【001】見知らぬ春
「貴方はね、神様の子供なのよ」
柔らかい声音、優しい瞳。母は、僕が『僕のお父さんは誰なの?』と問いかける度、いつもそう答えた。僕は母が夢見がちなのだと、あるいは父に関して言いたくないのだろうと、そう捉えるようになり、自発的には質問しなくなった。
だが母は、たびたび自分から僕に言った。
『貴方は神様の子なの』
『気づいたら宿っていたの』
『私は清廉な身なのよ』
いつもそう口にしていた。中学校の保健体育の授業の教科書にすら、子供が生まれる仕組みは書かれている。だから僕は反抗したこともあった。
「嘘つき!」
すると母は悲しそうに笑い、僕の頭を撫でた。僕の、薄茶色の髪を。母の髪は黒いけれど、僕は生まれつき色素が薄い。髪も茶色く、瞳の色もそれは同じだ。色も白い。僕の顔は彫りが深めで、『ハーフですか?』と聞かれることも珍しくなかった。
だが僕は、母を糾弾したことを後悔している。
――だからね、周。貴方は、神様の授けてくれた子供なのよ。
耳元で、母の声がした。
飛び起きた僕は、ぜぇはぁと上がった息に苦しくなりながら、Tシャツの胸元をギュッと手で握る。そして自分が、寮の私室で寝ていることを再確認した。
母が亡くなったのは一ヶ月前、僕が中学三年生の時だ。
それから紆余曲折を経て、僕はこの学園の理事の一人である神宮路先生に後見人になってもらい、今、ここにいる。全寮制の私立光雪英瞭学園高等部の一年生になった。入学式は一昨日で、明後日から新学期が始まる。
シャワーを浴びたい気分になって、僕はそろりそろりと部屋を出た。
一つの部屋に、二人の生徒が入寮していて、それぞれに私室があてがわれている。リビングとキッチン、浴室と洗面所や脱衣所、洗濯機置き場などが共用だ。僕の同室の天海燦はまだ眠っているようだ。なにせまだ、窓の外は薄暗い。僕は当初、隣室者はおらず一人部屋だと聞いていたけれど、それは間違いだった様子で、天海が先に引っ越しを済ませていて、僕を見るとニッと笑いかけてくれた記憶がまだ鮮明だ。
シャワーに入って、僕は茶色い髪を洗いながら、茶色い目で鏡を見る。
彫りも深く、肌は白い。
だから結局僕に父の名前を告げずに母は逝ったけれど、海外の血が入っているのかも知れないと、僕はたまに思う。ただ彫りの深さでいうのならば、天海も負けていない。それに身長は日本人として平均的な僕に比べて、天海の方がずっと高い。なお天海は黒い髪に黒い目だ。色彩や肌の色、体格、顔面造形、それらにどんな意味があるのかを、僕はきっと正確には理解していないだろうけれど、純粋に綺麗だなと思うような感覚はある。
シャワーを済ませて髪を拭き、キッチンへと向かうと天海が起きていた。
「おう、早いな」
天海はそう言うと、僕にミネラルウォーターのペットボトルを差し出した。
「天海こそ」
「ちょっと夢見が悪くてな」
「どんな夢を見たの?」
「また俺が死ぬ夢さ。簡単に言えばな」
くつくつと天海が喉で笑う。僕は、母のことがあってから『死』という単語に敏感だけど、天海を糾弾するような気にはならない。
「辛かったね」
「いいや?」
「衝撃的だった?」
「そうでもない」
「じゃあどうして夢見が悪いと感じたの?」
「俺は、だな」
天海は言葉を句切ると、天井を仰いだ。
「俺は、自分の遺体が柩に入ってない葬儀の経験は、誰にも負けない自信がある」
「へ?」
「ただ、遺した奴らを想ったんだ」
不思議なことを言う天海の前で、僕は水で喉を癒やす。
「夢の中では、どんな人を遺してきたの?」
「夢、か。俺が『夢』と言ったわけではあるが、決してその表現は正確ではないんだ」
「そうなんだ?」
「これは俺の生業の問題だからな、いつか、またゆっくり話そう。それより、朝食はどうする?」
唇の片端を持ち上げて、天海が笑う。僕は冷蔵庫の中身について考えるよう、思考の方向性を変化させた。
「オムレツは?」
「いいな。俺が腕を振るおう」
「じゃあ僕は味噌汁を作るよ」
「スープを希望する」
「インスタント、あったかなぁ」
そんなやりとりをして、この日の朝は始まった。
朝食後、僕は明日から通うことになる学園内の各所を見て回ることに決めていた。天海は部屋にいるというので、真新しい制服を纏って、僕は一人で外に出る。春の風はすでに温く、桜は散ろうとしていた。ひらひらと舞い落ちてくる薄紅色の花びらを眺めながら、僕は土手を歩く。遠目には、モノレールが見えた。
ここ、光雪市は、山をくりぬいた盆地に造られた学園都市だ。
南海トラフ大地震で地図が変わって十年。
復興の傍らで、こうした学園都市などがいくつか建設された。その中でも光雪市は規模が小さく、知る人ぞ知る学園都市なのだが、地盤の観点からは安全だとされ、主に富裕層の子息子女と、奨学生が通っている。一貫教育校が二つだけ、男子校と女子校で存在する。小学校までは、各都市にあり、中学高校からは、エリートのみが全寮制で暮らしている。
ただ別に僕はエリートではないし、決して頭がいいわけではないが、これでも奨学生だ。ある種の例外だと思う。
母が死んだ後、火葬を終えて骨箱を手に家へと戻った僕の前に、あの日神宮路未明先生は現れた。目を伏せれば、今もその時の事が鮮明に甦る。そして、母のことも。
――その日、僕は桐の骨箱を手に、家の前に帰ってきたところだった。春に癌の末期だと宣告された母は、僕が中学校を卒業する前に逝ってしまった。母子家庭で、母の実家についても僕は知らない。父はいない。僕は、所謂天涯孤独という身になった。
もうすぐ、中学校は卒業だ。これから、僕はどうなるのだろう。
そう考えながら家の前にいた時、砂利を踏む足音が聞こえた。何気なく視線を向けると、そこには薄手のコート姿の“大人”が一人立っていた。男の人だ。
「はじめまして、磐余周くんだね?」
「は、はい。ええと……?」
「私は神宮路未明、私立光雪英瞭学園の理事をしている。お母上のことは、残念だったね。私は彼女に、何かあった時に周くんの後見人になってほしいと頼まれていたんだ」
「後見人……?」
「簡単に言えば、世話をすると言うことだ。詳しい話がしたい。家の中に招待してくれないか?」
怪しい人だったらどうしようかとは思った。ただ僕は、重い骨箱を早く家の中に置きたかった。それに、今後どうすればいいのかも分からなかったから、神宮路先生を招き入れることにした。
玄関の鍵をあけてアパートの中へと入り、居間の座布団を見る。
「どうぞ」
それから隣の寝室に、白い布に包まれた骨箱を置いた。これまで仏壇なんて不要の生活をしていたから、他に置く場所も無い。
それから手を洗い、キッチンでお茶の用意をして、僕は居間に戻った。
湯飲みに安い緑茶を二つ注ぐ。そして片方を神宮路先生の前に差し出した。
「お構いなく」
そう言った神宮路先生を、改めてまじまじと見る。長身で、短い茶髪、前髪を後ろに流している。少し色の入った眼鏡をかけている。三十代半ばだろうか。
「これから、どうするつもりだね?」
「……その」
中卒で働くという以外の選択肢を、僕は持っていなかった。だが、それすらも、どうすれば出来るのかが分からない。
「もし君さえよかったら、だが。私が理事をしている学園の編入試験を受けてみる気は無いかな?」
「え?」
「全寮制で、奨学生は学費も免除だ。衣食住も保証される」
「っ!」
「どうだね?」
「受けます!」
反射的に僕はそう答えていた。すると両頬を持ち上げた神宮路先生がゆっくりと頷き、封筒から一枚の紙を取り出した。
「これが編入試験の問題だ。今すぐに、解くように」
そしてボールペンもそばに置いた。見れば自由記述式だった。
深呼吸をしながら、五教科だろうかと考える。
だが、違った。
Q1:第二次南海トラフ大地震が発生するのは西暦何年?
Q2:新興宗教モルダーにによる毒ガステロが発生するのは西暦何年?
Q3:遅れてきたノストラダムスが起こすと言われる災害は西暦何年?
以後、そういったオカルトティックな問題が続いた。僕は当初混乱したけれど、問題文を読むと、何故か映像のような光景が脳裏に浮かび、答えが分かった。だから、丁度百問、答えきった。はぁっと息を吐き、それを神宮路先生に提出した。
「ほう、さすがだね。それでこその、“子”だ」
「え?」
「いいや、なんでもないよ。さて、君は合格した。中学校の卒業式は昨日だったと記憶しているよ。さぁ、荷物をまとめるといい。このまま車で、光雪市の寮へと送る。この家の処理は任せてくれて構わない」
「……、……」
「一人部屋だよ、気兼ねなくね」
こうして、僕はその日、神宮路先生の車に乗った。後部座席で二人。運転手は別の人がしていた。助手席には神宮路先生の秘書さんが座っていた。どうせ、あてもなかったから、僕は他に縋れるものもなく、この車に乗ったのである。
そして、今だ。
歩きながら僕は、学び舎を見上げる。明日からは、授業がある。この学園は普通授業と特別授業があり、特別授業は選択制だ。どちらかといえば大学に近い形態らしく、単位制でもある。僕は天海に誘われて、多元宇宙論の特別授業を取ることは決めたが、他はまだ未決定であるから、帰ったらシラバスを見て、時間割を決定しなければならない。三学期制の男子校で、少し離れた場所に女子校があることを改めて思い出す。共学が多いご時世だから珍しい。制服は、男子校だがスカートも選べるようになっている。
僕が通う特別クラスがS組、進学クラスがA組とB組、スポーツ特待生が通うC組、D組からが普通クラスだ。特別クラスは、なにが特別なのかはわからない。各クラスの人数はまちまちだが、一学年三百人前後がいるらしい。
部活動や委員会への参加は自由なのだという。
僕は、これから、どんな風に生きていくんだろう。まだそれが、僕には分からなかった。
夢見は僕だって悪かったはずなのに、僕には将来の夢が見えないから、そちらの方が重くのしかかってくる。僕は風に茶色い髪を掬われたので頭を振ってから、寮へと戻ることに決めた。