殿下、訂正後の原因欄をご確認ください
昼前の廊下には、薄い光が差していた。
セラフィーナ様とリュミエール男爵が退室した後、私はしばらく自分の指先を見ていた。
震えてはいない。
けれど、少し冷たい。
今日の事実確認で、泣いた人はいなかった。
誰かが声を荒らげることもなかった。
謝罪も、罵倒も、和解もなかった。
ただ、記録が読まれた。
私信が確認された。
公式要請ではないものが、公式要請ではないと分類された。
そして、セラフィーナ様の名前は、少しだけ正しい場所へ戻された。
それだけのことだった。
でも、それだけのことをするために、どれほど多くの紙と人が必要だったのか。
私は予定表を閉じ、日程室へ戻ろうとした。
その時、ベネット卿が隣で足を止めた。
「クラウゼン嬢」
「はい」
「午後の予定が一つ変わる」
胸の奥が、反射的に固くなった。
予定が変わる。
その言葉に、まだ体が反応する。
「何が変更に」
「午後三時半、王妃陛下秘書官室と会計監査室による、王太子殿下への訂正原因欄の確認が入る」
「殿下へ」
「ああ」
ベネット卿は短く頷いた。
「午前中の事実確認中に、法務官室の書記官がその場で訂正案の下書きを作成していた。終了後、会計監査室と王妃陛下秘書官室が照合し、王妃陛下の即時裁可を受けたため、この速度での確認となった」
「かなり早い処理ですね」
「早い。だが、先送りにすれば、王太子府側が別の説明を作る時間を与えることになる」
その言葉に、胸の奥が静かに冷えた。
これは、ただの事務処理ではない。
逃げ道を塞ぐための速度なのだ。
「王太子殿下には、申告者としてその訂正案を確認していただく」
申告者。
その言葉が、ずしりと重く聞こえた。
セラフィーナ様ではない。
私でもない。
王太子殿下。
予定変更の理由を申告した人。
「私は、同席するのでしょうか」
「基本的には同席しない」
少しだけ息が抜けた。
だが、ベネット卿は続けた。
「ただし、記録作成者として待機命令が出ている。必要な場合に限り、補足を求められる」
「承知いたしました」
「繰り返すが、君は当事者ではない」
「はい」
「殿下から直接何か言われても、勝手に答えるな」
「はい」
「質問に答えるのではない。監査の問いに答える」
私は小さく頷いた。
「承知しております」
そう答えたのに、胸の奥は落ち着かなかった。
王太子殿下と同じ建物の中にいる。
それだけで、まだ少し呼吸が浅くなる。
名前を呼ばれたら。
責められたら。
昔のように、私だけを見て「頼む」と言われたら。
もう戻らないと決めたはずなのに、体のどこかが先に怯える。
「クラウゼン嬢」
ベネット卿が、私の顔を見た。
「今、何を考えた」
「……殿下に、何か言われた時のことを」
「なら、先に答えを決めておきなさい」
「答え、でございますか」
「君が答えるべきことは一つだけだ」
ベネット卿は淡々と言った。
「求められた記録についてのみ、事実を述べる。それ以外は、担当者へお尋ねください。これでいい」
私は、その言葉を頭の中で繰り返した。
求められた記録についてのみ、事実を述べる。
それ以外は、担当者へお尋ねください。
簡単な言葉だ。
けれど、私には難しい。
私はずっと、担当者ではないものにまで答えてきたから。
「分かりました」
「分かるだけでは足りない」
「……使います」
「よろしい」
少しだけ、息がしやすくなった。
日程室へ戻ると、午前の事実確認の余波はすでに届いていた。
若い書記官たちは、口には出さないが、視線で状況を追っている。
誰の名が残るのか。
誰の責任になるのか。
王太子殿下はどうなるのか。
王宮の中で起きることは、紙より先に空気で広がる。
だからこそ、正式な紙が必要になる。
空気だけで物事が決まらないように。
「クラウゼン様」
ノエルが小さな声で近づいてきた。
「外務儀典局から、今夜の晩餐席次の最終案が届いております」
「ありがとうございます」
私は書類を受け取った。
晩餐。
隣国使節団。
港湾通商。
神殿訪問後の挨拶。
本来、今日の午後はその準備で埋まるはずだった。
王太子殿下の件だけで、王宮が動いているわけではない。
国は止まらない。
公務も止まらない。
私が傷ついていても。
殿下が追い詰められていても。
セラフィーナ様が青ざめていても。
予定は、次へ進む。
私は席次案を開いた。
王太子殿下の名は、まだ主賓側の中央近くにある。
ただし、その隣には王妃陛下秘書官室の文官が一名つく。
反対側には第二王子ユリウス殿下。
さらに少し離れて、ヴァルツ公爵。
これは、ただの席次ではない。
王太子殿下を孤立させず、同時に自由な私的会話をさせない配置。
柔らかな包囲。
そう呼ぶのが近い。
「……よくできています」
思わず呟くと、ノエルが首を傾げた。
「席次ですか」
「はい」
私は指で線を追った。
「誰も罰しているようには見えません。けれど、殿下の左右には必ず公的な耳があります」
「公的な耳」
「会話が私情に流れそうになっても、戻せる人です」
ノエルは感心したように目を丸くした。
「席にも、役割があるんですね」
「あります」
私は少しだけ考えてから、言った。
「名前をどこに置くかで、その場の意味が変わりますから」
言ってから、今朝のクライン卿の言葉を思い出す。
記録とは、名を残すことです。
名を残す以上、その名がどこに置かれるべきかまで考えなければなりません。
席次も同じだ。
名前を、正しい場所に置く。
近すぎてもいけない。
遠すぎてもいけない。
意味を持たせすぎても、意味を消しすぎてもいけない。
私は羽根ペンを取り、席次案の余白に小さく補足を書いた。
王太子殿下周辺会話、王妃秘書官室文官が記録補助。
ユリウス殿下、港湾通商に関する公的話題の受け皿。
ヴァルツ公爵との私的接触時間を作らない。
そこまで書いて、手が止まった。
ヴァルツ公爵。
昨日、彼は私に言った。
我が国には、あなたのその手順を、正当な国費で買う用意があります。
あれは冗談ではなかった。
甘い誘いでもない。
私を、価値ある資源として見た言葉だった。
隣国の国益として。
今夜の晩餐で、彼がまた何かを測る可能性は高い。
王太子殿下の不安定さ。
王宮令の効果。
リディア・クラウゼンの立場。
そして、この国がどれほどの人材を取りこぼしかけているのか。
私は、席次案の最後にもう一行書き加えた。
ヴァルツ公爵との会話は、必ず外務儀典局長代理同席のもとで行う。
自分のためだけではない。
国のためにも、線を引く必要がある。
午後三時。
王妃陛下秘書官室から使いが来た。
「クラウゼン嬢。午後三時半の訂正原因欄確認について、隣室待機をお願いします」
「承知いたしました」
私は席を立った。
ベネット卿も立ち上がる。
「私も行く」
「はい」
日程室の空気が、わずかに固くなった。
誰も何も言わない。
けれど、全員が分かっている。
訂正原因欄確認。
それは、王太子殿下にとって、ただの書類確認ではない。
言い訳として使った名前が、ひとつずつ剥がされる場だ。
王妃陛下秘書官室の隣室は、小さな控え室だった。
椅子が二つ。
小さな卓。
水差し。
壁際の書類棚。
扉の向こうが、確認室になっている。
声は、はっきりとは聞こえない。
けれど、人の出入りは分かる。
私は控え席に座り、手元の分類表を膝に置いた。
ベネット卿は隣で、何も言わずに書類を読んでいる。
その沈黙がありがたかった。
午後三時半。
廊下に足音が響いた。
護衛騎士。
王太子府の上級書記官。
王妃陛下秘書官室の文官。
そして、レオンハルト殿下。
私は立ち上がった。
殿下は確認室へ向かう途中、控え室の前で足を止めた。
視線が合う。
昨日より、顔色が悪かった。
けれど、目だけは鋭かった。
傷ついた人の目ではない。
追い詰められた人の目だった。
「リディア」
殿下が私の名を呼んだ。
その瞬間、ベネット卿が一歩前に出た。
「殿下。クラウゼン嬢は記録作成者として待機しております。個人的な会話はお控えください」
「個人的な会話ではない」
殿下の声には、苛立ちがあった。
「彼女が作った書類の話だ」
「その件は、確認室で担当者よりご説明いたします」
殿下はベネット卿を睨んだ。
それから、私を見た。
「君は、どこまで僕を追い詰めれば気が済む」
胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。
でも、私は動かなかった。
ベネット卿に言われた言葉を思い出す。
求められた記録についてのみ、事実を述べる。
それ以外は、担当者へお尋ねください。
私は深く礼をした。
「殿下。私は記録作成者として待機しております。本件については、担当者へお尋ねください」
殿下の瞳が揺れた。
怒り。
驚き。
そして、少しだけ、信じられないという色。
以前の私なら、こんな返し方はしなかった。
殿下の怒りを受け止め、言葉を選び、場を柔らかくしようとしていた。
今は違う。
私は、担当者ではない。
「……そうか」
殿下は低く言った。
「君も、そう言うようになったのか」
私は答えなかった。
答えるべきではなかった。
王妃陛下秘書官室の文官が、静かに告げる。
「殿下。確認室へ」
殿下は一度唇を引き結び、扉の向こうへ入っていった。
扉が閉まる。
私は、そこでようやく息を吐いた。
「よく言えた」
ベネット卿が、書類から目を上げずに言った。
「……手が冷たいです」
「それは仕方ない」
「慣れるのでしょうか」
「慣れすぎても困る」
その返事が少し意外で、私は顔を上げた。
ベネット卿は淡々と続ける。
「人を拒むことに何の痛みも覚えなくなれば、それはそれで危うい。痛みを覚えたまま、必要な線を引ければいい」
私は冷えた指を、そっと握った。
必要な線。
それを引くたびに、少し痛い。
でも、引かなければ、もっと大きく壊れる。
確認室の中で、書類がめくられる音がかすかにした。
やがて、扉が開き、法務官室の書記官が顔を出した。
「クラウゼン嬢。入室をお願いします」
心臓が一度、強く鳴った。
「はい」
私は分類表を持ち、ベネット卿とともに確認室へ入った。
部屋の中には、ミリア様、クライン卿、法務官室の書記官、王太子府上級書記官。
そして、レオンハルト殿下がいた。
卓の上には、訂正後の原因欄一覧が並んでいる。
赤い線。
青い線。
新しい注記。
私が作った分類表とは、少し違う。
今朝の事実確認を反映したものだ。
ミリア様が私を見る。
「クラウゼン嬢。作成者として一点確認します」
「はい」
「当初の原因欄に『リュミエール男爵令嬢の見舞い要請』と記載された案件について、あなたは王太子殿下から、公式要請書または医師の要請書を提示されましたか」
私は答えた。
「いいえ。提示されておりません」
「では、何に基づいて記載しましたか」
「王太子殿下からの口頭申告、および殿下より共有された私信の内容に基づきました」
「その際、公式要請か私信かの区別は」
「当時の記録欄では、明確に分離されておりませんでした」
クライン卿が筆を取る。
「確認。作成者は公式要請書を確認していない。記載根拠は王太子殿下の申告および私信内容」
「はい」
私は頷いた。
殿下が口を開いた。
「だが、セラフィーナは来てほしいと書いていた」
ミリア様が即座に返す。
「私信として、です」
「不安がっていた」
「医療的な緊急要請ではありません」
「僕を頼ったんだ」
「公務変更の公式理由にはなりません」
一つずつ、短く返される。
殿下の言葉は、どこにも引っかからない。
感情としては存在している。
けれど、公文書の理由にはならない。
その線を、ミリア様は決して曖昧にしなかった。
クライン卿が、訂正後の一覧を殿下の前へ滑らせた。
「殿下、訂正後の原因欄をご確認ください」
その言葉で、部屋の空気が一段冷えた。
殿下は書類を見た。
一件目。
リュミエール男爵令嬢の見舞い要請。
削除。
訂正後。
リュミエール男爵令嬢の体調不良を記した私信を受けた、王太子殿下の個人的判断による欠席。
二件目。
リュミエール男爵令嬢の魔力熱悪化による緊急訪問。
削除。
訂正後。
医療的緊急要請は確認されず。王太子殿下の個人的判断による途中退席。
三件目。
リュミエール男爵令嬢からの救援要請。
削除。
訂正後。
私信内容を王太子殿下が公務変更理由として採用。
殿下の指先が、紙の端を強く押さえた。
「これは」
声が低い。
「まるで、僕が勝手に公務を放り出したようではないか」
誰もすぐには答えなかった。
けれど、その沈黙には意味があった。
クライン卿が、淡々と言った。
「確認できた事実は、その通りです」
殿下の顔が強張る。
「僕は、彼女を放っておけなかった」
「それは殿下の感情です」
「彼女は体が弱い」
「医療的緊急要請は確認されておりません」
「リディアが、もっと柔軟に処理していれば」
「クラウゼン嬢は、殿下の申告を記録しただけです」
クライン卿の声は、紙のように乾いていた。
「今回訂正されるのは、クラウゼン嬢の記録が不正確だったからではありません。殿下の申告に含まれていた主体が不正確だったためです」
「主体……?」
「誰が公務変更を求めたのか、ということです」
クライン卿は、一覧の一つを指で示した。
「リュミエール男爵令嬢は、私信を送った。だが、公式要請は出していない。医師も、治療院も、男爵家も、公務変更を求めていない」
次に、別の欄を指す。
「それにもかかわらず、殿下は、その私信を公務変更の理由として採用した」
そして、最後に訂正後の原因欄を指した。
「したがって、主体はリュミエール男爵令嬢ではなく、王太子殿下です」
主体。
その言葉が、王太子殿下の前に置かれた。
重く、動かせないものとして。
殿下は私を見た。
「君は、それでいいのか」
その問いは、昔の響きを少しだけ持っていた。
君は、それでいいのか。
君は、僕を困らせるのか。
君は、僕を助けないのか。
けれど、今は確認室だ。
私は答えない。
ミリア様が言った。
「殿下。クラウゼン嬢への個人的な問いは、この場の確認事項ではありません」
「個人的ではない」
「個人的です」
ミリア様の声は、静かだった。
「本件の確認対象は、殿下の申告内容と、訂正後の原因欄です」
殿下は、唇を噛んだ。
「セラフィーナは、何と言った」
その問いに、部屋がさらに静かになった。
ミリア様が答える。
「本日の事実確認記録は、会計監査室および王妃陛下秘書官室にて整理中です。殿下へ共有される範囲は、手続きに従って決定されます」
「彼女は、僕を責めたのか」
「本件の確認事項ではありません」
「僕は彼女を守ろうと」
「その結果、殿下の私信によって、リュミエール男爵家は事実確認要望を出すに至りました」
ミリア様の言葉が、鋭く落ちた。
殿下の動きが止まる。
「私信……?」
「一昨日の夜、殿下がリュミエール男爵令嬢へ送られた私信です」
クライン卿が続けた。
「内容の写しは、昨日の王宮令に基づき確認済みです。殿下は、クラウゼン嬢が不当にリュミエール男爵令嬢の名を原因欄へ記録したと説明し、令嬢に自己弁明を求められた」
「違う。僕は」
殿下の声が、初めて乱れた。
「彼女に、危ないと知らせただけだ。リディアが提出した報告書のせいで、彼女まで責められるかもしれないと」
「その結果、男爵家は正式な事実確認要望を提出しました」
「それは」
「殿下が監査情報を私信で伝えたためです」
言い逃れの余地はなかった。
私信。
また、私信だった。
殿下は、私信で公務を動かし。
私信で監査情報を漏らし。
そのたびに、誰かの名前を巻き込んだ。
「さらに、監査情報を私信で外部へ伝えた件については、法務官室で別途整理されます」
殿下が目を見開いた。
「外部?」
法務官室の書記官が静かに答える。
「リュミエール男爵令嬢は、王宮職員ではございません」
「僕は、ただ彼女に危ないと――」
「殿下」
ミリア様の声が、そこで低く入った。
柔らかさはなかった。
けれど、怒鳴り声でもなかった。
その分だけ、部屋の温度が下がった。
「未公開の内部監査情報を、私的な書簡によって王宮外へ伝達した行為は、王宮守秘令および貴族院規約における重大な規律違反に該当する可能性がございます」
殿下の唇が止まった。
「規律違反……?」
「はい」
ミリア様は、机上の書類へ視線を落とした。
「本日夕刻、国庫返還手続きに関する上申と併せて、本件も国王陛下へ緊急上申されます」
「父上へ」
「はい」
「そこまですることか」
「そこまですることです」
ミリア様は、少しも迷わなかった。
「殿下は、監査対象であるご自身の立場を軽くするために、未整理の監査情報を王宮外へ流されました。その結果、リュミエール男爵家は防衛のために正式な事実確認要望を提出し、王宮は追加の監査手続きを行う必要が生じました」
クライン卿が筆を置いた。
「つまり、殿下の私信は、単なる私的な連絡ではありません。監査手続きを混乱させた追加要因です」
殿下の顔から、血の気が引いていく。
「僕は……彼女を守ろうとしただけだ」
「守るという言葉で、手続き違反は消えません」
ミリア様は静かに言った。
「そして、その私信によって、リュミエール男爵令嬢は王宮の事実確認に呼ばれることになりました」
部屋に、筆の音だけが響いた。
法務官室の書記官が、その言葉を記録している。
殿下の私信。
監査情報の外部伝達。
重大な規律違反の可能性。
国王陛下への緊急上申。
ひとつずつ、逃げ場が紙に閉じられていく。
「……僕は」
殿下は、椅子の背にもたれた。
「僕は、ただ」
ただ。
その後に続く言葉を、誰も助けなかった。
ただ、彼女が心配だった。
ただ、会いたかった。
ただ、リディアなら整えられると思った。
ただ、こんな大事になるとは思わなかった。
どれも、たぶん本当なのだろう。
でも、本当の感情が、公務上の責任を消すわけではない。
「確認を続けます」
クライン卿が言った。
殿下は顔を上げた。
「まだあるのか」
「はい」
「何を」
「訂正原因欄の確認は、二十五件あります」
殿下の指が、また紙を握った。
二十五件。
公式要請ではなく、私的事情による直接変更と認められる可能性が高いもの。
今朝の事実確認によって、その多くの主体が、王太子殿下へ戻される。
一つずつ。
また、一つずつ。
私は、補助席に立ったまま、その様子を見ていた。
殿下が一件読むたび、顔色が変わる。
反論する。
否定する。
しかし、公式要請はない。
医療的緊急性はない。
男爵家からの要請はない。
あるのは、私信。
そして、それを公務変更理由として扱った殿下の判断。
「第十三件。確認を」
「……認める」
「第十四件」
「それは、彼女が」
「公式要請は確認されておりません」
「……認める」
「第十五件」
「覚えていない」
「当時の殿下の申告記録があります。確認しますか」
「……いや」
筆の音。
紙をめくる音。
殿下の短い返答。
それらが淡々と積み重なる。
これは断罪の芝居ではない。
怒鳴り声も、涙もない。
けれど、だからこそ重い。
逃げ道が、ひとつずつ消えていく音がする。
やがて、クライン卿が書類を閉じた。
「本日の訂正原因欄確認は以上です」
殿下は、何も言わなかった。
ミリア様が続ける。
「本件の訂正結果は、本日夕刻、会計監査室長より国王陛下へ上申されます」
殿下の肩がわずかに動いた。
「父上へ」
「はい」
「またか」
「はい」
ミリア様は容赦なく頷いた。
「また、です。殿下」
その言葉は、責めるでもなく、慰めるでもなかった。
ただ、事実だった。
「クラウゼン嬢」
ミリア様が私を呼んだ。
「はい」
「補足は以上です。退室して構いません」
「承知いたしました」
私は礼をした。
その時、殿下が小さく言った。
「リディア」
私は足を止めた。
答えなかった。
ミリア様が視線を向ける。
殿下は、ひどく疲れた顔で私を見ていた。
「君は、僕を憎んでいるのか」
部屋の空気が、静かに止まった。
その問いは、監査事項ではない。
私は答えてはいけない。
そう分かっていた。
でも、胸の奥で何かが少しだけ動いた。
憎んでいるのか。
どうだろう。
怒りはある。
悲しみもある。
失望も、疲れも、消えない傷もある。
でも、それをここで言葉にしても、何も正しい場所には戻らない。
私は、ベネット卿に教えられた言葉を思い出した。
それ以外は、担当者へお尋ねください。
私は静かに礼をした。
「殿下。私は、求められた記録についてのみ、事実を述べました」
それだけ言って、顔を上げる。
「私の感情は、本件の確認事項ではございません」
殿下の顔が、ほんの少し歪んだ。
それが怒りなのか、痛みなのか、私には分からなかった。
分からなくていいのだと思った。
私はもう、殿下の感情を先に読んで整える立場ではない。
「失礼いたします」
私は確認室を出た。
扉が閉まる。
廊下に出た瞬間、体から力が抜けそうになった。
ベネット卿が横に立つ。
「よく耐えた」
「……はい」
「最後の答えも、よかった」
「本当に、よかったのでしょうか」
「よい」
ベネット卿は即答した。
「感情を語る場ではなかった」
「はい」
「だが、感情がないわけではない」
その言葉に、胸が少し詰まった。
「はい」
「だから、今は戻る」
「はい」
日程室へ戻る道の途中、窓の外を見ると、空は朝より少し明るくなっていた。
雨は降らなかった。
けれど、晴れきることもなかった。
今の私には、そのくらいがちょうどよかった。
日程室に戻ると、机の上には晩餐席次案が待っていた。
王太子殿下の名。
ユリウス殿下の名。
ヴァルツ公爵の名。
大使夫妻。
外務儀典局長代理。
文化局長。
東方商会代表。
名前が並んでいる。
誰も、ただの文字ではない。
それぞれに立場がある。
意味がある。
置き場所がある。
私は椅子に座り、羽根ペンを取った。
王太子殿下の隣席に、王妃秘書官室文官の名を再確認する。
ユリウス殿下の位置を、半席分中央へ寄せる。
ヴァルツ公爵との距離を、会話は届くが私的な密談にはならない位置に保つ。
東方商会代表と港湾管理官の間には、文化局長。
一つずつ。
名前を置いていく。
正しい場所へ。
私は予定表の午後三時半の欄を見た。
王太子殿下 訂正原因欄確認。
その横に、小さく書く。
完了。
少し迷ってから、さらに一行。
言い訳に使われた名前は、本人の責任ではない。
文字を書き終えた時、指先はまだ少し冷たかった。
でも、震えてはいなかった。
窓の外で、午後の光が石畳を照らしている。
王太子殿下が使った名前は、また一つ、正しい場所へ戻された。
けれど、戻された名前の分だけ、殿下の名前は重くなる。
それが帳簿というものなのだと、私は今日、ようやく知った。




