第7話:最初の事件ファイル
国王の執務室から退出すると、重厚な扉が背後で静かに閉まった。
廊下に残されたのは、私と、相変わらず食えない笑みを浮かべたカイン・アシュベリー卿の二人だけだった。彼は芝居がかった仕草で一礼すると、早速、私を試すように言った。
「さて、閣下。……おっと、失礼。未来の法務大臣殿。最初のご命令は、いかがなさいますか?」
その皮肉めいた呼び方を聞き流し、私は即座に答える。検事として、捜査の初動がいかに重要かを、私は誰よりも知っていた。
「まずは、拠点が必要です。情報が外部に漏れず、二人で集中して作業できる部屋を。それと、姉、リリアーナの事件に関する公式記録を、今すぐ全て手に入れてください。判決文、証拠リスト、尋問調書……些細なメモ一枚たりとも、見落としなく」
私の淀みない指示に、カイン卿は一瞬、目を丸くしたが、すぐにいつもの笑みに戻った。
「……承知いたしました。さすがに話が早い。では、こちらへどうぞ」
彼に案内されてたどり着いたのは、騎士団の詰所の喧騒から離れた、城の奥まった一角にある部屋だった。プレートには「特務調査室」とだけ、素っ気なく書かれている。
中は、彼の性格を反映してか、一見すると整然としているが、実用本位の空気に満ちていた。壁には巨大な王都の地図や貴族の相関図らしきものが貼られ、机の上には膨大な書類の山が、独自のルールで整理されている。ここは、まさしく情報を扱うための仕事場だった。
「悪くない部屋ですわね」
「お褒めに光栄です。では、閣下がお望みの『事件記録』です」
カイン卿が、部屋の隅の鍵付き書庫から、分厚いファイルの束を運び出してきた。表紙には「リリアーナ・フォン・バルテルス公爵令嬢に関する、外患誘致容疑事件」とある。
私は椅子に腰かけ、そのファイルを一つ、手に取った。
ページをめくるたびに、二年前の、姉を襲った理不尽な悲劇が浮かび上がってくる。
容疑は、「隣国の王子に、我が国の軍事機密を漏洩した」というスパイ罪。
証拠とされたのは、二つだけ。
一つは、彼女の私室から発見されたという「暗号で書かれた手紙」。
もう一つは、彼女が隣国の王子と夜な夜な密会していた、という「匿名の目撃証言」。
私は、前世の知識と経験で、この立件がいかに脆弱なものかを一瞬で見抜いていた。
「……ひどいものですわね」
思わず、声が漏れた。
「物証はこの手紙一点のみ。しかも、筆跡鑑定が行われた形跡すらない。差出人も宛先も不明。こんなもの、誰かが部屋に置けば、それだけで証拠として捏造できる」
私は指で、証言調書のページをなぞる。
「匿名の証言など、証拠能力はゼロに等しい。なぜこんなもので、公爵令嬢が有罪になったのかしら」
私の呟きに、カイン卿が肩をすくめて答えた。
「当時の裁判官は、国王陛下の弟君、グランヴィル公爵の派閥の者でした。まあ、お察しください」
グランヴィル公爵。王弟であり、保守派貴族の筆頭。彼の名前が出たことで、事件の背景にきな臭い政治闘争の匂いが立ち込めてくる。
私は顔を上げ、カイン卿の目を真っ直ぐに見つめた。
「アシュベリー卿。あなたはこの事件の真相を、どうお考えですの?」
彼は、私の視線から逃げることなく、率直に答えた。
「俺は事実しか信じない主義でしてね。そして、この事件記録から読み取れる事実は、『極めて不自然な裁判で、一人の令嬢が追放された』ということだけです。あなたの姉君が潔白かどうかは、これからの調査次第でしょう」
まだ、私を信用しきってはいない。だが、彼の瞳には、嘘や誤魔化しを許さない、誠実な光が宿っていた。この男は、味方にすればこれ以上なく頼もしい。
「結構です。その言葉が聞ければ十分」
私はファイルを閉じ、調査の第一歩を決定した。
「まずは、証拠とされたこの『手紙』そのものを、改めて詳細に分析する必要があります。使われているインクの成分、紙の質、そして何より、この稚拙な暗号の解読を」
私は立ち上がり、壁の地図へと歩み寄る。そして、王城から少し離れた、ある一点を指さした。
「それと……この事件の鍵を握る人物に、直接会いに行きますわ」
カイン卿が、私の指差す先を見て、わずかに眉をひそめる。
「裁判で、姉に不利な証言をした、唯一の人物。姉の元侍女長に、です」