第61話:法務大臣と巫女の葛藤
法務大臣としての昼間の顔と、一人きりの夜の顔。
今の私には、二つの顔があった。
昼間は、法と論理を武器に、王国の改革に邁進する。古い法律の矛盾点を突き、抵抗する貴族たちを、事実と正論でねじ伏せる。それは、私が、私らしくいられる時間だった。
だが、夜が来ると、もう一人の私が、顔を出す。
自室で一人、書類に目を通していると、ふいに、インク瓶がひとりでに揺れる。燭台の炎が、意思を持ったかのように、大きく燃え上がる。耳の奥で、風や、川のせせらぎのような、不思議な囁きが聞こえる。
そして、手袋の下で、右手の甲の紋章が、まるで、ここにいるぞ、と主張するかのように、鈍い痛みと共に、明滅を繰り返す。
(これが、私……?『鍵』としての、私……?)
この、論理の通じない、制御不能な力。
法と秩序を信条とする私にとって、それは、自らの内に巣食う、理解不能な「混沌」であり、恐怖の対象でしかなかった。この力のことを考えれば考えるほど、その力は、より、強く、私の心をかき乱すのだ。
臨時御前会議を、二日後に控えた夜。
私は、ついに、一人で抱え込むことを諦めた。
カインに見張りを頼み、私は、夜陰に紛れて、宮廷魔術師長ダリウス卿の工房を、密かに訪れた。
「……やはり、そうか」
私の、淡く光る手の甲を見たダリウス卿は、長い、長い、ため息をついた。
「『盟約の守り手の紋章』……。古文書でしか見たことのない、伝説の聖印だ。それが、まさか、現存しておったとはな」
彼は、いくつかの診断魔法で、私の魔力状態を調べると、厳しい顔で、結論を告げた。
「大臣。問題は、あなたがこの力を持っていることではない。問題は、あなたが、検事であることだ」
「どういう、意味ですの?」
「あなたの精神は、分析し、分解し、そして、支配するように、訓練されている。だが、この力は、解釈すべき法律ではない。導くべき、大河なのだ。あなたのその強すぎる理性が、この力を無理やり抑え込もうとするから、力は、より、激しく、反発する」
彼は、私に、一つの、古い書物を手渡した。
「もし、あなたが、会議の場で、その力と、調和することができなければ……。あなたのその理性が、最も必要とされる、その瞬間に、この力は、あなたの全てを、内側から、食い破るやもしれんぞ」
彼の言葉は、死刑宣告のように、私の心に突き刺さった。
***
自室に戻った私は、ただ、呆然と、椅子に座り込んでいた。
失っていた自信が、ほんの少しだけ、顔を出す。
(……私には、無理、なのやもしれない)
その時、静かに、扉が開いた。カイン卿だった。
彼は、私の様子がおかしいことに、気づいたのだろう。
彼は、何も言わず、ただ、私の前に立った。
「……カイン卿。私は、怖いのです」
私は、初めて、彼に、自分の弱さを、見せた。
「私は、ずっと、法と、論理だけを、信じて生きてきた。ですが、今の私は、私自身の中に、私の理解できない、怪物を飼っているようですわ」
彼は、私の言葉を、ただ、黙って聞いていた。
そして、静かに、しかし、力強い声で、言った。
「俺は、難しい魔法のことは、分かりません。ですが、あなたのことは、分かる」
「あなたは、今にも、砕けてしまいそうな顔をしている」
彼は、跪き、私と視線を合わせると、言った。
「ならば、話は簡単です。あなたのその理性が役に立たない時は、俺の力に、頼ればいい」
「あなたのその力が暴走する時は、俺が、あなたの盾になる」
「俺は、ここにいます。それだけは、決して、変わりません」
彼の、その、どこまでも真っ直ぐな言葉。
それが、私の、砕けそうになっていた心を、強く、強く、繋ぎとめてくれた。
そして、運命の朝が来た。
臨時御前会議、当日。
私は、法務大臣としての、正装を身にまとい、鏡の前に立つ。
手袋の下で、手の甲の紋章が、まだ、微かに、脈打っている。
だが、もう、恐怖はなかった。
扉の外で、カインが、私を待っている。
私は、深く、息を吸い込んだ。
「――始めましょう」
外なる敵と、そして、内なる自分との、最後の戦いが、今、始まろうとしていた。




