第九章・赫焔の影、紅蓮の獣
世界が、軋んでいた。
地鳴りのような低音が、王宮の地下を揺るがす。
空気は灰に濁り、赫の光と交じり合って揺れていた。
アヴァドンの咆哮が地の底から轟き、封印階層を貫いた衝撃波が地上へと突き上げた。 紅蓮都市の中心部、王宮付近の地面が割れ、建物が爆風と地震により次々と崩れ落ちていく。
空には赫と灰が混ざり合った閃光が走り、まるで夜空に亀裂が入ったかのような異様な光景が広がった。
市場の屋台は吹き飛ばされ、住民たちの悲鳴が混じった喧騒が遠くから響く。 祭りの余韻は一瞬で消え、紅蓮の街は地獄のような修羅場と化していた。
それが――紅蓮を呑み込む災厄だった。
目覚めたリセリア・フレイは、赫の翼を収めたまま母の身体を支え、震える脚で壁を伝いながら歩いていた。
その手には、母の温もりがまだ残っている。
「母様……もう少しで、外に出られるはず……っ」
息を呑むたび、灰が肺に絡みつく。
地下深くへ降りたことがある者なら誰もが知っている――この層は、封印の階層だ。
一般人は立ち入り禁止。王家の血を引く者と、それを補佐する者しか足を踏み入れられない禁忌の領域。
だが、そこに今――“それ”が目覚めていた。
「……リセリア」
弱々しい声が、リセリアの背から聞こえた。
彼女が支えていた母の声。
「無理に……動かさなくて……いいのよ……。あなたまで……」
「嫌……です……っ。母様までいなくなったら……私、もう……」
涙を堪えながら、リセリアは道を進む。
だがその時――空間の向こうから、獣のような低い息遣いが響いた。
ゴォォォ……と、熱風を孕んだ音。
地面が揺れ、空気の密度が変わる。
そして、現れた。
崩れかけた回廊の向こう。
煤と灰の帳をかき分け、紅蓮に染まった異形が、その姿を現す。
巨大な体躯。 灰色の鱗と赫色に灼けた骨格。 ボロボロの翼からは炎が滴り、頭部は竜のようでありながら、目は人に似た狂気を湛えていた。
――それは、アヴァドン。
紅蓮の地に封印されし魔獣にして、灰と赫の混沌を纏う、災厄の化身。
その目が、まっすぐリセリアを捉えていた。
「リセリア……逃げて……」
母の声が震える。
それを遮るように、アヴァドンが吠えた。
その咆哮はただの威嚇ではない。熱と灰、魔力と意志を帯びた“宣言”だった。
――見つけたぞ。赫の器。
それが、アヴァドンの知性。
「……どうして……私を……」
リセリアの声に答えるかのように、アヴァドンの瞳が赫く光る。
その存在が纏う気配――それは、吸収だ。
この魔獣は、力を喰らい、自らの力とする。
だからこそ、“赫”を狙う。リセリアの持つ、王家の赫の血と力を――喰らうために。
「赫の力……王の器……我が糧となる」
その言葉に、リセリアは目を見開いた。
「あなた……言葉が……話せるの……?」
「言葉……知恵……感情……
お前たち“人間”より遥かに長く、私は“ここ”で考え続けていた」
「ずっと……?」
「この赫の地に封じられ、奪われ、染められ……だが私は忘れなかった。力とは何かを。知とは何かを。そして――生き残るために何をすべきかを」
アヴァドンの声は、もはや咆哮ではなかった。
それは確かな言葉であり、理性であり、強者の確信に満ちていた。
「お前を喰らえば、私は完全になる」
「……っ」
「赫の器。その魂、その力。その記憶と技、そのすべてを――我が血肉とせん」
その言葉に、リセリアは目を見開いた。
アヴァドンが地を蹴った。
その一撃が、雷のような衝撃となって襲いかかる。
「その子には指一本、触れさせない!」
咄嗟にリセリアの母――ヴェネット・フレイが、娘を庇った。
その右手に、赫き炎を宿す指輪。
神器《指輪・ウリエル》。大天使ウリエルの名を冠する、神の炎を灯す祝福の神器。
だが、それは未完成だった。
ヴェネットは第二覚醒には至れず、真の力を引き出すことは叶わなかった。
彼女が放った赫色の神炎が、アヴァドンの前に立ちはだかる――が。
アヴァドンはそれを見極め、己の灰を操って神炎ごとその力を吸収した。
一瞬で――神の炎が吸い込まれた。
赫色に輝いていたはずの焔が、灰色の靄の中へと引きずり込まれる。 その吸収の軌跡は、美しさすら感じさせるほど滑らかで、鮮やかだった。 しかし、それは神聖を冒涜する、忌まわしき侵蝕の儀。
炎が静かに消えた瞬間、アヴァドンの体表が赫色に光が走った。 吸収した神炎を、己の中で咀嚼し、新たな力として馴染ませていくかのように。
「……なっ……」
ヴェネットの瞳に驚愕が走る。
吸収された――神の炎が。
そしてボロボロだったアヴァドンの翼が完全に生え変わる
次の瞬間。
「赫よ、糧となれ」
アヴァドンの爪が閃き、ヴェネットの身体が宙を舞う。
血飛沫が舞った。 紅蓮に染まった回廊に、ヴェネット・フレイの身体が崩れる。
その手が、リセリアの手を離れた。
――遠い昔のことだった。
まだリセリアが幼かった頃、ヴェネットは何度も娘を抱きしめ、こう語った。
「どれだけ強くなっても、泣いていいのよ。泣いて、立ち上がって、また歩いて。それが本当の強さ」
戦士でありながら、母であることを決して忘れなかった女性。
血を流してでも、人を守る者。
その背を、リセリアはずっと追いかけていた。
だからこそ、今。
母がその命を賭して守ってくれたこの瞬間――
「やめて……いや……いやぁあああああああっ!!」
悲鳴と共に、赫が爆ぜた。
リセリアの髪が風を孕み、毛先が赫く染まる。
瞳が赫の輝きを帯び、背に赫焔の翼が広がる。
赫式――《赫焔の式》。
母を喪い、怒りに震えた彼女の感情が、再びその力を呼び覚ました。
「アヴァドン……あなたは……絶対に許さない……!!」
その叫びと共に、彼女は飛び出す。 赫き翼が壁を焼き、剣に宿った炎が空気を裂いた。
《赫閃・双裂陣》
その言葉と共に、空間が真っ二つに割れるかのような衝撃。双剣のような炎の軌道。
だが、アヴァドンは動じない。
むしろ――嬉々としている。
狙っていた力が、目の前に現れたのだから。
二者が激突した。
赫と灰。
炎と喰らい。
王家の力と、封じられた災厄。
戦況は、次第に傾いていった。
アヴァドンは赫の攻撃を無効化し、傷を負ってもすぐに再生する。
しかも――戦うほどに、リセリアの動きを読み取り、技を模倣し始める。
力を喰らうだけではない。
この魔獣は、進化する。
その現実を、リセリアは次第に理解していった。
「どうして……赫色の炎が……効かない……の……っ」
追い詰められ、膝をついた。
視界が揺れる。
灰が視界を覆い、呼吸もままならない。
(私が……倒れたら……誰が……)
その瞬間。
重厚な足音が、回廊に響いた。
赫のマントを翻し、紅蓮の王が現れる。
カルロフ・フレイ。
彼は崩れたヴェネット・フレイの亡骸を見下ろし、そしてほんのわずか、眉を下げた。
「……そうか……君が……」
その表情は、誰よりも静かで――寂しげだった。
だが、次の瞬間には、目に宿る光が冷たく研ぎ澄まされる。
「アヴァドン――貴様か。……妻と、娘に手を出したのは」
紅蓮の王が、歩を進める。 その手には、赫の神器《赫焔の裁竜・メギド》。 地を這うように立ち込める魔力が、回廊の灰を薙ぎ払う。
「娘よ、退がれ」
「……父様……」
リセリアが呆然と呟いた。
カルロフは娘を一瞥すると、視線を前方へ向けたまま告げた。
「お前の赫は……まだ、未来に灯る光だ。
ならばその火を絶やさぬよう、この命、使い切ってくれよう――」
その一言が終わるや否や、アヴァドンが動いた。
カルロフもまた、歩を踏み出す。
炎が奔り、赫が吼える。
紅蓮の王と、赫焔の魔獣――一騎打ちが、始まった。