第58話:検事の閃きと騎士の信頼
「――ルクレツィア、下がれ!」
カイン卿の絶叫が、大地から生まれた獣たちの咆哮にかき消される。
彼は、その白銀の剣を、まるで嵐の中の灯台の光のように、目まぐるしく振るい、私へと殺到する泥の獣たちを次々と打ち砕いていく。剣に込められた聖なる気が、穢れた魔力でできた獣たちには、有効なようだ。
だが、一体を倒しても、また二体が、乾いた大地から湧き出してくる。切りがない。このままでは、彼の体力が尽きるのが先だ。
私は、カインの背中に守られながら、ただ、震えてはいなかった。
この絶望的な状況で、私の頭脳は、検事として、逆説的に、かつてないほど、冷静に、そして、クリアに冴えわたっていた。
(戦うべきは、あの獣たちではない。元凶は、あの黒い石……!)
右手の甲の紋章が、脈打つように、激しく痛む。
だが、その痛みは、私に、あの石の「本質」を、教えてくれていた。
(あれは、契約書。土地の精霊から、一方的に、生命力を『収奪』し続ける、あまりにも不公正な、寄生契約……。だが、どんな契約にも、必ず、その効力が及ぶための『前提条件』があるはず……!)
私の目が、渇ききった泉の底を、高速でスキャンする。
ひび割れた大地。枯れ果てた植物。死の景色。
だが、その、ただ一点。
黒い石の、すぐそばの、岩の裂け目に、奇跡のように、一輪だけ、青い花が咲いているのが、見えた。
それは、清らかな魔力を持つ水のほとりにしか咲かないという、幻の花、『泉の涙』。
(……間違いない。この土地の精霊は、まだ、死んではいない!)
私は、閃いた。
(この寄生契約は、生きている宿主からしか、力を吸い上げられない。ならば……!)
ならば、その宿主の命の光を、たとえ一瞬でも、「ゼロ」にすることができたなら!
私は、獣の群れの中で孤軍奮闘するカインに向かって、叫んだ。
「カイン卿! あの石です! 石そのものではなく、その“契約”を破るのです!」
「何をおっしゃって……いるのですか!」
彼は、泥の爪を剣で弾きながら、叫び返した。
「あの契約は、この泉の精霊の生命力を、糧にしている! その繋がりを、一時的に、断ち切るのです!」
私は、泉の中心、あの黒い石の、すぐ隣の、何もない地面を、指さした。
「お願いです! 私を信じて、あなたの剣を、そこに! 泉の、心臓部に、突き立てて!」
「なっ……! それでは、精霊が、完全に……!」
セレーネ侯爵が、悲鳴を上げる。
だが、カインは、一瞬だけ、私を見た。その瞳には、私の意図を理解できない、当然の戸惑いがあった。だが、それ以上に、私の言葉を信じようとする、絶対的な信頼の光が宿っていた。
「……あなたの、言う通りに!」
彼は、賭けに出た。私の、この無謀な策に、全てを。
カインは、雄叫びを上げると、前方の獣たちを力任せに薙ぎ払い、一瞬の活路を切り開く。そして、その勢いのまま、泉の中心へと跳躍した。
彼は、その白銀の剣に、ありったけの聖なる気を込めると、私が指さした、乾いた大地の、その中心点へと、深々と、突き立てた!
ズンッ、と。
大地が、一度だけ、大きく、悲鳴を上げるように、揺れた。
私の頭の中にだけ、精霊の、か細い、断末魔の叫びが響き渡る。
それと同時に、あの禍々しい黒い石に刻まれたルーンが、激しく明滅し、そして、ふっ、と、その光を完全に失った。
契約が、破棄されたのだ。
その瞬間、私たちを取り囲んでいた、数十体の泥の獣たちが、一斉に、その形を失い、ただの土と、枯れ葉の山へと、崩れ落ちていった。
静寂が、戻る。
やがて、カインが剣を突き立てた場所から、ぽつり、と、一滴の、清らかな水が、染み出した。
それは、次々と、仲間を呼び、やがて、小さな、せせらぎとなって、再び、流れ始めた。
死んでいた川が、今、産声を上げたのだ。
私は、安堵に膝をつきそうになりながらも、最後の仕事のために、魔力を失った、あの黒い石へと、歩み寄った。
そして、その裏側を見て、息を呑んだ。
そこには、魔法のルーンではない、一つの、小さな刻印が、刻まれていた。
それは、アステリア王国でも、最も古く、そして、最も排他的とされる、ある公爵家の、紋章だった。
「精霊解放戦線」の、首謀者と噂される、あの男の。
私は、その紋章の写しを、震える手で、手帳に描き写した。
「……見つけましたわ、カイン」
私は、駆け寄ってきた彼に、その手帳を見せる。
「これが、この犯罪の、動かぬ証拠。そして、私たちの、次なる目的地です」




