第55話:干上がった川と巫女の共鳴
「――セレーネ川が、干上がった……?」
伝令の報告は、にわかには信じがたいものだった。
法務省の執務室に、緊張が走る。セレーネ川は、南部の広大な穀倉地帯を潤す、文字通りの「命の川」。それが枯渇したとなれば、大規模な食糧危機、ひいては、王国の経済そのものを揺るしかねない、未曾有の大事件だ。
「原因は、分かっているのですか」
私の問いに、伝令は、困惑したように首を横に振った。
「それが……全く。上流で、大規模な土砂崩れがあったわけでも、堰き止められた形跡もない、と。ただ、まるで、大地に飲み込まれたかのように、水だけが、忽然と……」
「……魔法、か」
私の背後で、報告を聞いていたカイン卿が、低い声で呟いた。
その言葉に、私は、自分の右手の甲を、強く握りしめる。昨夜、この手が、かすかに光を放った、あの時の、嫌な感覚が蘇る。
「ルクレツィア大臣。これは、もはや、我々法務省が扱うべき、法的な事件の範疇を超えています。宮廷魔術師団に、調査を委ねるべきでは?」
法務官の一人が、もっともな意見を述べる。
だが、私は、直感的に、そして、検事としての嗅覚で、感じていた。
これは、ただの魔法犯罪ではない。もっと、根源的な、この国の理そのものに関わる、大きな事件の、ほんの始まりに過ぎない、と。
「いいえ」
私は、きっぱりと言った。「この件、法務省の直轄案件として、私が直接、調査の指揮を執ります」
私の決断に、その場の全員が、息を呑んだ。
「カイン卿。すぐに、調査団の編成を。最低限の人数で、しかし、最高の精鋭を集めてください。私も、現地へ向かいます」
「……危険です、大臣」
カインが、即座に反対した。「原因不明の天変地異が起きた場所に、あなた様自らが行くなど……」
「だからこそ、私が行くのです」
私は、彼の、心配そうな赤い瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。「法務大臣として、この目で、全ての事実を確かめなければなりません。それに……」
私は、言葉を濁した。
(この事件が、私の、この“力”と関係があるのなら、私が行かなければ、何も始まらない……)
***
その日の午後。
調査団が出発する直前、私は、一人、カインの執務室を訪れた。
「カイン卿。一つ、あなたにだけ、お伝えしておかなければならないことがあります」
私は、意を決して、右手の、白い手袋を外した。
そして、そこに浮かび上がる、淡い光を放つ、聖なる紋章を、彼に見せた。
彼の目が、驚愕に見開かれる。
「これは……一体……」
私は、あの禁書庫で知った、全ての真実を、彼にだけ、打ち明けた。
私が、「古の盟約」の“鍵”であること。そして、この力が、私の意思とは関係なく、暴走を始めた盟約と、共鳴している可能性があること。
全てを話し終えた私に、彼は、何も言わなかった。
ただ、その場に、静かに片膝をつくと、私の、紋章が浮かぶ右手を、その両手で、そっと、包み込んだ。
「……そうでしたか」
彼の声は、どこまでも、穏やかだった。
「ならば、俺の任務は、より、明確になりました」
彼は、顔を上げた。その瞳には、恐怖も、憐れみも、一切ない。
ただ、絶対的な、覚悟の光だけが宿っていた。
「あなたが、法務大臣であろうと、盟約の“鍵”であろうと、関係ない。俺は、ただ、あなたという一人の人間を、お守りするだけだ。この命に、代えても」
彼の、温かい手に包まれた、私の手の甲の紋章が、ふわりと、これまでで、最も優しい光を放った。
それは、まるで、彼の覚悟に応えるかのような、温かい光だった。
「……行きましょう、カイン」
「御意、ルクレツィア」
私たちは、新たな、そして、より巨大な謎が待つ、南の地へと、旅立った。
法と、魔法が交錯する、未知の事件の、真相を突き止めるために。