第68話:沈黙の旋律と、真実の響き
始祖の祭壇は、荘厳なまでの静寂に包まれていた。
風の音も、鳥の声も、木々のざわめきすらも聞こえない。ただ、そこにいる者たちの、緊張した息遣いだけが、やけに大きく感じられた。
国王陛下が、厳かに、その右手を上げる。
「――提唱者、ヴァレリウス公爵。そなたの主張を、盟約に示せ」
ヴァレリウス公爵は、その言葉を待っていたとばかりに、不敵な笑みを浮かべた。彼は、この審判の勝利を、微塵も疑っていない。
彼は、あの、青白い骨のような「精霊封じの笛」を、ゆっくりと、その唇へと運んだ。
次の瞬間、音色が、紡ぎ出された。
だが、それは、美しい旋律ではなかった。
複雑で、緻密で、数学的に、あまりにも完璧な、しかし、心のカケラも感じられない、冷たい音の連なり。それは、歌というよりは、寸分の狂いもなく組み立てられた、音の「法典」のようだった。
その音色が、世界を支配していく。
風が、止まった。雲の動きが、凍りついた。精霊たちの、あの賑やかな囁きが、ぴたりと、止んだ。
世界から、全ての「ゆらぎ」が消え、絶対的な、しかし、あまりにも不自然な「静寂」が、訪れた。
それは、平穏などではない。魂が、巨大な檻に、閉じ込められたかのような、息の詰まる、沈黙だった。
貴族たちが、その圧倒的な魔力の支配を前に、畏怖の表情を浮かべる。これが、ヴァレリウス公爵の掲げる「支配による、秩序」の姿なのだ。
そして、その力は、私に、最も、直接的な形で、襲いかかってきた。
(……あ……っ)
「鍵」を通じて、私が感じていた、この世界の息吹、精霊たちの声、その全てとの繋がりが、一方的に、強制的に、断ち切られていく。
それは、目や、耳を、内側から、塞がれていくような、耐えがたい苦痛だった。
私が、その精神的な激痛に、膝をつきそうになった時。
視線の先に、カインの、私を案じる、真剣な瞳が見えた。姉の、祈るような顔が見えた。
(……まだ、よ。まだ、私は、負けられない……!)
ヴァレリウス公爵が、その支配の旋律を、吹き終える。
彼は、勝利を確信した目で、私を見下ろした。
だが、私は、立っていた。青ざめ、汗を流しながらも、その足で、確かに。
私は、目を閉じた。
そして、笛という「道具」に頼る彼とは違う、私だけの方法で、この世界の、本当の支配者へと、語りかける。
私の武器は、「鍵」の力そのものではない。その力を使って、私の「言葉」を、私の「論理」を、届けることだ。
私の意識が、深く、そして、高く、この土地の根源へと、潜っていく。
そして、私は、私の「最終弁論」の、第一声を、放った。
『――聴こえますか、この土地を治める、大いなる精霊王よ』
その声は、音にはならない。だが、その場にいる、魂を持つ全ての者の、心に、直接、響き渡った。
『私は、法務大臣ルクレツィア・バルテルス。法を司る者として、今、ここにある「古の盟約」という名の、契約について、弁論を開始いたします』
ヴァレリウス公爵の顔が、驚愕に歪む。私が、このような方法で、反撃してくるとは、全く、予想していなかったのだろう。
『まず、対するヴァレリウス公爵は、その主張を、奏で終えました。彼の主張とは、「支配による、絶対的な秩序」。その主張がもたらす結果について、私は、ここに、最初の証拠を、提出いたします』
私は、自らの「鍵」の力に、一つの、鮮明な情景を、乗せた。
それは、私が、この目で見てきた、真実の光景。
次の瞬間、審判を見守る、全ての者の脳裏に、その光景が、幻となって、浮かび上がった。
――水が干上がり、大地はひび割れ、作物は枯れ、途方に暮れる、民衆の姿。
――精霊の力を奪われ、苦しみの果てに、泥の獣と成り果てた、大地の悲鳴。
セレーネ川で起きた、あの惨状そのものだった。
私は、全ての者に向かって、静かに、しかし、力強く、問いかけた。
『――これが、本当に。あなた方が、そして、この世界が、望む、「平穏」の姿なのですか、と』




