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三十八件の未処理請求

翌朝、私はいつもより少し早く王宮へ着いた。


空は薄く曇っていた。


雨が降るほどではない。


けれど、晴れているとも言い切れない。


そういう朝だった。


王宮の東棟にある王太子府儀典日程室(ぎてんにっていしつ)は、朝の鐘が鳴る前から人の気配がある。


文官たちは足音を殺して廊下を行き来し、侍従(じじゅう)たちは銀盆に書類を載せて運び、記録係は昨夜の報告を帳簿へ写していた。


何も変わらない朝。


少なくとも、外から見れば。


私は黒革の予定表を両手で抱え、日程室の扉の前で一度だけ息を整えた。


昨夜の観劇は、滞りなく終わった。


第二王子ユリウス殿下は代理出席を受けてくださった。


外務儀典局(がいむぎてんきょく)は、王妃陛下の名による説明文をそのまま通した。


劇場の席札は開演二時間前に差し替えられた。


大使夫妻は笑顔で拍手をし、休憩中には第二王子殿下と穏やかに言葉を交わした。


新聞には、こう出るだろう。


王太子殿下、急病者見舞いのため観劇を欠席。


第二王子殿下、急遽代理として隣国大使夫妻を歓迎。


王家の結束を示す一夜となった。


美しい文章だ。


美しい文章は、たいてい誰かの疲労の上に書かれている。


「リディア・クラウゼンです」


私は扉の前に立つ衛士に告げた。


「日程管理官閣下へ、引継報告書を提出に参りました」


衛士は私の顔を見て、一瞬だけ目を伏せた。


昨夜のことを知っているのだろう。


王宮では、声を荒らげなくても噂は走る。


それでも彼は職務通りに頷き、扉を開けた。


「お通りください」


「ありがとうございます」


王太子府儀典日程室。


そこは、王宮の表舞台とはまったく違う場所だ。


舞踏会の煌びやかなシャンデリアも、客人をもてなすための絵画もない。


あるのは机。


棚。


帳簿。


封蝋。


日付印。


そして、誰かの華やかな一日を支えるための、無数の地味な紙束。


奥の机に座っていた日程管理官、オズワルド・ベネット卿が顔を上げた。


五十を少し過ぎた、痩せた男性だ。


銀縁の眼鏡の奥にある目はいつも冷静で、王宮の誰よりも予定の重さを知っている。


「クラウゼン嬢。早いな」


「お約束の時刻より前に失礼いたします」


「構わん。昨日の処理は確認した。第二王子殿下の侍従長からも、滞りなく終了したと報告が来ている」


「恐れ入ります」


「……それで」


ベネット卿は、私の腕の中にある黒革の予定表を見た。


「本当に、提出するのだな」


「はい」


私は机の前へ進み、黒革の予定表と、紐で綴じた厚い報告書を置いた。


紙の束が机に触れた瞬間、思ったより重い音がした。


どさり、というほど大きくはない。


けれど、軽くもなかった。


「王太子府儀典日程室、主任調整官代理しゅにんちょうせいかんだいりリディア・クラウゼンより、引継報告書を提出いたします」


私は深く礼をした。


「対象期間は、昨年の秋月十二日より昨日まで。王太子レオンハルト殿下の私的事情に伴う日程再調整、代理出席、費用処理、謝罪先、未処理請求、および関係各所からの申し入れ一覧でございます」


部屋の空気が、わずかに沈んだ。


周囲の文官たちは筆を動かし続けている。


だが、音が少しだけ小さくなった。


「受理する」


ベネット卿は短く言い、報告書の一枚目をめくった。


最初の数行を読んだ時、彼の表情は変わらなかった。


いつもの冷静な顔だった。


二枚目。


三枚目。


四枚目。


眼鏡の奥の目が、少しだけ細くなる。


「……王太子殿下の欠席、遅参、途中退席、および代理対応。合計三十八件」


「はい」


「うち、公務関連が二十一件」


「はい」


「外交儀礼に関わるものが九件」


「はい」


「第二王子殿下、または王妃陛下の代理対応を要したものが七件」


「はい」


ベネット卿の指が止まった。


「未処理請求、三十八件」


私は答えなかった。


答えなかったことが、答えだった。


未処理請求。


それは、殿下の予定変更によって発生した費用のうち、誰が最終的に負担するのか決まらないまま残された請求のことだ。


すでに仮払いされたものもある。


第二王子府や劇場や神殿に、後日補填する予定のものもある。


外務儀典局の予備費に、一時的に置かれているものもある。


けれど、すべてに共通していることが一つだけあった。


殿下が、確認を後回しにした。


それだけだ。


ベネット卿は報告書をさらにめくる。


隣の机にいた副管理官の若い文官が、顔色を変えてこちらを見た。


ベネット卿は低い声で言った。


「クラウゼン嬢」


「はい」


「これは、恋愛沙汰ではないな」


「はい」


「婚約者同士の不和でもない」


「はい」


「王太子府の運用問題だ」


その言葉を聞いた時、胸の奥に少しだけ力が戻った気がした。


ようやく、誰かが名前をつけてくれた。


私の我慢ではなく。


私の嫉妬ではなく。


私の心の狭さでもなく。


問題、と。


「こちらが費用一覧です」


私は別紙を差し出した。


仮払(かりばら)いはすべて規定に沿って処理しております。王太子府儀典費から出したもの、第二王子府へ補填予定(ほてんよてい)のもの、外務儀典局の予備費に一時計上されたもの、劇場および神殿側へ急配手当として支払われたものに分けてございます」


「負担元が未確定のままになっている理由は」


「殿下にご確認いただくたび、『細かいことは任せる』とのご返答でしたので、負担元確認欄が空白のままです」


部屋のどこかで、誰かが息を呑んだ。


ベネット卿は報告書の該当欄を見つめた。


そこには、同じ文言が何度も並んでいる。


王太子殿下確認未了。


負担元未確定。


後日確認予定。


後日確認予定。


後日確認予定。


後日確認予定。


「後日が、一度も来なかったわけか」


「はい」


「君はなぜ、もっと早く提出しなかった」


責める声ではなかった。


ただ、確認だった。


それでも、その問いは少しだけ胸に刺さった。


「私は、婚約者でもありましたので」


言ってから、愚かな答えだと思った。


けれど、それが一番正しかった。


「殿下の名誉を傷つけることを恐れました。王太子府の混乱を外へ出すことも恐れました。何より、私が整えれば済むのなら、それでよいのだと思っていました」


「済んでいなかった」


「はい」


私はまっすぐにベネット卿を見た。


「済んでおりませんでした」


「この報告書の副本(ふくほん)は、クラウゼン伯爵家にあると言ったな」


「はい」


「他には」


「昨夜の観劇処理を終えた時点で、王妃陛下秘書官室(ひしょかんしつ)へ事前報告書を極秘裏(ごくひり)に送付してございます」


ベネット卿の眉が、わずかに動いた。


「事前報告書?」


「はい。本日、日程管理官閣下へ正式な引継報告書を提出する予定であること。その概要として、王太子殿下の私的事情に伴う再調整が三十八件に及ぶこと。昨日の観劇対応において、王妃陛下の委任状(いにんじょう)を用いたこと。以上三点を、昨夜のうちに共有いたしました」


「写しは」


「封印済みの概要写しを一部、王妃陛下第一秘書官ミリア・グレイス様宛てに。正式な副本は、本日の正本受理後に秘書官室へ届ける手配をしております」


ベネット卿は、ほんのわずかに目を細めた。


「先手を打ったわけか」


「王太子殿下が報告書の提出を止めようとなさる可能性がございましたので」


「妥当だ」


短い言葉だった。


けれど、その一言で、胸の奥に張っていた糸が少しだけ緩んだ。


これは裏切りではない。


根回しだ。


王宮では、正しい手続きを通すためにも、先に道を作っておかなければならない。


私は、それをしただけだった。


その時、扉の外が少しざわめいた。


衛士の声。


侍従の声。


そして、聞き慣れた足音。


「リディアはここか」


王太子レオンハルト殿下の声だった。


部屋中の文官が立ち上がる。


ベネット卿も、ゆっくりと席を立った。


扉が開く。


殿下は昨日と同じ青い上着を着ていた。


ただし、顔色は少し悪い。


夜通し考えたのか。


それとも、何も考えずに眠れなかったのか。


それは分からない。


「殿下」


ベネット卿が礼をする。


私もそれに続いた。


「朝から騒がせているようだな」


殿下はそう言って、机の上の報告書へ目を向けた。


「リディア。昨日のことなら、あとで話し合えばいい。婚約解消など、感情的になって出すものではない」


感情的。


その言葉を聞いても、もう胸は痛まなかった。


不思議だった。


昨日までなら、きっと傷ついていた。


でも今は、ただ遠い。


「殿下」


私は顔を上げた。


「婚約解消の申し入れは、クラウゼン伯爵家より正式に提出いたします。こちらは、その件とは別の職務上の引継でございます」


「別?」


殿下は眉を寄せた。


「同じことだろう。君が僕に腹を立てて、仕事の記録を持ち出しているだけだ」


ベネット卿の眼鏡が、朝の光を受けて白く光った。


「殿下」


その声は静かだった。


だが、部屋の空気を一瞬で正した。


「こちらは、王太子府儀典日程室の正式な業務記録です。クラウゼン嬢個人の感情とは切り離して扱う必要があります」


「ベネット卿」


殿下の声に苛立ちが混じる。


「君まで大げさにするのか」


「大げさではございません」


ベネット卿は報告書を一枚持ち上げた。


「昨夜の観劇に伴う代理出席対応だけでも、第二王子府への補填、劇場側の人員手当、外務儀典局の追加通達、王妃陛下秘書官室の緊急対応が発生しております」


「だが、問題なく終わったのだろう」


「はい。クラウゼン嬢が処理したため、問題なく見えました」


殿下の唇が、わずかに動いた。


何か言おうとして、言葉が出なかったようだった。


ベネット卿は続ける。


「しかし、問題が消えたわけではございません。費用は発生しております。人員も動いております。代理に立たれた第二王子殿下のお時間も消費しております。そして、未処理請求が三十八件、残っております」


「細かい費用のことだろう」


殿下が言った。


その瞬間、部屋の中の温度が一段下がった気がした。


細かい。


昨日も、そう言われた。


細かいことは任せる、と。


ベネット卿は表情を変えなかった。


さすがだと思った。


私なら、ほんの少しだけ眉が動いてしまったかもしれない。


「殿下」


ベネット卿は別紙をめくった。


「現時点で確認できる未処理請求の合計額は、王太子府儀典費の四半期予備枠の三割を超えております」


殿下が目を見開いた。


ようやく。


ようやく、数字が彼に届いた。


「三割?」


「はい」


「そんなはずはない。欠席しただけだ」


「欠席には、費用が伴います」


ベネット卿は淡々と言った。


「代理出席者の警護。衣装準備。侍従の増員。席札の差し替え。説明文の再作成。急使の手当。相手方への謝礼。場合によっては贈答品の変更。王族の欠席理由を整えるための外務儀典局との調整」


紙を一枚、めくる。


「一度ごとなら、小さな額です」


もう一枚、めくる。


「三十八件積み上がれば、王太子府の信用に関わります」


殿下は黙った。


私は、その横顔を見ていた。


昨日までなら、その沈黙を助けようとしたと思う。


殿下が言葉に詰まれば、私が説明した。


殿下が不機嫌になれば、私が場を和らげた。


殿下が失敗しそうになれば、私が先に頭を下げた。


でも今は、何もしない。


それが、私にできる最後のことだった。


「リディア」


殿下が私を見た。


その目に、昨日までの余裕はなかった。


「なぜ、僕に言わなかった」


「申し上げました」


「いつ」


「一度目の未処理請求が発生した時。五度目の代理出席を第二王子殿下へお願いした時。十七度目の欠席で外務儀典局から苦情が入った時。二十五度目、王妃陛下の秘書官室から確認が入った時。そして三十五度目の夜、殿下に直接、これ以上の再調整は困難ですと申し上げました」


殿下の喉が動いた。


「……覚えていない」


「はい」


私は静かに頷いた。


「そうだと思います」


その場にいた誰も、何も言わなかった。


覚えていない。


その一言は、怒鳴り声よりも残酷だった。


私が勇気を出した日も。


何度も言葉を選んだ夜も。


殿下が不機嫌にならないよう、傷つけないよう、けれど分かってもらえるよう必死に伝えた時間も。


彼の中には、何も残っていなかった。


廊下から、新しい足音が聞こえた。


軽く、けれど迷いのない足音。


扉の前で衛士が声を上げる。


「王妃陛下第一秘書官、ミリア・グレイス様がお見えです」


殿下が振り返った。


私は、ほんの少しだけ目を伏せた。


早い。


けれど、早すぎるわけではない。


昨夜のうちに、道は作ってある。


扉が開き、紺色の官服を着た女性が入ってきた。


王妃陛下の第一秘書官、ミリア・グレイス。


まだ三十代半ばだが、王宮で彼女の名を知らない者はいない。


王妃陛下の言葉を最も正確に伝え、最も冷静に処理する人。


彼女は部屋に入るなり、私ではなく、まずベネット卿を見た。


「報告書は受理されましたか」


「はい。たった今」


「では、受理確認後の指示として、王妃陛下より口頭指示をお預かりしております」


殿下が息を詰めた。


「母上が?」


ミリア様は殿下へ礼をした。


深く、正確に。


けれど、そこに甘さはなかった。


「昨夜、クラウゼン嬢より事前報告の概要を受けております。王妃陛下は、正式な報告書が受理され次第、初動確認に入るよう命じられました」


殿下の視線が、私に刺さった。


怒り。


驚き。


そして、少しの焦り。


私は視線を逸らさなかった。


「レオンハルト殿下。王妃陛下は、本日午後の公務終了後、殿下より直接の説明をお求めです」


「説明なら、あとで」


「本日午後でございます」


ミリア様の声は変わらなかった。


「また、クラウゼン嬢より提出された引継報告書について、王太子府、王妃陛下秘書官室、外務儀典局、会計監査室(かいけいかんさしつ)による合同確認を行います」


合同確認。


その言葉に、部屋の隅の文官が小さく肩を震わせた。


無理もない。


会計監査室。


王宮の中で、もっとも笑わない部署だ。


殿下の顔から、血の気が引いた。


「そこまでする必要はない」


「必要があるかどうかを確認するために、合同確認を行います」


ミリア様は、そう言ってから私を見た。


「クラウゼン嬢」


「はい」


「王妃陛下より、お言葉を預かっております」


私は背筋を伸ばした。


「承ります」


ミリア様は少しだけ声を落とした。


「昨夜の観劇対応、大儀でした。第二王子殿下より、あなたの起案(きあん)は的確であったと報告が上がっております」


胸の奥が、わずかに震えた。


褒められたかったわけではない。


そう思っていた。


でも、違ったのかもしれない。


私はずっと、誰かにこう言ってほしかったのかもしれない。


あなたの仕事は、確かにそこにあった、と。


「恐れ入ります」


声が少しだけ掠れた。


それでも、涙は出なかった。


泣くのは、今ではない。


「ただし」


ミリア様は続けた。


「本日より、あなたが王太子殿下の私的事情に伴う日程再調整を単独で行うことを禁じます」


私は静かに頷いた。


「承知いたしました」


「今後、同様の欠席または変更が発生した場合は、必ず日程管理官、王妃陛下秘書官室、関係部署の三者確認を経るものとします」


「承知いたしました」


殿下が唇を噛んだ。


それはつまり、もう殿下が一言「欠席する」と言っても、私一人では隠せないということだ。


私が隠さないというだけではない。


制度として、隠せなくなった。


「リディア」


殿下が低く言った。


「君は、それで満足か」


私は殿下を見た。


満足。


その言葉は、少し違うと思った。


私は勝ったわけではない。


嬉しいわけでもない。


殿下が困れば胸がすく、というほど単純でもない。


三十九本の黒線は、そんなに軽くない。


「いいえ」


私は答えた。


「満足ではありません」


殿下の顔に、一瞬だけ希望のようなものが浮かんだ。


けれど私は、その前に言葉を続けた。


「ただ、これでようやく、正しい場所に置かれただけです」


「正しい場所?」


「はい」


私は黒革の予定表に触れた。


「私の痛みではなく、王太子府の記録として」


殿下は黙った。


ミリア様も、ベネット卿も、何も言わなかった。


その沈黙が、私にはありがたかった。


叫ばなくてもよかった。


泣かなくてもよかった。


怒りを証明しなくてもよかった。


ただ、紙があった。


数字があった。


日付があった。


承認印があった。


それらが、私の代わりに語ってくれていた。


ミリア様が報告書を一部手に取る。


「こちらは秘書官室で預かります」


「お願いいたします」


「クラウゼン嬢。あなたには午後、会計監査室から聞き取りが入る予定です」


「承知いたしました」


「それまでは、日程室で待機を」


「承知いたしました」


私は礼をした。


その時、殿下がぽつりと言った。


「セラフィーナは、悪くない」


私は動きを止めた。


ミリア様も、ベネット卿も、殿下を見た。


「彼女は身体が弱い。僕を頼っただけだ。彼女を公務の揉め事に巻き込むな。守ってやるのが僕の義務だ」


その言葉に、私は少しだけ息を吸った。


昨日までなら、胸がざわついただろう。


また彼女なのですね、と。


私より彼女なのですね、と。


でも今は、不思議なくらい静かだった。


「はい」


私は静かに、けれど部屋中の全員に聞こえる声で言った。


「セラフィーナ様を責める記述は、報告書のどこにもございません」


殿下が眉を寄せる。


「なら、なぜ彼女の名が原因欄にある」


「原因欄には、殿下から公式に申告された変更理由を記載しております。セラフィーナ様の体調不良、魔力熱、見舞い要請。その事実のみです」


「それが彼女を傷つけると言っているんだ。邪推する者も出るだろう」


焦りを含んだ殿下の声を聞きながら、私は本日初めて、ほんの少しだけ深く微笑んだ。


「殿下。事実を記録しなければ、公金(こうきん)である儀典費(ぎてんひ)が、用途不明のまま処理されたことになります」


「それは……」


「会計監査室が、それを許すと本当にお思いですか」


殿下の唇が、わずかに動いた。


けれど、言葉は出なかった。


「私は、セラフィーナ様を罰するつもりなどございません」


私は、殿下の青い瞳をまっすぐに見据えた。


「ですが、殿下がセラフィーナ様を見舞うために公務を変更なさったこと。その変更により、代理出席、追加人員、急使、謝礼、外務儀典局への追加通達が発生したこと。そして、それらの費用が王太子府儀典費の四半期予備枠を圧迫したこと」


一つずつ、私は言葉を置いた。


怒鳴る必要はなかった。


責める必要もなかった。


記録とは、感情よりも静かで、感情よりも逃げ場がない。


「そのすべての公式原因として、セラフィーナ・リュミエール様のお名前は、王宮の帳簿に永年記録(えいねんきろく)されます」


「あ――」


殿下の顔から、血の気が引いた。


「合同確認が始まれば、王太子府、王妃陛下秘書官室、外務儀典局、会計監査室が、その記録を共有いたします」


私は少しだけ声を落とした。


「殿下が、彼女をお守りになるために選ばれた手続きです」


部屋の空気が止まった。


彼女を守る。


殿下は、ずっとそう言っていた。


けれど、そのたびに彼は、セラフィーナ様の名を変更理由として申告し続けた。


公務を欠席する理由として。


代理出席を発生させる理由として。


追加費用を生じさせる理由として。


外務儀典局に説明を求められる理由として。


王宮の帳簿は、優しさを優しさとして記録してはくれない。


そこに残るのは、日付と金額と理由だけだ。


殿下は、自分が守っているつもりだった人を、王宮という巨大な記録の中へ自ら差し出していた。


そのことに、ようやく気づいたらしい。


「……僕は」


殿下の声は、掠れていた。


「僕は、そんなつもりでは」


「はい」


私は頷いた。


「そうだと思います」


それ以上は、言わなかった。


そんなつもりではなかった。


その言葉で消えるものなら、三十八件も積み上がらない。


「クラウゼン嬢」


ベネット卿が言った。


「本日付で、君の王太子殿下専属調整任務を停止する」


「承知いたしました」


「ただし、儀典日程室の主任調整官代理としての職務は、午後の聞き取りまで継続だ。未処理請求の所在を最も把握しているのは君だからな」


「はい」


「つらいか」


思いがけない問いだった。


私は少しだけ迷った。


職務中に個人的な感情を出すべきではない。


そう思った。


でも、今さら何を隠すのだろう。


「少しだけ」


私は答えた。


「ですが、続けられます」


ベネット卿は、ほんのわずかに目元を緩めた。


「君らしい答えだ」


それが褒め言葉なのか、呆れなのかは分からなかった。


でも、悪い響きではなかった。


私は自分の机へ向かった。


昨日までと同じ机。


同じ椅子。


同じインク壺。


同じ封蝋。


けれど、机の上にはもう、王太子殿下の私的予定表は置かれていなかった。


黒革の予定表は、ベネット卿の机の上にある。


提出済み。


受理済み。


返却不可。


私は新しい紙を一枚取り出した。


白い紙。


まだ何も書かれていない紙。


そこに、今日の予定を書き込む。


午前九時。


引継報告書提出。


午前十時。


王妃陛下秘書官室へ副本送付。


午後一時。


会計監査室聞き取り。


午後三時。


未処理請求一覧の補足説明。


その下に、少しだけ空白が残った。


私は羽根ペンを止めた。


いつもなら、その空白には殿下の予定が入った。


急な呼び出し。


追加の確認。


セラフィーナ様の屋敷への手配。


殿下のための謝罪文。


けれど、今日は違う。


空白は、空白のままだった。


私はその余白をしばらく見つめた。


何を書けばいいのか、分からなかった。


自分の予定というものを、私はあまりにも長い間、後回しにしていた。


その時、机の端に小さな封筒が置かれた。


差し出したのは、日程室の若い記録係だった。


「クラウゼン様。第二王子殿下の侍従長より、こちらを」


「ありがとうございます」


封筒には、第二王子府の印が押されていた。


私は封を切り、中の短い書状を読む。


昨夜の急な起案、見事であった。


大使夫妻への対応も、劇場側の配置変更も、無駄がなかった。


後日、正式に礼を述べたい。


ユリウス・アルヴェイン。


短い文だった。


飾った言葉はない。


けれど、私はその書状を読み終えるまで、少し時間がかかった。


仕事に対する礼。


ただそれだけのことが、こんなにも胸を揺らすとは思わなかった。


私は書状を丁寧に折り、机の引き出しにしまった。


そして、予定表の空白に小さく書き加える。


午後五時。


第二王子府へ礼状作成。


それは、誰かの尻拭いではなかった。


私が受け取った礼に、私が返すための予定だった。


ほんの一行。


たったそれだけ。


それなのに、胸の奥で何かが少しだけほどけた。


遠くで、朝の鐘が鳴った。


王宮の一日が、本格的に動き始める。


王太子府では、これから合同確認が始まる。


殿下は王妃陛下へ説明しなければならない。


未処理請求は、一つずつ名前を与えられるだろう。


誰が決めたのか。


誰が支払うのか。


誰が責任を持つのか。


そして、誰が黙っていたのか。


私はもう、黙って帳尻を合わせる人間ではない。


羽根ペンを置き、乾きかけた文字を見つめる。


三十八件の未処理請求。


それは私が王宮へ落とした爆弾ではない。


殿下が三十八回、見ないふりをしたものだ。


私はただ、それに日付と金額をつけただけだった。

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