら、恭子はリビングへ向かって歩き出した。
晴樹を抱っこしたまま、リビングに入ると、兄の秀樹がダイニングテーブルの上に並べられた豪勢な料理を、つまみ食いしている所に出くわした。
「あ、秀くん。つまみ食いはダメって言ったでしょ」
恭子がぷーっと頬を膨らませる。子どもっぽい仕草が、童顔の彼女には良く似合った。
確かに、部屋には食欲をそそる良い匂いが充満しているし、つまみ食いしたくなる兄の気持ちは分からないでもない。
しかし、子どもの前でつまみ食いは、やはりまずいだろう。
「わるい。あんまり美味しそうだったからさ。実際、美味しかったよ」
秀樹は、妻に甘い声をかける。恭子は、本気で怒っていた訳ではないらしく、口ではもうっと、文句を言いつつも笑った。
相変わらず、アツアツだな。
芳樹はそう考え、晴樹を床に下ろした。
晴樹は、父のもとへ走ると、足に抱きついた。秀樹は晴樹の頭を撫でる。
「パパ、よっくんと、ゲーム。ゲームしていい?」
「だーめ。ご飯が先だ。芳樹、よく来たな。最近顔出さないから、寂しかったぞ」
秀樹は息子から、弟へと目を向けた。精悍な顔立ちの秀樹と、柔らかい雰囲気の顔立ちをした芳樹は余り似ていない。
「ごめん。最近忙しくって」
芳樹は曖昧に笑顔を作った。
せっかくの料理が冷めてしまうから。と、いう義姉の言葉で、夕食が始まった。
夕食の席は終始にぎやかだった。
芳樹は当たり障りのない近況を述べ、兄は会社の愚痴を面白おかしく芳樹に話してくれた。
食事を終え、芳樹の手土産のケーキが、食後のデザートとして食卓に饗された。
晴樹が、アニメが見たいと言い出し、テレビを見ながらケーキを食べることになった。
テレビにくぎ付けになっている晴樹の頬に、生クリームがついていることに気付く。芳樹はテレビから視線をはずして、晴樹の頬についているクリームを指でぬぐって舐めた。
『恋する女の、誘惑のルージュ』
テレビから、そんな声が聞こえて、芳樹はびくっと体を震わせた。
そっとテレビ画面に目を戻すと、案の定、芳樹が女装して出演している、美王化粧品のCMだった。
「うわっ、ちょ、消して、テレビ」
慌てて芳樹は声を上げた。
だが、兄の家族は芳樹の声を一切無視して、画面を食い入るように見つめている。
『あなたは、どの色で誘惑する?』
そんな台詞とともに、CMが切り替わった。
内心ほっとしたが、それでも恥ずかしいには違いない。隠れる場所があれば、速攻その場所に逃げ込んでいただろう。
「何、恥ずかしがってるんだ。別にいいじゃないか。綺麗なんだし。会社でも評判いいぞ」
兄が、ニヤニヤした笑い顔を向けてくる。
「ねぇ、よっくん。あのCMの声も、よっくんじゃない?」
義姉の問いに、芳樹は頷いた。
そう。CMのナレーションも、芳樹が担当していた。
隣に座る晴樹が、芳樹の袖を小さな手で、引っ張った。
「ねえ、よっくんは、女の人なの?」
「えぇ?」
真剣な表情で見つめてくる晴樹の幼い顔を、芳樹は驚いて見つめた。
「よっくんが、女の人だったら、ボク、よっくんをお嫁さんにしてあげるね」
思いもかけない、甥っ子の言葉に、芳樹は唖然とした。
兄と義姉は、息子の言葉に大爆笑である。
笑ってないで、なんとか言ってくれと芳樹は思う。
だが、二人は、何も言葉を挟む気はないようだ。笑いながら、芳樹を見ている。
芳樹は、苦笑した。
「えーっと、晴樹。俺は、男だよ。だから、結婚はできないなぁ」
「えーっ。でも、よっくん、テレビでは、女の人でしょ? 変身したの?」
腑に落ちない顔付きで、晴樹は問う。
「んー、変身っていうか、その……」
芳樹は助けを求めるように、兄を見た。
兄は、ようやく笑いを納めて、息子に声をかける。
「晴樹。よっくんは、女の人じゃないよ。お仕事で、女の人の格好をしただけだ。だから、晴樹と結婚できない。けど、よっくんは晴樹の叔父さんだし、結婚しなくても家族だから」
聞き慣れた優しい口調。暖かな兄の声が、胸に沁みる。
晴樹は納得できないのか、首を傾げた。
「えー。よっくんは、おじさんじゃないよ。お兄さんだよ」
「晴樹、おじさんっていっても、年をとっているってことじゃなくて、よっくんは、パパの弟でしょ。だから、パパの弟は、晴樹の叔父さんになるのよ」
恭子が教える。晴樹は大きな目をさらに見開いた。
「えっ。よっくん、パパの弟なの?」
晴樹は、持っていたフォークをぐっと握って、驚きの声を上げた。
驚くのはそこなのか。今まで、晴樹は芳樹の事を何だと思っていたのだろう。
芳樹の疑問に、晴樹は当たり前のように答えた。
「だって、よっくんは、よっくんでしょう」と。
晴樹にとって、芳樹は、アイドルの『ヨシキ』でも『叔父さん』でも『パパの弟』でもない。ただの『よっくん』なのだ。
芳樹はそれがなんだかすごく、嬉しかった。この家に入る前に、自分の中で、いつもの芳樹を演じようとスイッチを入れた。それでも、胸の奥底で燻っていた黒い影。その重苦しい影が、随分、薄らいだような気がした。
食後のデザートを食べたあと、晴樹が疲れて眠ってしまうまで、テレビゲームをして遊んだ。
時刻は九時をとうに超えていて、電車で帰ると言った芳樹を、半ば無理やり、兄は車に乗せた。
車を芳樹の自宅マンションがある方向へ走らせながら、兄が芳樹に声をかける。
「芳樹。荷物って、何のことだ?」
何気ない口調の問いかけ。
芳樹は思わずはっと息を飲んだ。
車が、赤信号で止まった。
兄は、運転席から、助手席に座る芳樹の顔を見る。芳樹は俯いた。
「何か、悩み事でもあるのか」
悠斗の顔と、昨日今日と立て続けに届いた、謎の贈り物が脳裏に浮かぶ。巾着袋に入っていた、黒髪を思い出して、体が震えそうになった。
兄に、話してしまおうか。
そんな誘惑に駆られる。
悠斗の事は別として、謎の贈り物のことなら、兄に話してしまってもいいかもしれない。
兄なら、きっと芳樹を心配して、なんらかの手を講じてくれるだろう。
けれど。
青信号になった。車がゆっくりと動き出す。
芳樹は顔を上げた。
「悩みがないとは、言わないけど、そんな深刻なものじゃないし。大丈夫。あと、荷物のことだけど、差出人が誰か分からないのが届いて、知り合いにかたっぱしから聞いてただけだから」
兄は、少し間を開けて、答えた。
「そうか。で、送り主は誰か分かったのか?」
「うん。友達だった。差出人の欄に、名前書き忘れたみたい」
芳樹は嘘をついた。
兄は、騙されてくれるだろうか。
ドキドキとしながら、兄の言葉を待つ。
「そうか。なら、よかったな」
兄の言葉に、胸をなでおろした。
兄に迷惑はかけられない。それでなくても、芳樹は兄に面倒ばかりかけてきた。これ以上、兄に甘える訳にはいかないのだ。
兄は結婚して、一児の父となった。幸せな兄の家族。余計な面倒事に、巻き込む訳にはいかない。
これは、自分の問題なのだ。
自分で、解決しなければならない。
「着いたぞ」
肩を揺すられて、芳樹は目を覚ました。いつの間にか、眠っていたようだ。自身が思っている以上に、疲れていたのかもしれない。
車は、マンションの前に停まっている。
「ありがとう」
礼を言って、車を降りると、なぜか兄まで下りてきた。
兄は、車の前を回って、芳樹の正面に立つと手を広げた。
芳樹は苦笑した。
兄の意図を察したのだ。
芳樹は兄に抱きついた。
知らない人が見れば、驚くだろう。夜とはいえ、男同士が、路上でどうどうと抱きあっているのだから。
だが、コレは芳樹と兄との間で、昔から良く交わされていたハグである。つまり、挨拶だ。
いってらっしゃい、おかえりなさい、おやすみなさい。そのたびに、ぎゅっと抱きしめられた。
「おやすみ。芳樹。体に気をつけて。たまには、家に顔だせよ」
兄の、昔から変わらぬ優しい声音が耳をくすぐる。十三歳年上の兄は、芳樹にとって、父のような存在でもある。
芳樹は、うんと返事をして兄と離れた。
去って行く、兄の車を見送ってから、芳樹はマンションへ入った。
部屋に着き、リビングの電気を点ける。
その直後。電話がなった。
携帯電話ではなく、固定電話の方だ。
「もしもし」
『今まで、あの男と一緒だったのか』
掠れたような、低い男の声が、受話器から聞こえてくる。
怒気のこもったその声に、芳樹はただでさえ冷えていた部屋の温度が、一気に下がったような錯覚に陥った。
「誰?」
受話器を握る手が、震える。
あの男って誰のことだ?
兄と一緒に居たところを、電話の相手は見ていたということか?
『今度浮気したら、ただじゃおかない』
浮気という単語に、違和感を覚える。
どこかで聞いたことがあるような気がするが、思いだせない声。
『二度目はない』
そう言って、電話は一方的に切れた。
ツー、ツーっと、受話器から音が漏れ聞こえる。
呆然と通話の切れた受話器を見下ろした。
芳樹はゆっくりと背後を振り返る。
そこには、テーブルに置きっぱなしになっていた、巾着とクマのぬいぐるみが仲よく並んでいた。