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第六章:赫識

――カイルの背が、祭りの雑踏に溶けて消えていった。

 深紅に染まるこの都市で、彼がどんなものに出会うのか。それを考えると、リセリアの胸には不思議と安堵の灯がともる。


 だからこそ、自分は、自分の務めを果たすだけ。

 それが、リセリアという人間だった。


 ここは炎朱エンシュ国の中心、紅蓮都市。

 今日は、年に一度の「生誕祭」の初日――街はすでに熱気に包まれていた。


 高台の王城から放たれる赤金の光が石畳を染め、空には色とりどりの垂れ幕が揺れている。

 香辛料の匂いが風にのり、屋台の呼び声が通りを埋め尽くす中、人々の顔には晴れやかな笑顔が広がっていた。


 「ソルナ族が来たぞー!」

 歓声とともに通りの中央で始まる舞踏。橙色の衣を纏ったソルナ族が、太鼓の音に合わせて熱狂的なステップを踏んでいた。

 汗を飛ばし、全身を揺らすその姿は、まさに炎の祝祭の化身のよう。見物人たちは手を叩き、声を合わせ、熱狂の渦を作っていく。


 その喧騒の少し外れ――

 リセリアは衛兵の制服に身を包み、静かに人々の間を歩いていた。


 イグニス族である彼女の髪は燃えるような紅であり、その毛先には**淡くゆらめく炎が宿っていた。

 群衆のなかにいても、その存在はひときわ目を引く。それでも、本人は一切それを意に介さない。


 「リセリア様だ……」「火の天使だ……」

 そんな囁きが背中を撫でるように聞こえてくるたび、彼女は小さく帽子の鍔を直すだけだった。


 見回りの記録帳には、すでに数件の記載があった。

 「老人の体調不良、第三通り北端」「灰色の噂、子供より聴取」――几帳面な文字が並ぶ。


 「……次は市場通り。騒ぎがあったようね」


 リセリアが足を向けた先では、ルミア族の薬屋が即興のポーション販売をしていた。

 白衣の袖を翻しながら、鮮やかな瓶を差し出す姿が、通りの飾りと溶け込むように美しい。


 「飲んだら走れるポーション、今日は半額よ! でも三本目からは走りすぎ注意!」


 軽口をたたくルミア族の女性に、ミルダ族の子供たちが花輪を持ってじゃれついていた。

 小さなコケの冠をつけたその姿は、風に乗って踊るように生き生きしている。


 リセリアは祭りの中心を横目に、群衆の切れ間でふと足を止める。


 壁際に座る老婆と幼子。その手にはひとつのパン。

 彼女は黙って銀貨を渡し、もう一つを焼いてやるようパン屋に告げる。


 老婆が顔を上げる前に、彼女はまた歩き出していた。


 群衆の中に灯るひとつの炎――それは、剣でも踊りでもなく、責任と祈りを背負う者の歩みだった。


 (……灰の気配は、今は感じない。でも、完全に消えたわけじゃない)


 リセリアは記録帳に目を落とし、次の巡回区を確認する。

 祝祭の歓声に包まれながらも、彼女の瞳だけは冷静に、この都市を見つめ続けていた。




 紅蓮都市の歓声が背に遠ざかるほどに、街の喧騒は穏やかな風に溶けていく。


 リセリアは、石畳から外れた住宅区へと足を運んでいた。

 赤い瓦屋根が並ぶこの区画は、観光客の往来も少なく、古くからの住人が静かに暮らしている。

 彼女の自宅もその一角にあった。


 身にまとっているのは、紅蓮都市騎士団の制式装備。

 赤と黒を基調にした軽装の鎧は動きやすさを重視して設計されており、その左胸には炎朱の国章が刻まれている。

 彼女にとっては日常の一部であるこの鎧が、街の民にとっては安心の象徴だった。


 扉を開けると、かすかに薬草の香りが漂ってくる。

 日差しの入る窓辺には、色あせた編み物と、数冊の読みかけの本。

 そして、その奥で穏やかに横たわっている一人の女性。


 「おかえりなさい、リセリア……今日も、よく頑張ったのね」


 「ええ。ただいま、お母様」


 リセリアは外套を脱ぎ、静かに火鉢に火を灯すと、小鍋に水を張って薬草を入れた。

 鍋の下に仕込まれた魔法石の熱がゆっくりと広がり、やがて湯気が立ちのぼる。


 ミレーナは、その様子を見ながら微笑む。


 「……その鎧、やっぱり似合うわ。強くて、美しくて……まるで、昔のあなたのお父さんみたい」


 「それは過分な褒め言葉です。父の背には、まだ遠く及びませんから」


 リセリアは少しだけ表情を和らげながら、薬草の煎じ湯を注ぐ。


 「でも、あなたの中の“火”は、あの人とは違う。あなたは――もっと、あたたかい」


 ミレーナの言葉に、リセリアの手がわずかに止まった。

 父のこと。かつて都市を守り、戦場で名を上げたイグニス族の騎士。

 その後ろ姿に憧れながらも、同時に重さを感じてきた日々が蘇る。


 薬草の香りが部屋を満たしていく中、ミレーナが静かに告げた。


 「私ね、願ってるの。あなたの中の“火”が、誰かを焼き尽くすためじゃなく……誰かを、温められますように、って」


 リセリアは目を伏せたまま、言葉を選ぶように口を開いた。


 「……私は、それが……できるでしょうか」


 ミレーナはかすかに目を細め、リセリアの指をそっと握った。


 「きっと、できるわ。あなたなら」


 その言葉には、確信というより、祈りに似た強さがあった。

 リセリアは黙って頷き、母の手を包み込む。


 「この街が、どうか平和でありますように」


 それは兵士としての願いでも、娘としての願いでもある。

 炎の器として、そしてただ一人の少女としての祈りだった。


翌朝、紅蓮都市はさらなる熱気に包まれていた。生誕祭の本祭へと向けて、王都全体が動いている。


 その中心――紅蓮王城。


 白銀の塔と深紅の尖塔が交差する城館は、燃えるような陽光の下でも威容を放っていた。

 その一室、赤絨毯が敷かれた円卓の会議室。

 各部門の代表者が顔を揃える中、リセリアは騎士団の代表として、姿勢を正して席に着いていた。


 ほどなくして、重厚な扉が開かれる。


 「ご着座願おう。カルロフ・フレイ陛下のご到着だ」


 粛然と立ち上がる一同。

 入室してきたのは、威風堂々たる白髪の壮年――炎朱の国王、カルロフ・フレイその人だった。


 紅蓮の王と称されるその男は、年を重ねながらも背筋を一分も曲げることなく、軍装の上に羽織る赤金の王衣をたなびかせていた。

 鋭くも慈愛を含んだその瞳は、諸将の間をゆっくりと見渡す。


 「諸君、ご苦労である。今年の生誕祭も、都市の皆が喜んでくれておるようだな」


 数名の将が頷き、感謝を述べる。リセリアも小さく礼を取った。


 カルロフは軽くうなずき、やがて一つの話題に入る。


 「……例年通り、本日、紅蓮の封印も確認し、強化を行う」


 その言葉に、場が少しだけ張り詰める。

 “紅蓮の封印”――それは、かつて王自らが魔獣アヴァドンを封じたとされる深紅の結界。


 「封印に使われていた赫色の封印石。残念ながら、近年わずかに“歪み”が見られていた」


 リセリアのまなざしが、ほんの僅かに動く。


 「今回の生誕祭に合わせ、腕の立つドワーフ細工師に修復を依頼した。封印の強化は都市の安寧の要……例年行われる伝統とはいえ、今年は一層慎重を要する」


 「ドワーフに、ですか……テルミナの工房ですか?」


 騎士団副長のひとりが問いかけると、カルロフは軽くうなずき、やがて一つの話題に入る。


 「……例年通り、本日、紅蓮の封印も確認し、強化を行う」


 「その際に使用する赫色の封印石だが……実のところ、まだ都には届いておらん」


 ざわり、と室内の空気が揺れた。

 例年なら前日までに到着しているはずのその品が、未だ姿を見せていないという事実。


 「テルミナのドワーフ細工師に修復を依頼し、確かに発送の報は受けている。だが到着予定日を一日過ぎても、配送者からの連絡はない」


 カルロフは一同をゆっくりと見渡し、言葉を続けた。


 「配送にあたったのは、ある一人の青年だ。特段、剣の腕が立つわけではないが……色に対して、異常なまでの執着と識別力を持っている。色の特性と危険性を見抜ける者として、彼に託したらしい」


 そして、名を告げる。


 「――カイル、という」


 リセリアの胸に、鋭い痛みが走った。

 (カイル……テルミナ……赫色の封印石……)

 脳裏でひとつひとつが繋がっていく。


 (彼が運んでいたもの、それが赫の封印石だった……?)


 カルロフの声が続く。


 「いまだ姿を見せない。何かがあったかもしれん。リセリア――」


 「……はっ」


 王の視線と声が重なるよりも早く、リセリアは立ち上がっていた。

 騎士の礼をもって返答し、そのまま言葉を継ぐ。


 「捜索に出ます。祭りの混乱に紛れて潜む危機がある以上、速やかな対応が必要です」


 「うむ。任せる。何よりも大切なのは、封印を守ること――頼んだぞ、“赫の器”よ」


 王の言葉を背に、リセリアは会議室を後にした。

 その足取りには、すでに迷いはなかった。

 

生誕祭 二日目の午後、紅蓮都市の市場通りはひときわ賑わいを見せていた。


 色とりどりの布地が風に揺れ、香辛料と果実酒の香りが混ざり合い、人々の笑い声が路地に満ちている。

 その中を、リセリアは足早に歩いていた。


 目の端に映るものすべてを観察し、焦点は一つ――カイル。

 テルミナから封印石を運んできた、あの青年の姿を探していた。


 (見つけ出さないと……手遅れになる)


 王の口から語られた「カイル」という名。

 赫の封印石――それは、彼の持っていたカバンの中に入っていた可能性が高い。


 (まさか……まさか本当に……)


 そのとき、露店の先で、子どもたちに囲まれている男の姿が目に入った。


 色とりどりの羽飾りをつけた帽子、鮮やかな襟元、どこか場違いなまでに明るい笑顔。


 「……いた」


 リセリアは一歩、その男へと歩み寄った。


 「カイル!」


 その声に、カイルが振り向く。

 目をぱちくりとさせた彼は、相変わらずの調子で手を振ってきた。


 「やあ、リセリア! 見回りご苦労様! すごいよ、ここ――セリス族の空色飴、買い占められててさ! あとね、ミルダ族の苔酒、あれ案外イケる――」


 「カイル」


 リセリアの声色が低くなった。


 その目に、普段の柔らかさはなかった。鋼のような意志が、まっすぐにカイルを射抜いていた。


 「聞くわ。あなた……あの時、持っていたカバン。赫の封印石が入っていたはず。あれ、今どこにあるの?」


 笑顔のまま固まるカイル。その目が、少しずつ揺らぎ始める。


 「……え? ちょ、ちょっと待って……今、赫の封印石って……言った?」


 「そう。赫色の封印石。アヴァドンの封印に用いられたもの。あなたが運んできたと、国王から正式に報告があった」


 リセリアは一歩、カイルに近づいた。

 市場の喧騒の中で、ふたりだけの空気が、凍りつくように張り詰める。


「そのカバン、今どこにあるの?」


 「……それが」


 カイルは視線を逸らし、帽子の縁をぎゅっと握りしめた。


 「朝起きたら、もう無かったんだ。部屋は鍵をかけてたはずで、誰かが侵入した痕跡もなかった……」


 言いづらそうに口を閉ざした彼を、リセリアがじっと見つめる。


 「まさか……気づかなかったの?」


 「……うん。正直、あんまり覚えてない。

 昨日は市場で見かけた《空青の織布》に見とれてて……いや、その色がさ、アクアリオン族とセリス族の混織っぽくて珍しくて、光の屈折まで気になって……で、そのあと宿に戻って……気づいたら……」


 語尾がどんどん小さくなっていく。


 「その中にあったのは――赫色の封印石よ」


 リセリアの声が落ちて、空気が冷えた。

 カイルの顔から血の気が引いていく。


 「……そ、そんな大事なものが……俺……俺、やっちゃった……?」


 「まずいわ」


 リセリアはそう呟き、眉をひそめた。


 「もし、それが誰かの手に渡ったとしたら……赫の封印が、危うくなる」

紅蓮都市の西側、通称“裏商区”。

 昼間でも人通りが少ないこの一帯は、倉庫街や古道具店、空き屋の増えた路地裏が複雑に入り組んでいた。


 「このへんの路地って、思ってたより深いな……しかも、やけに静かだ」


 カイルが呟く。

 市場の賑わいから離れたこの界隈は、どこか空気が淀んでおり、祭りの喧騒が嘘のようだった。


 「都市の外縁に近い場所よ。かつては職人たちの作業場だったけれど、今は廃れて久しいわ」


 リセリアはそう言いながら、視線を巡らせていた。

 赫の封印石が意図的に持ち去られた可能性――それが事実なら、ただの盗難では済まされない。

 彼女の直感が、何かを警告するようにざわついていた。


 そのときだった。


 「おやおや……若いのがこんなところで何を探しておるのかねぇ」


 錆びた声が、細い路地の奥から響いた。

 振り返ると、そこには一人の老人が立っていた。

 ゆったりとした灰色のローブに、深く被ったフード。手には節くれだった杖。


 「……あんた、誰だ?」


 カイルが眉をひそめる。


 老人はにこにこと笑みを浮かべたまま、ゆっくりと近づいてきた。


 「ただの物好きな老人さ。歳をとると、よく道に迷うからの。」

 と老人が答えた。


 こんなところに人がいるのは怪しかったが、今はカバンを探すことが最優先。


 「あの、使い古しの皮のカバンをみませんでしたか?色は焦げ茶色でところどころに自分で縫った補修の痕があるやつなんですけど。」


「…ああ、つい昨日のことだったか。ちょっと変わったカバンを見た気がしてな。色が妙に目立っておったな……ふふ。わしのような老骨でも、ああいう色は目につくもんじゃよ」


 「……!」


 カイルがわずかに反応する。

 心当たりがあるのだろう。リセリアはその肩越しに老人を見つめた。


 「それを見かけた場所、教えていただけますか」


 リセリアの声は平静だったが、よく聞けばその奥には警戒心がにじんでいる。


 「ふむ、確か……わしの管理しておる倉庫の近くだったかのう。荷が置かれたり捨てられたり、よくある話じゃが。君ら、何か大切なものでも探しておるのかい?」


 「ええ。少しばかり、ね」


 リセリアの答えは曖昧だった。

 老人は構わず、くるりと踵を返した。


 「案内しよう。この先じゃよ。少々足場が悪いが、気をつけてついてくるといい」


 「……行くの?」


 カイルが小声で問うと、リセリアは小さく頷いた。


 「彼が誰であろうと、手がかりがあるなら、見過ごせない」


 「でも、なんか……喋り方がこう……演技くさいというか……」


 「私も、そう感じてる。けど――動くなら今よ」


 二人は老人のあとを追った。


 薄暗い路地を抜け、朽ちかけた倉庫群の並ぶ一角へと入る。

 人の気配はなく、空気はひどく静かだった。


 「ここじゃよ。見かけたのは、ここの扉の前じゃった。中にあるかどうかは……わしも確かめてはおらんがな」


 老人が示したのは、古びた木製の扉。蝶番は錆びつき、取手には埃が積もっている。


 カイルが前に出ようとした瞬間、リセリアが片手で制止した。


 「私が先に入るわ。何があるかわからない」


 短く言い残し、彼女は扉を押し開けた。


 倉庫の中は薄暗く、空気は湿っていた。

 埃の匂いが鼻をつき、かすかな風が隙間から吹き込んでくる。


 その中央に――見慣れた、茶色い布製のカバンが転がっていた。


 「……俺のだ」


 カイルが小さく呟いた。


 だが、リセリアの瞳は、カバンの奥――部屋の空間そのものに向けられていた。

 そこに漂う“何か”、見えない違和感が、じわじわと忍び寄ってくる。


 彼女は、背後に立つ老人に目をやった。


 にこやかな笑顔は崩れていない。だが、そこにある“整いすぎた空気”――

 それが、リセリアの本能をわずかに震わせていた。

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