第九章 相談
兄の家で夕飯を御馳走になってから、ちょうど、一週間がたった。
その間に、再来月またCDを発売することが急遽決まった。真希いわく、今の勢いに乗ることが大事だから。と、いう理由らしい。
Winが所属するレコード会社との話し合いで、決まったとのことだ。
Winのメンバーはレギュラー番組の出演に加え、新しい曲の歌詞を憶えたり、ダンスを憶えたりと忙しい日々が続いていた。
芳樹はまだいい。レギュラー番組は一つだけ。それもバラエティー番組のナレーションである。悠斗は、別のバラエティー番組のレギュラーを二本持っているし、瞬はドラマの撮影が二本入っている。そのドラマの一つは、脇役ではあるが悠斗も出演している。
大学にも通っている二人は、芳樹以上に疲れているはずだ。
すれ違いが多く、この一週間、二人とは、ほとんど顔を合わせていない。
正直言って、それは芳樹にとって喜ばしいことだった。
悠斗と、どんな顔をして会えばいいのか、分からないからだ。
相手が自分を好きではないと知っていながら、あんなことをしてしまった。そして、勝手に失恋した気になっているのだ。
本当は、悠斗のこと以上に考えなければならないことがあるのに。
気がつくと、ついつい、悠斗の事を考えている。
芳樹は大きく溜息をついた。
一人で、ダンスレッスンをこなし、自宅へと帰ってきた。
重い足取りで、電気のついていないリビングに入ると、固定電話に目がいった。
留守録が入っていることを示すボタンが、暗い室内で、赤色に点滅しているのがはっきり分かる。
芳樹は、怖々そのボタンに触れた。
『二十四件です』
機械的な女性の声が告げる。
いつもの男の声が、電話から聞こえてきた。
芳樹は慌てて、再生を止める。
じわじわと、嫌悪と恐怖が入り混じった感情が、胸を這いあがってくる。
兄の家から帰ったあと、かかってきた男からの電話。
あれを機に、同じ男から、何度も、何度も電話が来るようになった。
ぼそぼそと低い声で話す内容は、たいしたものではない。
『きょうは天気が良いね』や、『昨日のテレビを見たよ』や、『君は今日も綺麗だね』など。
この一週間、毎日のように留守録にメッセージが残されている。
そして、夜、家に帰るとそれを見越したように、電話がかかって来るのだ。
『おかえり』と。
芳樹は、今日、リビングの灯りを敢えて点けなかった。
電話が来るかどうか、試したのである。
いつも『お帰り』という電話は、リビングの灯りを点けてからかかってきていたからだ。リビングの灯りを点けると、カーテン越しでも、通りに面したベランダへ通じる窓から灯りが漏れる。
もし、これで電話がかかってこなければ。
電話をかけてくる男は、芳樹を尾行している、もしくは、芳樹がマンションの中へ入るのを見張っている訳ではない可能性がでてくる。
男は、リビングの灯りが点くかどうか、それをどこか遠くから眺めて、電話をかけてきているのかもしれない。
今、電話がかかってくれば、少なくとも男は、芳樹がマンションの中に入ったのを見ているのだ。
すぐ近くで。
正体の分からない男が、近くにいると思うと怖かった。
男のくせに情けないとは思うが、怖いものは怖い。相手がどういう人物なのかが分からないのが、一番厄介なのだ。どこの誰で、どういう意図で、電話をかけてくるのか。相手の正体が分からなければ、対処のしようがない。
しばらくたっても、電話はならなかった。
芳樹がようやく緊張をといた時だった。
不意に、電話の呼び出し音がなった。
芳樹は、顔を強張らせた。
暗い室内に、電話の呼び出し音が響き、それに合わせて電話機のボタン部分が光る。
『帰ってきたのに、何故、電気を点けないの』
受話器を耳に当てたとたん、男の低い声が耳に届いた。
「あんた、一体誰なんだ。何で、俺が帰ってきたことを知ってる? それに、何度も何度も、電話かけてきて……」
思い切って、芳樹は疑問を口にした。
それを遮るように、男の低い声が鼓膜を震わす。
『俺は君の恋人なんだ。君が部屋に帰って来たことくらい、すぐに分かるよ』
芳樹は咄嗟に、受話器を置いた。
男の声をこれ以上聞きたくなかった。
気持ち悪い。鳥肌がたつ。
誰とも知らぬ相手から、恋人だと名乗られることが、これほど恐怖を呼ぶとは思ってもみなかった。
暗い室内にいるのが怖くなって、慌てて灯りを点けた。
明るい光がリビングに降り注ぐ。芳樹は、電話線のプラグを壁から引き抜いた。
荒い呼吸を繰り返し、ソファーに腰掛ける。
大きな息をついて、芳樹は自然と視線をある一点に向けた。
リビングの片隅に、段ボールが積まれている。
それは、あの男からのプレゼントだと、今の芳樹は知っている。
電話で男は言ったのだ。
『プレゼントは、気にいった?』と。
宅配便で届く、その『プレゼント』は、ほぼ毎日のように芳樹の家に送られてきていた。
相変わらず、差出人欄には同上と記してあった。
送られてくる箱の中には、以前、芳樹が雑誌の取材で、何気なく今欲しいものとして上げた物や、一目で高いと思われる時計など。様々だ。
芳樹は、五つ目で、箱を開くのをやめていた。現在七つの箱が部屋にあるが、二つは未開封だ。
中を見たくなかったのだ。
昨日、電話で、もう送らないでくれと、芳樹が言ったからかどうかは分からないが、今日は宅配便が来た様子はなかった。
だが、それもたまたまかもしれない。
電話の音を聞くだけで、胃が重苦しくなる。宅配便が来るのも、ストレスになっていた。
やめてくれと言ったが、プレゼントが送られてこなくなるとは限らない。
ここまで来ると、さすがに自分一人の手には余る。
かといって、兄に相談する気は、芳樹にはない。
悠斗の顔が思い浮かんで、芳樹は頭を振る。悠斗になんか相談できる訳がない。ただでさえ、悠斗には迷惑をかけてしまったし、仕事と学業の両立で忙しい。余計な面倒はかけたくない。
「やっぱり、真希ちゃんかなぁ」
さんざん考えた結果、芳樹が思い浮かべたのは、頼りになるマネージャー。このまま放置していると、事務所やメンバーに迷惑をかけるかもしれないし、報告するべきだろう。そう考え、芳樹は、もう一度大きく息を吐き出した。
翌日。久しぶりに、三人そろって、新曲の振りつけを練習した帰り。真希の運転する車の中で、隣に座る悠斗が、芳樹に声をかけた。
「ヨシキ、何か、顔色悪くねぇ?」
悠斗の態度は、前と全く変わらなかった。悠斗の中では、芳樹を抱いたことなど、取るに足りないことだったのだろう。
そう思うと、泣きそうになった。
「あ、俺もそう思ってた。疲れてる?」
助手席から、心配そうにこちらを振り返る瞬と目が合う。
芳樹は慌てて、笑顔を作った。
「そんなことないよ。疲れてるのは、おまえたちの方だろう」
悠斗は、ニヤッと笑った。
「まぁ、ヨシキは俺達より、ジジイだからな」
「ユウトは、一つしか違わないだろう」
芳樹は、いつも通りにと心掛けつつ、悠斗に反論してから、瞬に声をかけた。
「シュン。悪いけど、今日真希ちゃん貸して」
「え?」
瞬が驚いた顔をこちらに向ける。
「ちょっと、ヨシキ。私は、シュンの物じゃないのよ」
怒った声を出した真希に、芳樹はゴメンと謝る。
「で、要件は?」
真希に尋ねられて、芳樹は言葉に詰まった。ここでは話せない。
黙り込んだ芳樹をどう思ったのか、瞬が心配そうな眼差しを向けてきた。
「ヨシ兄。いいよ。真希ちゃん貸してあげる」
「ありがとう、シュン」
芳樹は微笑んで、礼を言った。
「だから、私は物じゃないっつーの。何で、いちいちシュンが許可だすのよ」
「だって、真希ちゃんは俺のだもん」
悪びれもせず、瞬が真希は俺の物宣言して、さらに真希の怒りを煽っている。
芳樹は、窓に額をつけて、目を瞑った。車の振動が、額に伝わってきた。