第七章 自分の気持ち
随分と体がだるい。
芳樹は瞼をゆっくりと持ち上げた。
芳樹の寝室にはない家具が目に映る。
ここは、どこだろう。
そう思った刹那。
昨夜の出来事が、芳樹の脳裏に蘇った。
「うわっ」
余りの恥ずかしさに、芳樹は声をあげて上半身を起こした。
ベッドがその急な動きに、抗議するように音を立てる。
腰が鈍く、痛みを訴える。尻の間にも、何かが挟まっているような違和感があった。
夢じゃない。
芳樹は自身の体に視線を落とした。精液で汚れていたはずの体は綺麗だった。
芳樹は数瞬躊躇ったあと、後に手をやった。
悠斗の白濁を飲みこんだはずの後も、その名残はなかった。
悠斗が綺麗にしてくれたのかな?
行為が終わったあと、芳樹は半ば気絶するかのように眠ってしまった。
悠斗はどこへ行ったんだろう。
芳樹は一人で眠っていたようだ。ベッドに、本来の持ち主である悠斗の姿はない。
「おう、起きたか」
悠斗が寝室のドアを開けて姿を見せた。しっかりと身支度を整えている。
なんだかすっきりとしたその顔を見て、芳樹は思わず視線を逸らした。上掛を胸元へ引き寄せる。
悠斗はそれには構わず、ベッドの縁に腰を下ろすと、芳樹の顔を覗きこんだ。
目が合い、心臓の音が煩いくらい、高鳴った。
「気持ち良かっただろ?」
昨夜の行為のことだと、すぐに分かった。芳樹は逡巡のあと、頷いた。
見栄を張ったところで、自分が悠斗の愛撫に返した反応を、彼は全て知っている。
「いいか、ヨシキ。いくら気持ち良かったからって、他の男に抱かれようとか、考えるなよ」
芳樹は驚いて、悠斗を見返した。目が合った途端、昨夜の情事が思い起こされ、恥ずかしさにいたたまれなくなり、目を伏せた。
「他の男と寝たって、俺と寝るより気持ち良くなることなんてないんだからな。ヨシキを気持ち良くさせてやれるのは、俺だけだから」
分かったかと尋ねられて、芳樹はこれにも、素直に頷いた。
悠斗に抱かれて思い知った。
ああ、自分は悠斗が好きなんだと。
悠斗としたことを、他の男としようなんて、考えられないし、考えたくもない。
芳樹の反応に、悠斗は満足げな笑みを見せた。
彼は芳樹の左頬に右手を添えると、自身の方へ引き寄せた。
右の頬に濡れた感触。
悠斗の唇が、すぐに芳樹の頬から離れる。芳樹は、キスされた頬を片手で押さえた。
顔が熱くなるのを止められない。
ふいに、携帯電話の着信音が室内に響いた。悠斗が、ジーンズの尻ポケットから携帯電話を取り出す。
悠斗は、着信相手を確かめたのだろう。軽く舌打ちして、芳樹に背を向ける。
「もしもし」
悠斗が電話にでると、電話の相手が、怒鳴っている声が芳樹の耳にまで届いた。
女性の声だ。
胸の中が、急に冷えていくのを感じる。
「分かったよ。もう、出るって」
そう言って、悠斗は通話を切ったようだった。
芳樹の方へ向き直り、片手を顔の前に立てた。
「わるい。俺、ちょっと出かけるわ」
悠斗は、ベッドから立ち上がると、忙しなくドアへ向かう。
その背に、芳樹は声をかけた。
「女の所?」
乾いた声が出たが、悠斗は芳樹の変化に気付いた様子もなく、答えた。
「そう」
芳樹は顔を伏せた。泣きそうになった。
上掛布団をじっと見つめていた芳樹の視界に、何かが落ちてきた。
布団の上に落ちたのは、キーホルダーのついた鍵だった。
鍵を手に取り、顔を上げると、ドアの所からこちらを見る悠斗と目が合った。
「予備のカギ。まだ、体辛いだろう。もう少し寝てていいから。帰る時はそのカギ使って。明日返してくれたらいいからさ。じゃあ、行ってくる」
悠斗は笑顔を残してドアを閉めた。
芳樹はギュッと手の中にある鍵を握った。
悠斗を引き留めたかった。
でも、自分にそんな資格がないのも分かっていた。
悠斗が芳樹にキスをしてくれたのも。
抱いてくれたのも。
皆、芳樹がゲイかどうか試すため。
悠斗はそれに、付き合ってくれただけ。
口は悪いが、悠斗は優しい。
だから、好きでもない芳樹を抱いてくれたのだ。
ぽたりと、滴が上掛布団の上に落ちた。
視界が滲んでいた。
悠斗が玄関のドアにカギを掛ける音を、微かに聞きながら。
芳樹は鍵を握った拳を、眉間に押さえつけて、泣いた。
恋だと気づいた瞬間。
失恋する。
馬鹿みたいだ。
同じ相手に、二度も失恋するなんて。
本当に、俺は馬鹿だ。
芳樹は誰も居なくなった部屋で、ひとしきり涙を零した。
悠斗の部屋を出ると、芳樹は隣の自宅へ戻り、シャワーを浴びた。
その後、ベッドへと潜り込み、暗い気分のまま目を閉じた。
眠ってしまっていたのだろう。
インターホンの呼び出し音で、芳樹は眠りから覚醒した。
ベッド脇に置いている時計は、午後三時十二分を示していた。
インターホンに出ると、宅配業者だった。
荷物を受け取り、ドアを閉める。小さめの段ボール箱だった。どこから届いたのか、確認しようとして息を飲んだ。
差出人の欄には、同上と書かれていた。
ふっと昨日の記憶が蘇る。
「あれ?」
芳樹はつい、声をあげてリビングへと急いだ。
リビングへ続くドアを開けると、昨日届いていた荷物が、机の上に置きっぱなしになっていることに気づく。
色々なことがありすぎて、忘れていた。
昨日届いた荷物は、先ほど届いた段ボールよりも、さらに小さめの段ボール箱だった。
芳樹は持っていた箱を、先に置いてあった箱の横に置き、二つを見比べた。
どちらも確かに、受取人の欄には、芳樹の住所と氏名が書かれている。
差出人欄には、何度見ても同上としか書かれていなかった。
もちろん。芳樹は、荷物を送っていない。
芳樹は、本名の湧井芳樹ではなく、カタカナの『ヨシキ』で芸能活動をしている。本名は公表していない。ファンからの贈り物などは、自宅ではなく事務所に届く。本名や住所など、調べようと思えば探偵などを使って調べることができるのかもしれないが、芳樹にはそれほど熱心なファンはついていないはずだ。
芳樹は溜息をついた。
ただでさえ、悠斗のことで、落ち込んでいるのに。
芳樹の知り合いからなら、住所と氏名を知っていることに納得はできる。しかし、差出人欄に、同上と記す意味が分からない。
二つの箱を見る芳樹は、さらに、厄介な物を抱え込んだ気分になった。
箱を開けるのが、なんだか怖くて、しばらく考えたあと。
芳樹はふと思いついて、携帯電話に手を伸ばした。
五回のコール音のあとに、電話がつながった。
『はい、もしもし。湧井でございます』
女性の声が、芳樹の耳を打った。
「芳樹です」
『きゃー。よっくん! 久しぶりじゃなーい。元気だった?』
かなりテンションの高い声に、一瞬携帯電話を耳から遠ざけて、芳樹は苦笑を浮かべた。
「元気です。義姉さん達は?」
『うちはもう、すーっごく元気よー。今日はどうしたの? お仕事お休み?』
電話の相手は、芳樹の兄、秀樹の妻だ。
「はい、今日はオフです。所で、義姉さん。俺の所に荷物送ったりしてないですよね」
『荷物? さぁ。私は送ってないけど。秀くんも送ってないと思うよ。何も言ってなかったし』
芳樹の兄は、少し面倒臭がりなので、芳樹の住所を書いたあと、面倒臭くなって同上と書いたかもしれない。そう思って、電話してみたのだが、義姉の話では、違うらしい。
密かに嘆息した芳樹の耳に、義姉の声が届く。
『ねぇ。よっくん。今日、家に夕飯食べにいらっしゃいよ。秀くんも会いたがっているし、晴樹も喜ぶから』
晴喜は今年五歳になる兄の息子の名前だ。正直、今は余り人に会いたい気分ではなかったが、義姉がしつこく食い下がり、結局夕飯を御馳走になる約束を取り付けて、通話を終えた。
芳樹は溜息をついて、携帯電話をテーブルの上に置くと、一つ目の箱に手を掛けた。
悩んでいても仕方がない。
ガムテープをはがし、箱の中を覗きこむ。
そこには、小さな袋が入っていた。紐がついていて、紐を引っ張って口を絞る、いわゆる巾着だった。
手のひらサイズのそれを取り出す。何の変哲もない、黄色い布で出来ている。どうやら、手縫いのようだった。見た目にもとても、綺麗とはいえない縫い目。巾着の中には何か入っているのか、触った感触は柔らかい。
芳樹は、その巾着を一旦テーブルの上に置き、もう一つの箱を開けてみた。
その中には、ぬいぐるみと二つに折り畳まれたメッセージカードが入っていた。
ぬいぐるみは、クマのぬいぐるみで、なぜかウエディングドレスを着ている。生まれたての赤ん坊くらいの大きさだ。クマの手には、箱がついていた。
なぜウエディングドレス? と、思い、芳樹は、メッセージカードらしきものを手に取った。
書かれていたメッセージを見て、芳樹は眉を顰める。
『愛する君へ
愛の誓いを送ります』
愛の誓い?
芳樹は背筋が寒くなるような思いで、メッセージカードとクマを見比べた。可愛らしい、ウエディングドレス姿のクマ。そのクマの手に握られている箱を、触ってみる。
蓋が開いた。
中には指輪が入っていた。
まるで、婚約指輪のような、大きな、ダイヤがついた指輪。
芳樹は、指輪を取り出すことはせず、蓋を閉じた。
何だ? コレ。
混乱していた。
コレを送ってきた人物は一体、何が目的なのだ?
悪戯にしても、度が過ぎている。さっき見た指輪など、かなり高価な物のはずだ。
芳樹はふと思いついて、巾着の入っていた箱の中を覗いた。
そこには芳樹が半ば予想していたとおり、二つ折りのメッセージカードが入っていた。
恐る恐るそれを取り出してみる。
『愛しい君へ
君を一人にしないようにこれを送ります。
いつも持ち歩いてください』
芳樹は、メッセージカードから視線を上げて、巾着を見つめた。
嫌な予感がする。
芳樹は、大きく息を吐き出すと、巾着に手を伸ばした。
中を確認する。
悪寒が彼を襲った。
「ひっ」
芳樹は、巾着をテーブルの上に放り出した。
気持ちが悪かったのだ。
巾着から、中に入っていた物が、テーブルの上に少しこぼれて、散らばった。
それは、どう見ても、人の髪の毛だった。