第七章:影の中、名は囁かれる
埃の匂いが鼻を刺す。倉庫の中は薄暗く、陽の光が届かない。
中央にぽつんと置かれていたのは――茶色の布製のカバン。
確かに、カイルのものだった。
「やっぱり……間違いない。俺のだ。擦れた留め金、ほつれた肩紐、全部覚えてる」
カイルが手を伸ばし、恐る恐るカバンを開く。
中は――空っぽだった。
「……え?」
思わず声が漏れる。
封印石どころか、着替えも道具も何もない。まるで、最初から空だったかのように。
「何も……ない。全部、なくなってる……!」
声が震え始めるカイルに、リセリアは鋭い視線を向けた。
「……やっぱり、おかしい」
その一言に、カイルが顔を上げる。
「このカバン、ここに“放置された”んじゃない。誰かが意図的に“ここに戻した”。封印石だけを抜き取って」
彼女はゆっくりと後ずさりながら、空間の空気を読む。
場の気配が――変わった。
(……誰か、いる)
「カイル、すぐに後ろに下がって」
「え? なに――」
その瞬間だった。
空間がきしみ、闇の中で灰色の粒子が渦を巻いた。
霧にも似た灰が舞い、冷たい風が倉庫全体を包み込む。
その中心に、ゆっくりと浮かび上がるローブ姿の影――
「……彼女はよくやったよ。さすがは赫の器。“感知”の鋭さは特筆すべきだった」
あの老人の声だった。
だが、口調は変わっていた。老成した優しさではなく、冷たく研ぎ澄まされたもの。
「……あなた、いったい……何者なの……」
リセリアが声を絞り出すが、すでに身体は重く、動かない。
「質問の機会は、また今度だ。次に目覚めたとき、君は……より深く赫に近づくだろう」
そして、次の瞬間。
リセリアの身体が、まるで吸い込まれるように灰色の魔法陣へと沈み込んだ。
「リセリアッ!!」
カイルが手を伸ばす――しかし、届かない。
彼女の姿は音もなく、影とともに消え去った。
その場には、灰色の粒子だけが残っていた。
ふわり、と舞い落ちるそれは、まるで灰雪のように静かに――
……カイルの足元に集まり、膝を伝って、胸元へと流れていった。
「な……にこれ……」
粒子はしばらく漂い、彼の指先を掠めて――音もなく、空気に溶けるように消えた。
そのとき、彼の足元に何かが転がった音がする。
「……?」
地面に落ちていたのは、小さな銀のペンダントだった。
リセリアが身につけていたものだ。
そっと拾い上げ、留め具を外すと――中には、色褪せた一枚の写真。
病床に伏した女性と、幼い頃のリセリア。
優しく髪を撫でられている少女の笑顔が、そこにあった。
「……お母さん……?」
カイルの手がわずかに震える。
護れなかった。彼女も、彼女の大切なものも。
けれど、ここに残されたこのペンダントは、彼に語っていた。
(“ただの配達人”じゃいられない)
自分の無力さを噛みしめた。
――静寂。
灰の粒子がすべて消えた後、倉庫に残ったのはただひとつ。
カイルの手の中にある、銀のペンダントだった。
リセリアは、もういない。
カイルは声もなくその場にしゃがみ込み、ぬくもりを失った金属を強く握りしめた。
視線の先には誰もいない。
けれど、その胸の奥では、ずっと前から“そこ”にあった何かが、ゆっくりと動き始めていた。
(……どうして、俺なんだ)
強さもない。誇れる力もない。
身体強化以外に特別な力はなく、ただ“色”が好きで、世界を眺めていただけだったのに。
だけど――
目の前で、リセリアが消えた。
その現実が、胸に残る何かをゆっくりと溶かしていく。
(取り戻したい。あの人を……)
その想いが熱を持った瞬間、胸の奥がずくんと脈打った。
(……なんだ、これ……?)
視界が揺れ、足元が沈むような感覚に襲われる。
倉庫の景色が歪み、思考の奥に、“あの時”の記憶が浮かび上がってきた。
テルミナを発つ直前――灰獣に襲われ、気を失ったあの瞬間。
その直前、確かに見えた。
灰色の獣が――鳴いていた。
苦しそうに、何かを訴えるように、叫んでいた。
その身が崩れ、溶けていき、自分の胸の中へと――吸い込まれていった。
(……俺の中に、入ってきた……?)
記憶の隙間を、黒い霧が覆っていく。
混濁する意識の底から、“何か”が囁いた。
「――目覚めろ、黒の民よ」
「灰は、我らの欠片にすぎぬ。お前こそが、原初の色」
「お前の名は、カイルではない」
雷鳴のように響く声。
それは、彼の内側でずっと眠っていた存在が目覚め始めた証だった。
「名を刻め――」
その言葉とともに、深淵のような声が心に満ちていく。
それは波のように押し寄せ、音とも気配ともつかぬ形で、しかし確かに意味を成していた。
「忘却された色を、その身に抱く者よ。
滅びの先に生まれ、影を纏いて歩む者よ。
汝の真名を告げよ――
深淵の裔にして、始まりの終わりなる者……」
(……俺の名……?)
その言葉を追うように、カイルの口が動いた。
「……名を……刻め……忘却された色……影を纏い……」
拳を握り、彼は立ち上がる。
「俺の名は……カイル・ノアールだ!」
その名が告げられた瞬間――
カイルの中で“何か”が、確かに外れた。
世界が反転するような感覚。
呼吸が、空気が、光が――すべてが変質する。
胸の奥から湧き上がる熱は、炎ではない。
赫のような鮮烈さでも、自然の光でもない。
それは――底知れぬ静寂だった。
すべてを沈め、すべてを包み込む、深く優しい闇。
(……これが、俺の“色”……?)
その瞬間、背に何かが浮かび上がる。
それは翼ではなかった。ただの“影”だ。
闇が実体を得たように、静かに――カイルの背後で揺らめいていた。
黒と藍が交わる髪が、風もない空間でゆらめく。
瞳は龍のように細く鋭く変わり、
その身体には“黒の衣”が、影のように重なっていく。
やがて、彼の手には剣が現れる。
それは漆黒と藍のグラデーションを纏った、異形の双刃剣。
静かで、どこまでも深く、しかし確かな殺意を秘めた一振り。
「……俺の名は――カイル・ノアール。
忘却より還りし混沌、深淵の裔にして、
この世界が背を向けた“黒”だ」
その瞬間、カイルを中心に空気が爆ぜた。
黒い衝撃波が無音で倉庫を走り抜け、世界の色が一瞬だけ沈黙する。
その立ち姿には、翼も光もない。
けれど、その存在はまるで“かつて何かを統べていた者”の残響そのものだった。
……そして、遥か彼方。
色度を監視する世界最大の観測塔で――
封印されていた“黒”の針が、わずかに震え、
世界色度盤に――微かに、しかし確かに、“黒”を刻んだ。