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第八章:赫が消えた夜

気がつけば、空は夜の帳に覆われていた。

 紅蓮都市の喧騒が、どこか遠くに感じられるほど、カイルはひとり、静寂のなかに身を潜めていた。


 彼の纏う“黒”は、世界で唯一の色。存在するはずのない、忘れられた色。だからこそ、夜の闇に溶け込むその姿を見つけられる者は、まずいない。


 建物の物陰を伝い、人の影を縫って進む。

 華やかな祭りの光と音が街を包み込む中、カイルは逆にその“影”を足場に変えていた。闇と光の狭間を渡るように、誰にも気づかれず、都市の裏通りから裏通りへと静かに移動する。


 その瞳は、色を探していた。いや、正確には“灰”を。

 リセリアが攫われたあの瞬間、灰色の粒子が宙を舞い、消えていった。カイルの中に残るその感覚は、他のどの色とも異なる、冷たく重たい“気配”だった。


 (……近くに来れば、きっとわかる)


 黒に覚醒してからというもの、カイルの感覚は鋭くなっていた。特に“灰”に対しては、まるで身体が拒絶反応を起こすように敏感になる。ほんの僅かな灰塵の動きにも、皮膚が粟立つのを感じるほどだ。


 「絶対に見つける……リセリアを」


 呟いた声は闇に溶けた。

 街はまだ祭の興奮に満ちていた。だが、カイルにとって、それはもう遠い世界の出来事だった。


 彼の視線はただ、影の向こうにある“真実”を、見据えていた。


炎朱の王城に隣接する高塔――「色度観測塔」。

 そこでは、世界を巡る七色の流れと均衡が常時観測されていた。


 塔の最上階。静寂を破る微かな振動音が、水晶盤の底から響き出す。


 「……観測盤、変動あり!」


 「な……第八の針が……!」


 ざわめきが走る。

 封印されていた“第八の色”、黒の針が――ほんの一瞬だけ震えたのだ。


 「封印結界、揺らいでいます……針の角度、微小変化確認……!」


 誰かが絶句した瞬間、扉が重く開く音が響いた。


 赫の礼装を身にまとい、長い白髪を風に揺らす男――

 炎朱国王、カルロフ・フレイであった。


 「……やはり、兆しが現れたか」


 カルロフは迷うことなく、水晶盤の傍に歩み寄る。

 周囲の者たちは誰一人、彼に問いかけようとはしなかった。


 「この揺れ……記録にある“あの日”と同じだ」


 彼は、独り呟いた。


 「――まだ私が幼かった頃。先々代の王と共に、この塔を訪れたことがある。

 その時……封印されたはずの“黒”の針が、一度だけ震えたと記されていた」


 誰も知らぬ記録。王家にのみ伝わる、禁じられた観測の記憶。


 「赫が目を開く時、影のように“黒”が寄り添う。

 まるで、運命が対になるように――赫の傍には、必ず黒がある」


 重く響くその言葉に、誰も口を挟めなかった。


 カルロフは静かに視線を上げ、窓の外を見やる。

 遥か紅蓮都市の彼方、闇の気配を孕んだ風が――確かに、吹いていた。


その風は、誰にも気づかれぬまま王都の中心へと流れ込み、

静かに、ひとりの青年のもとで揺れる。


王宮近くの石畳に足を止めたカイルの胸元で、風がペンダントを揺らす。

 その手の中にあるのは、リセリアの残した唯一の痕跡――金の鎖に収まる小さな懐中型のペンダント。

 開けば、少女と、その母の微笑み。

 胸が、痛んだ。


 彼女はどこへ行ったのか。

 なぜ、自分の目の前から、あの一瞬で消えたのか。

 そして――自分は、本当に「カイル・ノアール」なのか。


 色が変わって見える世界。


「……この辺りでは見ない顔だな」

 ふいに落ちてきた声が、夜を震わせた。


 カイルが顔を上げると、石段の上に立つ一人の男がいた。

 赫き王装と銀白の髪。燃えるような瞳が夜の灯に浮かび上がる。


 ――カルロフ・フレイ。炎朱の王。


「お主、テルミナから来た“カイル”という者か?」


 突然の名指しに、カイルは肩を強張らせる。


「……そうですが。どうしてそれを?」


 カルロフは一歩、石段を下りながら答える。


「赫の封印石は、テルミナより送られる手はずだった。

 配送にあたったのは、剣の才に欠けるが、色を見る目に異常な鋭さを持つ――そう聞いていた。

 そして今、私の前にいるお前は、剣を手にし、魔力を纏っている。

 只者ではないな」


 その目が、カイルの深奥を覗き込むように鋭かった。

 彼の言葉には、揺るぎない確信があった。


「……名前まで知ってるのか。お前も、ノアールって呼ぶのかよ」


「お前の真の名が“ノアール”であること――それは、我ら王家にのみ伝わる記録に残されている」


 カルロフは視線を空へと向け、語り出す。


「今夜、色度観測塔で封印された“黒の針”が動いた。わずかに――だが確かに。

 この百年、黒は一度も反応を見せなかった。

 だが、私がまだ幼かった頃、先々代の治世に一度だけ震えたことがあると記されていた」


 その記録にはこう書かれていたという。


 ――“その震えは、いずれ還る者の名を告げる”と。


「まさか、あの予兆が再び現れるとはな……お前の姿を見た時、確信に変わった。

 お前が“還る者”だと」


 カイルは思わず息を呑んだ。

 視界が一瞬、ぐにゃりと歪む。

 目の奥が熱く、心がざわついている。


「俺は……そんな大層なもんじゃない。

 ただ……ただ、リセリアを、守れなかっただけだ」


 握りしめたペンダントが、かすかに震えていた。


 そのとき、カルロフの纏うマントの下から、赫焔のような魔力がゆらりと滲み出た。

 火でもないのに、空気が揺れ、肌が粟立つ。


「……っ、なんだ、この感覚」


 カルロフの足元に揺れる影が、二重に広がる。

 見えぬ存在の咆哮が、確かに響いた気がした。


 ――《赫焔の裁竜・メギド》。赫き炎で真偽を焼き尽くす咎の竜。

 ――《赫槍の従騎士・マルバス》。戦術と治癒を司る、赫の槍を掲げる忠義の影。


 名も知らぬその存在たちが、確かに“そこにいる”と、カイルの本能が告げていた。


「……あんた、何者なんだ」


 カルロフは静かに答える。


「王である私もまた、過去に一度、門を超えた者だ。

 その証が、この身に宿る。――二つの神器と、それに応じる二柱の守護者。

 だが今夜、その守護者たちが囁いたのだ。

 “混沌を抱く者が目覚めた”と。

 “赫の炎が揺らぎ、影が蘇る”と」


 カイルは視線を落とし、手の中のペンダントを見つめた。

 失ったものと、残されたもの――どちらに目を向けるべきか。


 だが、決意が口を突く。


「……リセリアは、生きてるんだよな」


 カルロフは頷く。


「まだ、どこかにいる。

 お前が視た“灰”――その目があれば、必ず辿り着ける。

 その手で、彼女を――影の向こうから取り戻せ」


 その言葉と共に、夜の風が一度だけ脈打つ。

次の瞬間、紅蓮都市の地下――

 長きに渡り静寂を守っていた結界の陣が、わずかに脈打つ。

 目に見えぬ地の鼓動が、確かに異変を告げていた。



 遠くで、火の粉が跳ねるような音がした。

 ぼんやりとした熱に包まれながら、リセリアの母はゆっくりと目を開ける。


 視界に映るのは、灰に覆われた薄暗い天井。

 王宮の一室とはまるで違う、異質な空間だった。

 空気は重く、微かに焦げた鉄と灰の混じった匂いが鼻を刺す。


(……ここは……?)


 視線を巡らせた先に、ひとりの男が立っていた。

 仮面で顔の上半分を覆い、灰色の法衣に身を包んだ男――

 その赤黒く濁った瞳だけが、異様な光を宿していた。


「ようこそ、“赫の母”殿。ようやく目覚めていただけたか」


 静かで丁寧な声。しかしその温度は凍えるほどに冷たい。


「……あなた……まさか……」


「“宰相”と呼ばれていた男なら――もういない」


 仮面の奥の唇が静かに笑う。


「中身になど、興味はなかった。欲しかったのは、“器”だけ。

 炎朱に仕えていた年月も……すべては、この刻のためだ」


 ぞっとするほどの冷淡さに、リセリアの母の胸がざわめいた。


「名は、ラグナ・ヴァイス。かつてこの国に仕えていた忠臣だったらしいよ。

 だが今の私は、その“器”を借りる者。――《虹の最終刻》に属する者だ」


「《虹の……最終刻》……?」


 かすれた声で問いかけると、ラグナはゆっくりと仮面を外した。

 その下から現れたのは、どこか人間離れした造形――肌は白く、瞳は深い灰に染まり、笑みだけがやけに人間らしい。


「私は“虹の終焉”を担う者。――《アモン》と呼ばれている」


 その瞬間、空間全体がざわめいたように揺れた。

 結界に響く低音。地の底から、何かがうねるような気配が立ち上る。


 


 石の広間の中心――円環に縛られた少女が、そっと目を開けた。


「……母様……!」


 リセリア・フレイ。炎朱の王族にして、赫の器。

 眠りから覚めた彼女の目に映ったのは、結界に囚われた母の姿だった。


 その手を伸ばしたくても、触れられない距離。

 身を縛る結界が、リセリアの身体を拘束していた。


 そして、灰の帳を裂いて現れる仮面の男――アモン。


「ようやく目覚めたか。

 リセリア・フレイ。炎朱の王族にして、赫の器。

 君が目覚めたことで、“門”はその輪郭を得た」


「……あんた……宰相……じゃ、ない……」


「その通り。

 かつての宰相ラグナ・ヴァイスは、数ヶ月前に“精神を殺され”、この身体だけを残した。

 今ここにいる私は、その器を借りる者――《虹の最終刻》のアモンだ」


 リセリアは息を呑んだ。

 その名を、どこかで聞いたことがある気がした。

 いや、もっと本能的に――その存在に警鐘を鳴らしていた。


「目的はただ一つ。“アヴァドン”を目覚めさせること」


「アヴァドン……」


 その名を口にした瞬間、広間全体の空気が緊張を孕んだ。


「そう。君たちが“紅蓮の魔獣”と呼ぶ存在。

 だが本来、あれは“灰獣”にすぎなかった。

 この赫の地に封印されたことで、赫色を帯び――姿を変えた災厄だ」


「じゃあ……!」


「我ら《虹の最終刻》は、封印された“七つの災厄”を解き放つ者。

 この地に赫の器が生まれるのを、何百年も待ち続けてきた。

 そして今、すべてが揃った。器、地、そして――封印石」


 アモンが手を差し出す。

 その先――リセリアの足元に埋め込まれた封印石が、赫き光を灯す。


「その封印石……!」


「そう。あのカイルという小僧が届けた、未使用の赫色の封印石だよ。

 本来は封印するための石。だが、その力を逆流させれば――

 “封印を破壊する”こともできる」


 リセリアは驚愕する。


「あの石は……そんな使い方が……!」


「可能だとも。

 君の赫の力を媒介にして、この石に注ぎ込めば……

 封印は、崩れる。

 さあ――君の選択だ。

 母を救いたいのならば、結界を砕くしかない」


 リセリアは、足元に広がる封印陣を見つめた。


 ――私が、やらなければ。

 ――母様が、殺されてしまう。

 けれど、封印を解けば……何かが目覚めてしまう。


 選択は、彼女に委ねられていた。


 数秒の沈黙の後――リセリアは、目を閉じた。


 そして、口を開く。


「私は――リセリア・フレイ。

 炎朱の王族にして、赫の器。

 ……赫よ、応えて。

 私の誇りに、血に、願いに――!」


 その叫びに、赫き炎が呼応する。


 彼女の背に、赫の翼が広がる。

 結界が、軋む音を立てる。

 封印石が赤黒く脈打ち、地面を走る封印の文様が光を放つ。


 そして――


 封印石が砕けた。


 その瞬間、大地が鳴動し、灰の霧が吹き上がる。

 亀裂が床を這い、広間全体が不気味な振動に包まれた。


 地の底から――獣の咆哮が、轟く。


 それは、炎朱の地に眠る災厄。

 赫焔に染まりし元・灰獣――アヴァドンの目覚めだった。



 


 王宮の地に巡らされた封印結界が、次々と警告音を上げる。

 紅蓮都市の空に赫と灰が交じる閃光が走り、空が、揺れた。


 その咆哮は、街に響き渡る。


 赫と灰の狭間から蘇る――終焉の影。

 今、紅蓮の災厄が――解き放たれた。

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