踊るマッドハッターと神様について
ぼんやりと見上げた空は生憎な灰色で、まるで世界そのものだ。
打って変わってここマーチラビットの一室は、いかつい男と華奢な男のせいで、驚くほど真っ白に染まっていた。
「やっべえ、やべえよコレ!どうすんだよ!」
華奢な男、鹿角が自身も真っ白になりながらわあわあと騒ぎ立てる。
「どうするって……どうにか出来るかコレ?」
いかつい男、雅も同じく真っ白になったまま、破かれ散らばったそれを呆然と眺めていた。
僕はというと、それを傍観しながら、かりかりと乾パンをかじっている。
「トール、乾パン食ってる場合じゃねえから!」
「だって僕は何もするなって」
「誰が!」
「玲子さんが」
味気ない乾パンを口に運びながら応えれば、ああ……と思い出したかのように鹿角が遠い目をした。
舞い散る粉を吸い込んだせいか、それとも別の理由かは知らないけれど、恐ろしくパニックに陥る二人を横目に、知らず知らず、少しだけ顔をしかめる僕がいた。
残りの乾パンをがりっと奥歯で噛み締めて、睨んだ先の粉は、幻想的で苛々してくる。
この世界は歪んでいて狂っているんだと、ずっと僕は思っている。
末恐ろしいのはいつだって人間で、それを何かのせいにするのも人間だ。
戦争、進化、または退化など、都合のいい口実を見つけてはやんややんやと騒ぎ立てる。
バカみたいだ。
「トール、吸うなよ!」
「……うん」
慌てた雅が急いで寄越したマスクを口に当てながら今さらだとも思ったけれど、それは言葉にしなかった。
世界は歪んで狂っている。
この部屋に舞う白い粉『マッドハッター』も、そんな中で蔓延した歪みの一つに違いなかった。
『イカれ帽子屋』とはよく言ったものだと、そこそこ関心もする。
ドラッグはそれこそ僕の知るよりずっと前から世界を蝕んでいただろうけれど、それらより安価に手に入り、それらよりよっぽどハイになる。
煙草より依存性が低いというけれど、結局こうして蔓延しているのだから、どんぐりの背比べだと思った。
「『マッドハッター』ね……」
ハイになるのはドラッグか世界か。
踊らされているのは果たして何か。
蔓延する絶望と、それでもと渇望する一時の現実逃避を比較したところで、どちらがしあわせかなんて、答えは出ない。
僕には関係ないけれど、それでも救われる誰かがいるのだろうか。
ガリ、と齧った乾パンは、やっぱり味気なかった。
「おまえさーポテチくらい買ってやろうか?」
「確かに!なんで乾パンなんか食ってんだよ!ウケんなおまえ!」
何かを見かねた雅が、憐れんだ目で僕を見る。
続けた鹿角はまだハイらしく、爆笑しながら手を叩いた。
「オレが買ってやる!この鹿角様が!神様と呼べよトール!」
やっぱりハイだ。
完全にイカれ帽子屋だ。
「バッカ!神様なんていねえよ!」
「えーいるし」
「いねーよ。いたらあれだ、オレら超金持ちなってる」
「いーるーしー!オレだしー!ぎゃはははは!」
神様はいるか、いないか。
神様は────いると思う者にはいて、いないと思う者であっても、否定することで存在を浮かび上がらせる。
「いーるーしー!」
「いないし!」
……まだやってる。
二人を眺めて、寂れた窓から見える世界へと視線を移せば、荒廃も退廃も嘘のような、それでいてやっぱり僅か錆びれた超高層ビル群が視界に入る。
神様は────。
「うるさいし。じゃあ、後で買ってよ鹿角」
「うっし!神様って呼べよ!」
イカれ帽子屋にイカされた彼は、満面の笑みで親指をびしっと立てた。
ちょっとだけ笑ってしまったけれど、ふいに頭を過ぎった人物に、気持ちはすぐ冷めてしまった。
あれはいつだった?
白く白い世界は不自然な清潔さに包まれていて、そこでなお白い、取り立てて不自然な清潔さを纏った部屋で、白衣を着た〝彼女〟が笑う。
「ねえ、トール。あなたは、神様っていると思う?」
傷だらけの僕を、痣だらけの僕を、〝彼女〟はただ、薄く笑ってそう言った。
僕はなんて答えたんだったっけ。
「神様は────」
────神様は。