第十六章 生還
お願い、神様。
死ぬ前にもう一度だけ。
悠斗に会わせて。
「ユウト」
名を呼んでも、会えないことは分かっていた。辺りは真っ暗で、何も見えない。もう、自分は死んでしまったのだろう。
「ヨシキ?」
不意に、聞き慣れた声が耳を打った。
唇に柔らかい感触。
「おい、ヨシキ」
自分の名を呼ぶ声。
芳樹はゆっくりと、重い瞼を持ち上げた。
焦点が合わない程近くに、人の顔があった。
一気に脳裏に記憶が蘇る。
暗い炎を宿した瞳。
狂気に満ちた男の顔。
芳樹は悲鳴を上げて、無意識に上半身を起こした。痛みが体のあちこちを走るが、それどころではない。
きつく目を閉じ、耳を塞いだ。
怖かった。
とにかく、怖い。
何も見たくないし、何も聞きたくない。
「ヨシキ、大丈夫だ。大丈夫」
不意に、芳樹の体を誰かが抱きしめた。耳を塞いだ手が、微かにずれる。
恐ろしくなって、身じろぎするが、体が痛みに悲鳴を上げてしまい、思うように動かない。
「大丈夫。大丈夫だから。芳樹、俺の声分かるだろう? 目、開けろ」
そう言って、芳樹の背を抱いていた腕が離れた。耳を塞いでいた手を強く掴まれる。
みっともなく手が震えた。
でも、この声には聞き覚えがある。
「ヨシキ。こっち見ろ」
穏やかな声音に後押しされ、芳樹はそっと目を開いた。
芳樹の目の前に、大好きな人の顔があった。
「ユ、ウト?」
悠斗が泣き笑いのような表情で頷いた。
「俺、死ぬのかな?」
死ぬ前に、悠斗に会わせてと願った。
それを、神様が聞きうけてくれたのかと思った。
それとも、もう死んでいるのかもしれない。神様が、哀れに思って、最後に悠斗の姿を見せてくれているのかも。
「ふざけんな! あんな奴のせいで、おまえが死ぬかよ」
いつものような強気な口調。
なのに、どこか悲痛な声。芳樹の胸が同調するように痛んだ。
悠斗の腕が伸びてきて、あっという間に抱きしめられる。
「俺、生きてる?」
尋ねると、自分の存在を強調するかのように、悠斗の腕に、より一層、力がこもった。
「生きてるよ。当たり前だろ」
体のあちこちが痛いが、何も言葉が出なかった。
悠斗の体温。息遣い。力強い腕の感触。
そっと、芳樹は悠斗の背に手をまわした。
確かな手応え。悠斗の温もりが掌に伝わって来る。
ああ、本物だ。
本物の悠斗だ。
芳樹は悠斗の背に回した手で、悠斗の服をぎゅっと握った。
俺は生きてる。
そう思うと、泣きそうになった。
でも、泣いてはいけないのだ。
泣いたら、醜くなってしまう。
泣いたら、汚いと何度も言われたから。
醜い姿を悠斗に見られたくない。
芳樹は涙を流すのを我慢して、悠斗の背を軽く叩いた。
「ユウト、痛い」
悠斗ははっとしたように、芳樹の体を離した。芳樹はやっと、辺りを見回すことができた。白いカーテン。白い壁。芳樹はベッドに座っており、横には点滴が吊るしてある。
その脇に置かれた椅子に悠斗は座っている。どうやら、病室らしい。そう見当をつけた。
悠斗は罰の悪い顔で、頭を掻いている。
「あっと、そうだ。連絡。連絡しなきゃ。おまえの兄ちゃんさっきまでいたんだぜ。あと、真希ちゃんと瞬にも連絡して。あ、医者にも目を覚ましたら連絡するようにいわれたんだっけ」
早口に言いながら、悠斗は立ちあがった。
その瞬間。芳樹はいいようのない不安にかられた。
無意識に、悠斗の服を掴む。
「どうした?」
悠斗に驚いた表情で見下ろされ、芳樹はうろたえた。
本当に、どうしたのだろう。
自分の行動が理解できなかった。
「一人に、しないで」
悠斗を見上げて、口走っていた。
悠斗は呆けたように、芳樹を見つめてくる。
芳樹は不意に、自分の言ったことの意味に気づいた。何と子供じみたことを言ってしまったのか。恥ずかしくなって俯く。
慌てて、悠斗の服から手を離す。その手が、温かいもので包まれる感触に目を上げる。
「ユウト?」
悠斗に手を握られていた。彼は、芳樹の手を握ったまま、ゆっくりと椅子に座りなおした。
「あの、本当にごめん。連絡、してくれるっていったのに、引きとめて」
視線をうろうろと彷徨わせていると、耳に悠斗の声が届く。
「その点に関しては、謝ってもらう必要はねぇかな」
芳樹は意味が分からず、首を傾げる。悠斗が掴んでいた芳樹の手に力を込めたのを感じて、芳樹は悠斗に視線を向けた。
絡まる視線。
「もうしばらくしたら、看護師が巡回に来る。それまでは二人でいよう。おまえは、一人になりたくないんだろ? 俺は、おまえを一人にしたくないし。看護師が来たら、頼んで皆に連絡してもらおう」
芳樹は目を瞠った。
おまえを一人にしたくないなんて、どういう気持ちで言っているのだろう。
黙って悠斗を見つめていると、悠斗はいつになく優しい笑みを浮かべた。
「とりあえず、横になれよ。おまえ、あっちこっち怪我してるんだぞ」
「怪我?」
「憶えてないか? おまえ、男に襲われたんだぞ。随分殴られたみたいだし、背中も刺されてるし……」
聞いている内に、またもや忌まわしい記憶が蘇ってくる。恐怖に体が震え、顔色を失う。握った手に震えが伝わったのだろう。
悠斗は握っていた手を引いて、芳樹の背にそっと腕をまわした。先ほどとは違い、壊れ物を扱うような優しい仕草だった。
「悪かった。思い出させて。大丈夫だから。アイツは警察に、捕まった。もうここには来ない。大丈夫。大丈夫だから」
悠斗に抱かれて、大丈夫と繰り返されるうちに、芳樹の震えは次第におさまっていった。
恐怖が去って行くと、だんだんと恥ずかしさがこみあげてくる。
こんな時なのに、自分でもどうかと思うが、顔が熱くなってくるのが分かる。
「ありがとう。ユウト。もう、平気だから」
おずおずと、声をかけると悠斗が体を離した。悠斗の体が離れることに、寂しさを覚えてしまう。
芳樹の顔を見て、悠斗が口元を緩める。
「何だよ、その顔」
「その顔って」
悠斗は芳樹の顔を指さした。
「顔、真っ赤」
からかう口調。
芳樹はうろたえて、視線を彷徨わせた。
部屋の中に、太陽の光がカーテン越しに降り注いでいることに気づく。
芳樹は話題を変えようと、試みた。
「ユウト、大学か、仕事。あったんじゃないのか?」
尋ねると、悠斗は言いにくそうに口を開いた。
「ああ、えーっと。仕事は夜に入ってる。大学は……サボった。でも、単位はちゃんととってるから大丈夫」
悠斗が芳樹から視線を逸らしたのは、芳樹が大学をさぼることに対して、よく思わない事を知っているからだろう。
芳樹が非難の目を向けると、悠斗がいきなり目を合わせてきた。
「しょうがねぇだろ。おまえが心配だったんだ。俺は、少しでもおまえの傍にいたかったんだよ」
芳樹はまたもや、目を瞠った。
心配だった?
傍にいたかった?
何で?
小さい頃から知っているから?
仕事の仲間だから?
どっちにしろ、芳樹の気持ちと悠斗の気持ちは違うのだ。
悠斗は女性が好きなのだから。
それでも、悠斗が、芳樹を心配し、芳樹を思ってくれていることには変わりないはずだ。
それだけでも、芳樹は嬉しかった。
生きていてよかったと思えた。
本当に、生きていてよかったと。
芳樹と悠斗は、看護師が巡回に来るまで、二人きりで過ごした。
芳樹が目を覚ました事を知って駆け付けた瞬と真希は、号泣した。瞬が泣くかもしれないとは思っていたが、真希まで泣きだすとは予想もしていなかった。いつも、毅然としている彼女の泣き顔を見て、本当に心配をかけてしまったのだと、思い知った。
兄夫婦と、夫の転勤で大阪にいるはずの姉も、芳樹のいる病室へやってきた。兄には優しく抱きしめられ、恭子には泣かれた。そして、姉の美樹には、叱られた。
何故、相談しなかったのかと。
どうして、兄姉を頼らなかったのかと。
家族に迷惑をかけたくないなんて、どうして思うのかと。
家族には頼っていいのだと姉は言った。
気を使う必要なんてないと。
姉の言葉が、胸に染みた。