第56話:渇いた大地と検事の視点
王都を出て南へ向かう馬車の中から見える景色は、進むにつれて、その彩りを失っていった。
豊かな緑に覆われていた大地は、次第に乾いた土の色を覗かせ、農夫たちの顔には、天を仰ぎ、助けを求めるような、深い絶望の色が浮かんでいた。命の源であるセレーネ川が枯渇したという報せは、すでに、この南部一帯に住む全ての人々の心を、暗い影で覆い尽くしていた。
「……ひどい、状況ですわね」
馬車の窓から、干上がった用水路を眺めながら、私が呟く。
「ええ。ですが、今は、ご自身のことに集中してください」
向かいの席に座るカインが、真剣な目で言った。「あなたのその手……紋章は、何か感じますか?」
彼の問いは、自然だった。彼はもう、私の秘密を共有し、共に戦う、唯一無二のパートナーなのだ。
私は、手袋に覆われた右手に、意識を集中させる。
「……ええ。王都にいた時よりも、ずっと強く。微かですが、絶え間なく、不協和音のようなものを感じます。まるで、この土地そのものが、悲鳴を上げているかのようですわ」
「ならば、俺の務めは一つ。あなたが、その『悲鳴』に耳を澄ませられるよう、あらゆる物理的な脅威を、あなたから遠ざけることです」
彼の言葉に、私は、静かに頷いた。
***
セレーネ侯爵領の城館に到着した私たちを、憔悴しきった様子のセレーネ侯爵が出迎えた。
「おお、法務大臣閣下! よくぞ、お越しくださいました!」
彼は、私たちにすがりつくように言った。「これは、呪いです! 我が領地が、何者かの呪いを受けたに違いありません!」
だが、私は、彼のその言葉を、冷静に制した。
「侯爵。呪いとは、魔法を使って行われる『犯罪』に過ぎません。そして、全ての犯罪には、犯人がいて、犯行の手口があり、そして、動機があるはずです。私たちは、これを、天変地異や呪いとしてではなく、一つの『事件』として、捜査を開始します」
私のその言葉に、侯爵は、呆気に取られたような顔をした。
私は、彼に、セレーネ川の、最も詳細な地図を要求した。特に、その水源地に関するものを。
「川が、その中流から、忽然と姿を消すことはありません。もし、これが人為的な『事件』なのであれば、その犯行現場は、必ず、川の源流にあるはずです」
検事としての、私の捜査の第一歩。それは、常に、現場の特定から始まる。
***
侯爵の案内に従い、私たちは、かつて聖地として崇められていた、山脈の奥深くにある、セレーネ川の源流へとたどり着いた。
そこは、神聖な泉があったとは思えぬほど、無残な光景を晒していた。
大地は、渇き、ひび割れ、全ての生命が、その潤いを失っている。空気には、よどんだ、不自然な魔力が、濃霧のように立ち込めていた。
その場に立った瞬間、私の右手の甲が、ズキン、と、激しい痛みと共に、熱を帯び始めた。
「……っ!」
「ルクレツィア!」
私の苦痛に気づいたカインが、即座に私の前に立ち、庇うように周囲を警戒する。
私は、痛む手を抑えながら、泉の中心を見つめた。
そこだけが、おかしい。
全てのものが乾ききっている中で、その中心に、一つだけ、濡れたように黒く、周囲の岩とは明らかに異質な、黒曜石のような石が、鎮座していた。
カインも、それに気づいたようだった。
「……大臣。あれを」
その石は、まるで、この土地の全ての潤いと、魔力と、生命力を、ただ、それ一つで吸い上げているかのようだった。
そして、その表面には。
これまで、一度も見たことのない、歪んだ、禍々しいルーン文字が、まるで、地の底から響く、不気味な笑い声のように、刻みつけられていた。
間違いなく、これが「犯行現場」であり、そして、これが、全ての元凶だった。




